第62話
「さて、楽しいランチだったが、そろそろ終わりにしようか。太郎たちも、帰りの時間は決まっているんだろう?」
スターンがテーブルで思い思いに話を続けるメンバーに向かって呼び掛けた。
太郞も時計を見て、確かにもうかなりの時間が経ってしまっているのに気づく。
「それで、だ」
とスターン。
「太郞。きみが私との試合を受けてくれたことに対して、何かお礼がしたい。何が良いだろうか?」
太郞はびっくりしてスターンを見上げる。
「え、こんなすごいランチをご馳走になったのに、その上にお礼なんて要りませんよ?」
「いやいや」
スターンは首を振った。
「ランチはお礼ではない。もともとこちらが誘った側なのだからね。今日の試合は、私の生涯のどの試合よりも忘れがたいものになった。しかもきみは本来、こうした試合を進んでやりたいとは思っていなかったのだろう? そうでなければ、はじめに交わした約束は必要なかったに違いないからね」
スターンは、太郞ににやりと笑いかけた。
「にもかかわらず、きみは私の願いを聞き届けてくれた。その恩と、この素晴らしい試合に対して、何も感謝の印なしにきみを帰らせるわけにはいかないよ」
「ええ……?」
正直なところ、始めに願い出たとおりに、今日ここで試合したこと自体をなかったことレベルに秘匿したいのが太郞の本音である。
とはいえ、スターンの思いも無碍にはできなかった。
しばらく考えて、太郞は言った。
「……では、今日の記念に、スターンさんが普段使っているものか、身に付けているものを何かください」
「うん? そんなものでいいのか」
「約束をお願いしたとおり、試合のことは立ち会った人だけの秘密にして欲しいんです。でも、今日この場でスターンさんと会えたことは、この先ずっと忘れないようにしたい。その思い出となるような記念品をもらえればいいかと思ったんですが、どうですか」
「ふむ?」
スターンが太郞の提案を思案し始める。
「いいんじゃないか?」
ホワイトヘッドが言った。
「今日、彼らをランチに招待したことは事実であるし、それは隠しようがない。だから、クリスから何か記念品をもらったところで、それはおかしなことではないだろう」
「まあ、そうか」
「ほんとうはそれが何の記念であるのか、持ち主だけがわかっていればいい。違うかい?」
「……なるほどな。うん、いいだろう」
スターンは頷き、次いでおもむろに自分の腕に嵌めていた時計を外そうとしたので、戸沢とホワイトヘッドが慌てて「ちょっと待って!」と叫んだ。
「なんだ? ずっと使ってきた愛用の腕時計なら、記念にちょうどいいだろう?」
スターンが二人の異議に不思議そうな顔をする。
「いやいやいや!」
「ダメです! それは良くないわ!」
二人から猛反対を受けて、スターンが不満顔になった。
「クリス、考えてもみてくれ。それはきみのために作られたスペシャルモデルで、きみの腕に付けるにふさわしいのは当然だが、見せかけとはいえランチの記念にジュニアハイの少年が受け取って良いものではない。それにはまったくふさわしくないよ!」
ホワイトヘッドとスターンが言い合っているそばで、太郞がそっと日本語で戸沢に訊く。
「……あれ、高いんですか?」
太郞の視力は、時計の盤面にちりばめられた複数の宝石を捉えていた。
戸沢は大きく頷き、太郞でも名前は知っているスイスの高級時計メーカーを挙げた。
「統一チャンピオンになった記念のクリス・スターンモデルよ。ミスター・スターンはメーカーから無償で受け取っているはずだけどね。買うとしたら……そうね、たぶん東京23区内に家が建つ値段よ」
ぶほっと太郞が吹き出す。
太郞は立ち上がって叫んだ。
「だ、ダメです、スターンさん。そういう高額なものは選ばないで! お願いします」
焦った太郞本人にも拒否されて、スターンは渋々腕時計を元の通りに嵌め直した。
「えー、もらっちゃえばいいのに、もったいなーい」
真理が軽い調子で言うが、太郞は「冗談じゃない」とぶんぶん首を振った。
いくら記念といっても、都心で家が買えるような高額な代物をもらうわけにはいかない。
とはいえ、と太郞は考える。
どんなものにせよ、クリス・スターンが間違いなく使っていたと証明できるものであるなら、例えば使い捨てのスプーン一本であっても、オークションに出せばなにがしかの価値が付いてしまいそうだ。
スターンとはそれほどの存在であり、おそらくこれからボクシング界のレジェンドとしての名声を、さらに高めていくと考えられるからだ。
(う……ちと選択を誤ったか? そうは言っても、この場で思いつくものなかったんだよなぁ……)
高額なものは止めてくれ、と言ったそばから、じゃあスターンの持つ高級車とビンテージカーとスーパーカーしかないクルマのコレクションから、好きなのを選べなどと言い出されてのけぞるなど、すったもんだの挙げ句にスターンからは結局、愛用のサングラスにサインを入れたものを記念にもらうこととなった。
それとても有名サングラスメーカーのクリス・スターン専用モデルであり、所有の経緯から考えればおそらく市販品とは似て非なる一点ものであることは確実で、決して安価とは言えないことを知っている戸沢は複雑そうな顔になったが、まあ時計やクルマなどよりはうんとマシと目を瞑ることにしたのを、太郎は戸沢の表情の変化だけは気にしていたものの、理由まで察することはできなかった。
スターンは、せっかくだからと言ってことりたち五人にもお土産をくれた。
「もともとファンサービス用にと持ってきたもので悪いのだが」
と断わりつつ、日本では販売していないスターンのジムデザインのTシャツに、痛む右手でわざわざ一枚ずつ直筆サインを入れて手渡してくれたのだった。
ただメンバーの中でも外山やことりはまだしも、小柄な佳子には適正なサイズがなく、「着たらぶかぶかよね、まあサイン入りじゃあもったいなくて着れないけど」と言って苦笑していた。
その上でスターンは、太郞に向かって「最後に一つ、頼みがある」と言い出した。
「……なんでしょう?」
率直に言って、太郞は文字通りもうお腹いっぱいの気分だったので、まだあるのかと思わなくはなかったが、スターンの申し出は太郞の思いもよらないものだった。
「このグローブに、きみのサインが欲しい」
差し出されたのは、今日の試合で太郞が使ったボクシンググローブである。
太郞の目が点になった。
「ぼくの……サインですか? ええっ! なんで?」
スターンは笑いを含んだ顔で返してきた。
「この私に勝った素晴らしい選手の使ったグローブだよ? いわば地上最強の男の証といってもいいくらいだ。記念にサインをもらったって、ちっともおかしくないだろう?」
「ちちち、地上最強ってそんな! いやだって、ぼくサインなんてしたことないし……」
「なに? 日本人は自分の名前を書かないのか?」
主に米国で暮らし、日常生活でサインが当たり前のスターンにとって、子どもといえどサインしたことがないという太郞の返事は理解しかねたらしく、戸沢がスターンに、日本では一般的な署名としてのサインの機会が少なく、サインと言えば著名人が書くスターサインと捉える習慣の違いを説明しなくてはならなかった。
それでもスターンが苦笑しながら「名前を書いてくれたら良いんだ、難しくない」といってグローブとマジックを差し出してきたので、太郞はおっかなびっくりでグローブに『TARO.H』と、「日付も入れてくれ」と言われて今日の日付をマジックで書いたのであった。
受け取ったスターンは、そのグローブをしばし感慨深げに眺め、頷いた。
「ありがとう、太郞。これは私の一生の宝物だよ」
そんな大げさな、と照れる太郞は、スターンと最後の握手を交わしホテルを辞去した。
バンケットルームを出るとき、太郞がふと「そういえば、ホテルの人の前で、試合の話も結構しちゃいましたね……」と心配そうにつぶやくと、それを戸沢から通訳してもらったホワイトヘッドが笑い出した。
「ははは、大丈夫だ。ここは世界のセレブを迎える特別なエリアだよ? もちろん絶対にないとは言えないけれど、宿泊客のプライバシーを漏らすような従業員は、まずいないさ。それに……」
ホワイトヘッドはウィンクしてみせる。
「もし情報漏洩があったとわかったときには……我々は慰謝料で大儲けだ」
そばで聞いていたランチスタッフのチーフと思しき男性従業員が苦笑して頷いたので、太郞もちょっと安堵した。
ホテルに入るときはボディガードの警護があったが、出るときに日本人の中学生だけが場違いなホテルから現れて、悪目立ちしない方が良いだろうと、戸沢の機転で太郎たちは従業員用の通用口から出してもらった。
のちにスターンはボクシングの殿堂入りを果たし、死後には様々な資産や所有物が公開されて、あるものはオークションに出されたり、あるものは博物館に展示されたりといったことになるのだが、スターンの研究家を以て任じる人々にとっても、どうしても来歴のわからないものがひとつあったという。
それが、彼が生涯手放さず身近に置いていたとされる、『TARO.H』のサインの入った、小さな古びたボクシンググローブであった。
日付は記録からスターンが日本に行ったときのもので、名前も日本人の名前であろうというところまではわかっても、『TARO.H』が誰なのか、そしてなぜそれがスターンの手元にあって、スターンがなぜ大切にしていたのか、といったことは一切わからなかったのだ。
そもそもグローブの出てきたのがスターンの死後で、そのときには妻のキャサリン、日付当時のマネージャーであったサミュエル・ホワイトヘッドも既に亡くなっており、存命で話の聞けたのは、スターンの二人の息子だけであった。
しかしその息子たちも、懐かしそうに笑うだけで、何も質問に答えてはくれなかったという。
パークに戻った太郞たちは、時計を見て唸る。
「うわー。もうこんな時間。これ、予定めちゃくちゃだわ……」
「集合時間、もうすぐ来ちゃうね」
「あの……なんか、ごめん」
謝る太郞に、佳子と真理がびっくりして「何言ってんの?」と返す。
「予定どおりに遊ぶより、ずっとすごい体験させてもらったんだよ? 穂村君が謝る話じゃないって」
「そうそう、あんな美味しいランチと、お土産まで付いてきたんだから! むしろこっちがお礼を言うほうよね」
「あの、それなんだけど……」
太郞はおずおずと班のメンバーに向かって口を開いた。
「できれば、今日の試合のことは内密でお願いしたくて……ど、どうかな?」
真っ先にことりが大きく頷く。
外山も、「フン」と鼻を鳴らしていちおうの同意を示した。
加藤と佳子、真理は三人で顔を見合わせると、一斉に笑い出した。
「いやー、あたしも内緒にしたらもったいないと思うんだけどね」
「うん、そうよね」
「だけどさぁ。おれたちのクラスの、日本の中学三年生が、クリス・スターンにボクシングで勝った、って言って」
「誰が信じてくれるってのよ?」
「見てたあたしたちが、まだ信じられないくらいだもんね」
「誰かに話したら、こっちが正気を疑われちゃう」
「だからね、大丈夫よ。あたしたちも話したりしないから」
「うん、おれも自分が頭おかしいとは思われたくない」
「……ただでさえばかだしね、この上、おかしいとなったらねぇ?」
「そうそう……って誰がばかだ?」
「あんた以外の誰がいるのよ?」
「よっち、てめぇ」
「あっ? また言った。あんたはほんとに……だからばかだって言ってんじゃないの!」
加藤と佳子がまた言い合いを始めたところで、真理が太郞に向かって言う。
「まあ、今回はほんとに、穂村君と同じ班で良かったよ。ありがとう、誘ってくれて」
「うん、わたしも。ありがとう、た……穂村君」
ことりも頷いている。
「え……」
二人の思わぬ反応に、太郞はこの日最も顔を赤くして絶句した。
どうしていいかわからなくなり、思わず外山を見ると、外山までもが、ぷいとそっぽを向きつつ「……おれもスターンの生試合が見られたのは、ラッキーだった」と小さく言った。
「あ、うん。その……こっちこそ、ありがとう」
太郞は礼を言いつつ、下を向いてしまう。
事の起こりは太郞が原因ではない。
むしろ、目の前の外山自身が問題そのものであるわけだが、少なくともことりたちを班に誘ったときは、同じ班になってもらったために迷惑をかけたり、楽しいはずの旅行が台無しになったりしたらどうしよう、と心配のほうが大きかった。
そして実際に昨日は、当の外山があやうく大事のトラブルにもなりかねない行動を起こした。
さらに因果が巡り巡って、今日も予定を狂わす予想しづらいハプニングに巻き込まれた。
太郞なりに持てる力で解決に尽力はしたが、それでまさか感謝されることになるなんて、まったく考えてもいなかったのだ。
この気持ちをどう受け止めたらいいのだろう?
味わったことのない感情を持て余し、太郞が懸命に落ち着こうと深呼吸を繰り返していると、言い争っていたはずの加藤と佳子が不意に太郎たちに向かって「さあ、行くよ!」と揃って叫ぶ。
「え? なによ」
「行くって、どこへ?」
太郞たちほかの四人が戸惑いの視線を向けると、佳子が呆れたように言う。
「どこって、ここをどこだと思ってんのよ。まだ間に合うのがあるから、遊ぶに決まってんじゃない」
「はぁぁっ?」
いつの間にか、加藤と佳子でアトラクションの選択の話し合いがなされていたらしい。
いまいる場所と乗り場との距離、集合までの残り時間、混み合い方および待ち時間の情報、さらに楽しさのバランスなどを大急ぎで計算し、間に合う可能性のあるものをピックアップ、その中でこれだというアトラクションひとつをいま決めたのだという。
「さあ、いまから走ればきっと乗れる! 行くわよ!」
「おう、すぐ移動だ!」
言うが早いか、加藤と佳子は脇目も振らず走り出した。
つられて、太郎たちもわけがわからないまま付いて走った。
ほどなく着いたアトラクションは、確かに行列が少なめで、集合時間までに何とかぎりぎり乗ることができそうに見えた。
「す、すごいね、佳子たち」
列の最後尾に付き、真理が息を整えながら、加藤と佳子を交互に見て言った。
「穂村君とは違う意味で、あんたがたも普通じゃないわ」
「え、そうか?」
「いや、こんなの誰でもできると思うよ?」
真理の感心する理由がわからないといった様子の加藤と佳子に、いやいや、と太郞はこの二人も十分に特殊能力の部類に入るのでは? と思ってまじまじと見つめたのだった。
そうして順調に行列は進み、間もなく太郎たちの番が来ようというタイミングで、太郞はあることに気づく。
「あれ?」
ことりが、どうかした? という表情で太郞を見る。
「……これ、二人乗りなのでは」
太郞の指摘に、加藤と佳子が、あっという顔になった。
アトラクションの楽しさばかりを考え、何人乗りかまでは考慮していなかったのは明らかだ。
二人とも顔を赤らめ、そのまま黙ってしまう。
太郎たちの後ろにも、当然ながら行列はできている。
まさか、ここで一人ずつ乗るわけにも行くまい。
では誰と誰で組み合わせるのか?
誰からも何も意見が言えないうちに、とうとう順番が来てしまった。
「次のお客様、どうぞ!」
パークのスタッフが明るく太郎たちを呼ぶ。
そこでいち早く動いたのは、佳子だった。
「真理、行くよ!」
「えっ?」
腕を引っ張られた真理は、戸惑いながらもとりあえず佳子について行き、一緒にアトラクションへ乗り込んだ。
「じゃあね、お先に!」
そう言うと、振り返りもせず佳子たちは「ひゃっほー」と歓声を上げて出発してしまう。
そして次の順番がすぐに来る。
残されたのは外山に加藤、そしてことりと太郞である。
次に動いたのは、なんと外山であった。
「……行くぞ」
がっしと加藤の首根っこを捕まえると、乗り口へ引きずっていく。
「え? え? なんでおれ?」
「なんだ、おれとじゃ不満があるのか」
「……イイエ、ナイデス」
二人の会話が乗り込んだアトラクションとともに遠ざかっていく。
太郞はぽかんとしてそれを見送った。
そうして、はっと太郞はことりを見る。
目が合ったことりはにっこり笑って言った。
「わたしたちも行こ?」
「あ、ハイ」
太郞はぎくしゃくとした足取りで、ことりに付いて二人掛けのシートへ乗り込む。
スタッフがにこやかに「いってらっしゃい!」と告げた。
初めてことりと二人きりで乗ったアトラクションは、きっと楽しかったはずなのだが、終わってみると残念なことに、太郞は緊張のあまり何も覚えていなかった。
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