第61話
ランチはまた別のバンケットルームに準備されていた。
ビュッフェ形式である。
食事するのは、二人の試合に立ち会ったメンバーのみ。
つまり太郞とスターン本人を入れても総勢12名しかいないのだが、部屋の広さと料理の総量は、百人規模のパーティーが開けるほどで用意されていて、太郎たちを唖然とさせた。
壁一面に料理が並べられ、いくつかはコックがその場で調理している。
フロアスタッフも多数揃っており、食べる人よりホテル側の人数のほうが多いのである。
「さあ、待たせたね。ではランチにしよう」
笑顔で告げるスターンの右手は応急処置として三角巾で吊られている。
ホワイトヘッドはトレーナーのときに勉強したスポーツ医療の知識もあるのだそうで、スターンの右腕の様子を見て、とりあえずいまはこれでいいだろう、と動かさないようにだけしたということだった。
それではご飯が食べられないのでは? と太郎は思ったが、そこは妻のキャサリンがかいがいしく夫の面倒を見ていて、何の心配もなかった。
それにしても、と太郎は試合を思い返した。
(いやもう、ぎりっぎりだったなぁ)
まさに最後のパンチを放つ直前に、セーフモードが発動したのだった。
したがってさすがに全力でこそなかったが、パンチ自体は実はスターンをK.O.するつもりで放ったものだ。
ところが当たる前に力が抜けてしまって、フォームは崩れたし力も込められないしで、恐ろしく恥ずかしい出来になってしまった。
あの冗談みたいなパンチ力が、セーフモードなら太郞の精一杯であって、ナノマシン体でなければ太郞の生来の力といって良い。
どうもスターンおよびスターン一家は、最後に太郞が情けをかけたと思って感謝されている節があるのだが、とんでもない。
単に思ったよりもコンマ数秒ほど、セーフモードが早く来てしまっただけなのである。
結果オーライとはいえ、勘違いで褒められたり感謝されることほど気恥ずかしいものはなく、太郞は居心地の悪さを抱えながらランチに臨んでいた。
「あの、すみませんが」
恥ずかしさを押し隠すようにして、太郞ははじめに宣言した。
「いろいろお話したいことはそれぞれあると思うんですが、ぼくはまず食べます! お話はそれから、ということでよろしくお願いします」
スターンはもちろん、ホワイトヘッドや戸沢も、前のめりで太郞に話を聞きたそうにしている。
そして加藤や佳子、真理も同様だ。
一方で外山はなんだかちょっと元気がないように見えた。そしてことりが落ち着いているのは、話が聞きたくないわけではなく、単に後から個人的にじっくりたっぷりこってりと聞くぞ、と考えているからであった。
自分はいまじゃなくてもいいから、と思って気持ちにゆとりがあるだけなのである。
同席者を牽制し、太郞は皿の載ったトレーを抱えて料理の前へまっしぐらに歩いて行く。
もう空腹は限界を超えていて、このボリュームたっぷりのビュッフェが天国に見えた。
そうして太郞がテーブルに持ち帰ったのは。
スターンの現役時代の食事量と比べても、三倍ほどはあろうかという盛り付けの皿の数々であった。
これには試合のときとは違った意味で、ことり以外の全員が目を剥いた。
既に太郞のお弁当を見たことのある真理でさえ、思わず口を開けて眺めたほどだ。
「いただきます」
日本流に手を合わせて始める食事は、とくにスターンの息子たちには珍しく映ったようで、太郞の仕草を見て上の息子はキャサリンに何やら訊いているし、下の息子は意味もわからず格好を真似してきゃっきゃと笑っている。
太郞は例によって同じペースで淡々と食べ続け、結局同じ量を盛ったトレーを三度自分の前に置いて、すべてきれいに平らげた。
作りたてばかりではないビュッフェなので、一品ごとに提供されるコース料理より多少味が落ちるのはやむを得ないとしても、ホテルが特別な顧客用に用意した食材と調理人による料理の数々である。
どれも十分に美味で、日頃食事のえり好みをしない太郞でも、ついいつもよりたくさん食べてしまったのだが、それでも三回で全種類の制覇には至らず、ちょっと残念だったなと思っていた。
まだ食べようと思えば食べられたが、まあこのくらいにしておこうかな、と口元をナプキンで拭いて顔を上げた太郞は、自分の食事の手を止めたテーブルの全員、いやホテル側のスタッフまで含めて、周りから注視されていることに気づいて赤くなった。
「……もう、おわりかな?」
ホワイトヘッドがおそるおそるといった表情で訊いてきた。
「それとも、まだ食べるつもり? というか……それで身体大丈夫なの、穂村君」
次に言葉を発した戸沢は、ホワイトヘッドの言葉を訳すのも忘れて心配そうに太郞に尋ねる。
「あ、はい……ダイジョウブデス。コレデオワリニシマス」
赤い顔で応える太郞に、「なにその英語っぽいカタコト日本語」と真理が突っ込んだ。
ビュッフェにももともとスイーツのラインナップは充実していたが、みなが満足するまで食べ終えたとみるや、スターンはあらためて食後のデザートと飲み物を全員分注文して、それぞれの前にまたビュッフェには並べられていないスペシャルなスイーツが用意された。
佳子がぼそりと「あたし、今日ほど自分が庶民だと思い知った日はないわ」とつぶやき、真理が激しく頷いている。
デザートタイムに入ってからは遠慮無用とばかりに、とくにホワイトヘッドは食いつきそうなほど太郞を質問攻めにした。
「いつからボクシングをやっていたのか」「誰に師事したのか」「どうやってあそこまでスターンのスタイルを身に付けたのか」「これまでの主な戦績はどうだ」「いずれプロとしてデビューするつもりはあるのか」「基礎体力の数値は測ったことがあるか」「日頃どんなトレーニングをしているのか」「中学を出たらアメリカに来る気はないか」などなど、いくらでも訊きたいことがあふれてくるようで、見ている限り最終的には太郞をボクサーとしてプロモートしたいと考えているのは明白だった。
ホワイトヘッドが悪人ではないことはわかっていたが、それでも太郞には自分の力をプロボクシングなど表舞台で使う気はまったくなかったし、またこの力を利用されるのはもっとまっぴらだと思っていたので、プロボクサーになるつもりはないといった、はっきり答えられるもの以外は、ほとんどの質問に対して「お答えできません」としか言わなかった。
さすがに、本格的なボクシングはほんとうに今日が初めてでした、といって信じてもらえるとも思えなかったこともある。
正しく真実を言えば言うほど、相手からばかにするなと怒られたのでは割に合わない。
初めのうちは通訳をしつつ、自分の知りたい質問も我慢できず間に挟んできていた戸沢であったが、太郞の態度を見るにつけ、だんだんと冷静になってきたらしく、ずっとヒートアップを続けるホワイトヘッドに、ちょっと非難めいた目線を向けるようになってきた。
やはり太郞はまだ子どもであり、ビジネス臭たっぷりの会話に巻き込むのは適切ではないと、戸沢は考え始めたのだった。
同じように、しばらくじっとホワイトヘッドと太郞の会話を聞いていたスターンは、やがて小さく「サム」と呼び掛けた。
一回では気づかず、三回目くらいでようやくホワイトヘッドがスターンの声にはっと振り向く。
「サム、そのくらいにしておいてくれ」
「あ……。クリス、だが見ただろう、この少年を。クリスに勝つ逸材だぞ? こんな……」
「サム」
今度の呼びかけには若干の威圧が入り、ホワイトヘッドが小さくびくりと震えた。
「なあ、サム。確かに太郞はすごいよ。私に真っ向勝負で勝ったのだ。世界中見渡しても、ほかにこんなことのできるものはまずいないだろう。だがサム。よく考えてくれ」
「? 何をだい?」
「なぜ、太郞がいままでこの力を伏せてきているのだと思う?」
「……え? いや……伏せているのか?」
ホワイトヘッドはびっくりしたように太郞を見る。
「伏せているとも。何しろ、彼の友人たちが試合前に心配する様子を見ただろう? もし完全にオープンにしているなら、彼ほどの強者を友人が知らないことなどあるものか」
「あ、それは……うむ。まあ、確かに。だがなぜ伏せる必要があるんだ? こんなに素晴らしい力なのに」
「やりたくないからだよ、サム。太郞は、この力を振るって世界に君臨したいなどとは思っていないのだ。太郞の望みはそこにない」
「そ、そんな! いやそんなもったいないことが許されて良いわけが」
ホワイトヘッドが太郞とスターンを交互に見ながらあたふたと言い募る。
「良いんだよ、サム」
「……クリス?」
スターンは、身を乗り出してじっとホワイトヘッドを見た。
「許されて良いんだ。いや、そうでなくてはならないんだよ、サム」
ホワイトヘッドが言葉に詰まる。
「私はボクシングが好きだ。人生を捧げている。だが、太郞はそうじゃない。太郞の幸せは太郞が決めることで、太郞がいくら優れた才能を持っているとしても、周りが強制することではないんだ」
「だ、だが!」
「サム」
あきらめきれない様子のホワイトヘッドに、スターンは辛抱強く語りかけた。
「きみもボクシングとともに生きてきたんだろう? ならわかるはずだ。もしも望んだ道が向いている道であったなら、それは素晴らしいことだ。私はたまたま、その幸運に恵まれた。でもたいていの人はそうじゃない。
もしも向いていないとわかったら、やってはいけないのか? 向いているものが見つからない人間は、何もしてはならないのか? そうじゃないだろう。誰もが、望んだことをしていいのだ。望まないなら、向いているとしてもやる義務はないのだ。
ならば、向いている道と、望んだ道が重なっていないとき。選ぶとしたら幸せなのはどっちだと思う? きみは、どっちを選んできたんだ?」
ホワイトヘッドも、かつては選手としてボクシングを始めている。
だが、その道では大成できなかった。
それでもボクシングとの関わりを求め、トレーナー、マネージャーと職種を変えながら、ジムの中に居場所を探し続けてきた。
そうして、スターンとの出会いを得たのだ。
スターンの信頼を勝ち取り、専属に選ばれたときはどれほど嬉しかったことか。
ボクシングから離れなくて良かったと、心底喜びに震えたことを思い出す。
「人に言われて選んだ道でなかったから、いまのきみがあるのだろう? 違うかい?」
ホワイトヘッドは黙り込んだ。
人生におけるターニングポイントのいくつかで誰もが考えることである。
はたして自分の選択は正しかったのか。
それとも誤りだったのか。
それは最後まで誰にもわからない。
死ぬときに、良い人生だったと思って死ねるのかどうか。
その瞬間まで判定は決められないのである。
だが選択の連続である人生において、それが少なくとも間違いではなかった、と思えるようにしたいのなら、それはやはり自分自身にしかできないことであろう。
自分だけが、自分の人生の選択を正解にできる。
だとすれば、如何に周囲から見てもったいないと思えたとしても、他人の人生に「するべき」での選択肢を本人以外が押し付けることは、やってはならないことなのかもしれない。
「うーむ」
「わかってくれるかい、サム」
ホワイトヘッドは、しばし考えてから、スターンを見て一度頷き、次に太郞を見た。
「うん、わかったよ。ただ、私はあきらめが悪い。そして太郞、きみはまだ若い」
そしてどこからか名刺を取り出し、太郞に向かって差し出した。
「もし、この先きみの気が変わる日が来たら、私に真っ先に連絡をくれないか。待っているよ」
ぷっとスターンが吹き出した。
「なるほど、それもまたきみらしいな、サム」
ホワイトヘッドがにやりと笑う。太郞は苦笑しながら名刺を受け取った。
「ところで」
スターンが太郎の方を見た。
「私もひとつ訊きたかったんだ。あの、最後にきみが使った技は何なんだい?」
「技……? ああ、あの腕を押しつけたやつですか?」
「そうだ、あんなのは初めてだった。まったく自分の身体をコントロールできなくなって、驚いたよ」
太郞は、それは中国拳法の技であると説明した。
『気』の説明は難しかったし、理解されないと思ったので省き、単に相手に触れることによって動きを読み取り、先へ先へとちょっとずつ動きを阻害することで、バランスを崩していく技だと伝えた。
「ほう……カンフーの技術だったのか、うーむ」
スターンは考え込む。
信じられないのか、それとも何か別のことを考えているのか。
その間に、ホワイトヘッドが「自分にも体験できるか?」と言い出した。
「できますよ」
太郎が答えると、ではやってくれ、と立ち上がる。
ここで? と思ったが、部屋は広くてテーブルの脇にスペースはたくさんあったし、高級な厚手の絨毯が敷き詰められて、転んでも怪我はしなくて済みそうだった。
じゃあ、と太郞も席を立ち、テーブルから少し離れた場所に、ホワイトヘッドを立たせた。
そうして黄が自分にしてくれたのと同じように、腕を前に出させ、自分の腕と交差させた。
(とはいえ、あのときはぼくが体験側だから、立場が逆だな。ただ相手のサイズはだいぶ大きいけど)
太郞は内心苦笑しつつ、ホワイトヘッドに「好きに動いてください」と言う。
そして動き出したホワイトヘッドは、10秒足らずの間にステーンと後ろ向きにひっくり返ることになった。
「な……なんだ、こりゃ? わからん、もう一回やってくれ!」
結局、ホワイトヘッドは後ろに逃げたり、逆に太郞に向かってこようとしたり、都合三回も太郞に転ばされて、それでも何が起きているのかわからないと首をひねりながらぶつぶつ考え込んで、席に戻った。
そのあとは普通の雑談になった。
太郞はスターンの妻のキャサリンからもいろいろ質問されたり、スターンの息子たちからいつか父のリベンジをする、と挑戦を受けたり、戸沢から普段の食生活について訊かれたりした。
見ていると、佳子はスターンよりも戸沢の通訳という仕事にかなり興味を持ち、あれこれと訊いていたようだ。
ことりは終始おとなしく慎ましやかで、太郞は後がちょっと怖かった。
加藤に真理は、ともかく驚いたことが多すぎて、まだ消化できていないといった様子であるが、ランチはデザートまでしっかり食べていた。
外山は相変わらずどこか元気がないようで、体格の割には食べた量もたいしたことはなかったため、太郞はちょっと心配になった。
(体調悪いのかな?)
見たところ気脈におかしなところはなさそうで、ならば身体の不調ではなく精神面なのかもしれない。
しかし傍若無人を形にしたような外山が、メンタルで不調になる理由が太郞には想像がつかなかった。
まして、まさか自分が原因であるなどと、わかるはずもなかったのであった。
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