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深緑のシルフィード(旧題:いつか、君の隣へ)  作者: U
第三章 欺瞞、憎しみの行方

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第十話 風上広輝[序]

ゴールデンウィークの連日投稿1/8日目。

毎話、午前9:00に投稿します。


広輝の過去編の開幕です、

 清天寮から歩いて十五分ほど歩いたところに、山の中では珍しく川の流れが穏やかな川がある。広い川原もあり、川遊びやデイキャンプをするには持って来いのスポットである。

 そんな近場で穴場なスポットを岳隠の面々が見逃すはずもなく、毎年ここでバーベキューするのが恒例行事になっていた。

 大人たちは焼けた肉や野菜を肴に少しの酒を嗜みながら、子どもたちを見守る。この行事における大人はおまけなのだ。

 引率者は岳隠の中高生で、岳隠所属の子供の天子とその関係者が主役である。

 その為、高校生女子と小学生男子の次のようなやり取りも茶飯事である。

「こら! ちゃんと焼けてる肉を食え」

「もう焼けてるって」

「それ豚だから。腹壊すぞ!」

「だいじょぶだいじょうぶ」

 男の子は後数十秒で、待てばちゃんと焼ける肉を皿に取って、青年が大道芸のように焼きそばを作っている炭台へ行ってしまった。

「ったく」

 いくつかある炭台の一つで、肉と野菜の管理をしているのは、高校一年生の(まどか)である。

 腰まで届きそうな長い髪を首の後ろで纏め、白いTシャツの袖を肩までまくりあげ、額から垂れる汗を首にかけたタオルで拭きながら手際よく食材をさばいていく。日焼けも火焼けも気にしていられないとばかりに。

 この台の火の番をしていたもう一人は「焼きそばを、焼いてくる!」と冷静なのか気合十分なのかよく分からない顔をして、鉄板が敷かれた炭台に行ってしまった。その彼は、絶賛"ショー"を繰り広げる中で、小学生(主に男子)のハートを鷲掴みにしていた。

 それを片目に、見事な手付きで肉と野菜をバランスよく紙皿へ乗せていく。

 そして姉妹仲良く肉を頬張っている片割れに声をかけた。

美宙(みそら)

「ふぁに?」

「これ、広輝(こうき)に渡してきてくれ」

 ミサンガをした右手でトングを操りながら、今盛っていた紙皿を姉の方へ差し出した。

 美宙と呼ばれた黒髪のポニーテールの女子は、ごくんと口の中の肉を飲み込むとその活発そうな顔の頬を膨らませる。

「えー。あたしあの子嫌いなんだけど」

「ん? そうだったのか? なんで」

 円の記憶では、美宙は積極的に広輝に声を掛けに行っていた。彼女の声がけは広輝に限ったことではなく、新しく来た子が早く溶け込めるようにいつもしていることだった。

 しかし美宙はミサンガが光る右手で箸を立て、頬を膨らませて言う。

「馴染もうとしないし、ずっと黙ってるし……自分だけが辛いみたいにしてて嫌い」

 美宙の言う通り、岳隠に来てもうすぐ一年になるが、未だ広輝の口数は少なかった。

 家族を全員亡くして、彼の叔母に当たる久下家に引き取られたと円は聞いていた。岳隠支部とも親交のある久下夫妻とは円も顔見知りであり、悪いようにはしていないはずだと確信を持って言えた。寧ろ娘同様、家族同然に扱っているはずだと。

 それでもまだ、心は開ききっていない。岳隠にやってくる子供は大小はあれど心に傷を負っている。

 美宙もそうであるが故に、殻に閉じこもりすぎているのが気に入らないのだろう。

 そんな姉とは逆に、おさげの妹の方が元気よく立ち上がった。

「じゃあ、わたしが渡してくる!」

 姉に整えてもらったおさげが気に入ったらしく、朝から上機嫌。少し人見知りのところも、そのテンションに引っ張られて見る影もない。

 円へ両手を伸ばした。

「ありがとう。千花は偉いなあ」

「えへへ」

 円は千花に皿を渡すとその柔らかい髪をわしゃわしゃと撫でる。

 美宙の五つ下、小学校に上がりたての千花は誰とも仲良くなりたいお年頃。一つ年上の久下家の娘とも仲が良く、いつもその娘の近くにいる広輝とも仲良くなりたいと思っていた。

 両手でしっかりと皿を持って足元に気をつけながら、川原と森の境目でちょこんと座っている広輝の元へ向かう。

 そのたどたどしい足取りを視界に収めながら新たに網の上に肉を投入する。

 残された二人の間に、肉の焼ける音がやけに大きく流れた。

「……」

「……」

「……」

「……嫌いなものは嫌いなの!」

 そう言いながら千花の後を追う。愛想を尽かしたのか尽かしていないのか。

 円も思わず苦笑いを浮かべる。

「何も言ってないんだが」

 脇に置いてあった紙コップを取り、烏龍茶を喉に流し込んだ。

「珍しい。ケンカか? はいこれ、焼きそば」

(けい)(にい)……そっちのテーブルに置いて」

 もう一人の炭台番がやっと戻ってきたと振り向いてみれば、どう見ても五人分以上ある山盛り焼きそばを持ち帰ってきていた。

 『自信作だ』と言わんばかりの微妙なドヤ顔が少し疎ましい。

 円に呆れられたのは、星永(ほしなが)慧輔(けいすけ)。円の祖父の兄、現天守にできた待望の息子。若干十八歳にして、天禀の才を無類に発揮していた。

「美宙が広輝のこと嫌いなんだって」

「ふーん……まあ、あんなに黙りこくってられたらな。仲良くしようとしてたから余計だろ」

幸穂(ゆきほ)ちゃんの方はそっこうで馴染んでくれたんだけど……ってそれまだ赤い!」

気にすんな(きにふんあ)。俺の腹は丈夫だ」

「小学生が真似する! というかしてる」

「腹壊すのも経験だ」

 『何事も経験だ』。言っていることは円にも理解できるのだが、慧輔のはたびたび度が過ぎていた。

「その面倒見るのは真白先生たちだよ」

「まあ大丈夫だろ。あ、エロ介、そのジンギスカン焼こうぜ」

「おう! ……エロ介言うな!」

 慧輔は話もそこそこに、近くで食材が入っているクーラーボックスを漁っていた同級生の元へ行ってしまった。

「はあ……(なんで好きになったんだろ)」

 円は戸惑っている最中だった。この楽観的に見える親戚のお兄さんへ自分も気づかぬ内に想いを寄せていたことに。

 そんな高校一年生の夏休み。



 ***



 小学生たちがお腹いっぱいになったら、今度は火の番をしていた中高生の番。炭台では熾烈な肉の奪い合いが起こっていた(主に男子)。

「この肉もらい!」

「おいそれ、俺が育ててたカルビだぞ!」

「そうだったのか、悪いな。代わりに玉ねぎやるよ」

「肉じゃねえし焼けてもねえし、じゃあこれもらい」

「あー!? 俺の漬けカルビ!」

「ホルモンうまうま」

「この豚トロ一気に焼こうぜ」

「ダメだ! 炎が強くなりすぎて他の肉が焦げる……ダメだっつってんだろ! やめろー!?」

 カオスである。


 大人は大人たちでタープの下で麻雀を興じはじめ、この日ばかりは子どもたちから駄目な大人の烙印を押されている。

「はいツモ」

「またですか。鷲一(しゅういち)さん」

「まだ三巡だぜ」

「ゴミ手の安上がり。親だからって五回連続はさすがに萎えますね」

「ふっふっふっ心配無用ですよ常道(つねみち)殿……国士・無双!」

「「「はああああ!?」」」

「積んだな? 積んだだろ!?」

「へいへい御託はいいから、一万六千オール、もらおうか」

「お? 鷹之(たかゆき)さんトんだんじゃね? 代わって代わって」

 ……一応、卓から降ろされた者が代わり代わりに子どもたちを監視してはいる。



 保護者たちがこんな中、小学生たちも思い思いに遊んでいた。

 水鉄砲を持ち出して水を掛け合う子、川岸に石を並べて疑似ダムを作る子、水切りに白熱する子……様々である。 

 その様子を体育座りで遠くからじっと見ている男の子と、その男の子を遊びに誘おうとしている年下の女の子がいた。

 その女の子は肩まで伸びた髪を水色の玉の付いたお気に入りのヘアゴムで二つ結びにしている。この春小学二年生に上がり、少しお姉さん役が身についてきたところだ。

 それを活かせると思って奮闘している。

「コウ兄ちゃんも遊ぼうよ」

「……いい」

 しかし男の子ーー風上広輝ーーは体育座りのまま動こうとしない。

「川の中気持ちいよ」

「ここにいる」

「じゃあ、水切り!」

「ここで見てる」

「……遊ぼうよ!」

「いい」

 どこにも取り付く島もない。なんなら何でバーベキューに参加したのかも分からない。

 幸穂が広輝や岳隠のみんなとのバーベキュー。楽しもうと思っていたのに、この態度である。

「〜〜〜〜! そんなんだから嫌われちゃうんだよ!」

「…………」

「もう知らない!」

 女の子は怒って広輝にも川にも背を向けて無我夢中で歩き出してしまった。

 その小さな足が踏むのは小石から砂利、砂利から古い舗装路へ。

(なによ、なによ! せっかく遊べると思ったのに!)

 その幼心を怒りに震わせて女の子は、広輝の従妹である久下幸穂(ゆきほ)である。

 一年前、夏休みが始まったすぐ後に、従兄弟家族が事故に遭ったと知った。そして従兄一人残して全員死んでしまったとも。その当時の幸穂にはただの情報だった。死が上手く理解できていなかったのだ。その夏休みの間、母親はほとんど家に居なかった。少しずつ美味しくなる父親の料理に文句を言いながら母親の帰りを待った。父親と一緒に天宿に行けば、清天寮のみんなと遊ぶこともでき、寂しさは少し和らいだ。

 そして夏休みが終わり八月が終わる頃、夕日と一緒に広輝が幸穂の母親に連れられて岳隠にやって来た。

 その変わってしまった従兄の姿を見て、突然、幸穂は実感した。死が何なのか。もう会えなくなるとはどういうことなのか。

 兄の姿を追って、いつもニコニコ楽しそうだった。時々会った時は、その後ろを付いて行くのが楽しかった。兄の方が楽しいことを発見し、弟の方がそれが本当に楽しいと証明し、幸穂は二人に混じって楽しいを体験した。

 そのいつもニコニコしていた従兄が、全然楽しそうじゃない。今にも泣きそうなくらい淋しそうだった。

 それが何だかとても悲しくて、幸穂はその日、夕ご飯まで泣いていた。

 翌月から広輝は幸穂と同じ学校、そして天宿に通うようになった。天子として目覚めた広輝がその力の使い方を覚える為だった。

 幸穂には天力はない。彼女は父親の天子の因子を引き継がなかった。だからか、広輝が余計に遠くに感じられてしまった。

 それでも仲良くなろうと話しかけてもそっけなく、遊ぼうとしても誘いに乗ってくれることはなかった。兄の後を追っていた広輝はいなかった。

(また、遊べると思ったのにな……)

 幸穂にとって、ただそれだけだった。

 あの頃のように元気に笑って、楽しく遊べたらと。

 沸騰した怒りも悲しさに変わり、その足も止まる。

 小さな足の下は古びた舗装路ではなく、砂利と土が入り交じる森の道。

「あれ。ここどこ?」

 見覚えのない場所。

 生い茂る雑草、見渡す限りの高い木々。

 振り向いても、誰もいない。やはり見覚えのない道がある。

 風が吹き、草木がざわめく音が嫌に耳をつく。

 初めて感じる不安が幸穂に押し寄せた。

「おかあさ……」

 母は家で帰りを待っている。もちろん父もバーベキューには来ていない。

 頼れそうな(ちか)しい人は一人だけ。

「コウ、兄ちゃん……」

 ポツリと涙声。

 突き放してしまった手前、居るはずもない。

 幸穂は途方に暮れた。

 その時、大木の後ろから茂みを掻き分ける音がした。

 もしかしてと、茂みの方を向く。

「コウ兄ーー」

「あ? ガキか」

「ーーっ」

 幸穂は息を飲む。

 大木から後ろから現れたそれの姿は、最初は大人かと思った。背がすごく高かったから。

 でもすぐに人間ですらないことに気づく。

 おとぎ話、絵本の中でしか見たことのない存在。

 額に二本の角を生やし、獣のように鋭い犬歯と何でも噛み千切りそうながっしりした顎、腹が丸く膨れているが、だらしなく破れた衣服から腕と脚は筋肉が隆々としている。

 そして人間の肌色ではない深い緑色。黒々い緑色。

 鬼がそこにいた。

 幸穂の恐怖が限界を超えた。

「きゃあああああ!」

「っ、うっせえな」

 緑鬼が片耳を押さえ顔を歪め、幸穂を睨み下ろす。

 恐怖に震え、縮こまる幸穂。鬼の眼力にもう一度悲鳴を上げそうになった。

「だまれや!」

 それを黙らせる緑鬼の拳が、容赦なく振り下ろされた。



  ***



 川原では、その石の上で男子共の一グループが一列に正座させられていた。

 炭台からとんでもない炎を巻き上げさせた男子共を、円が大人に代わって叱り飛ばした。その中には円よりも年上が数名含まれたがお構いなしだった。

 それを横目にその他の面々は変わらず余暇を楽しんでいる。

 やんちゃがすぎれば、しっかり者に叱られるというのは岳隠ではありふれた光景。

 良いか悪いかは置いておいて、当事者以外はそれを横目に余暇を楽しむという胆力を身につけていた。

 円は一通り叱り終え、釘を差した後。円が違和感を察知する。

「ん?」

 何かが足りない。

 視線を動かし、首を振り、振り返ってみてもわからない。

 気の所為と、片付けてしまいそうになったその時、遠くにあるはずの体育座りが無いことに気づく。

 もう一度周囲を確認する。見当たらない。

 不安が生まれ、少しずつ大きくなっていく。

「どうした円」

 円の焦燥に気づいた慧輔が声をかける。炭火で軽く焦がしたマシュマロを頬に蓄えながら。

「久下さん家の兄妹がいない」

「!」

 マシュマロを飲み込み、円と同じように周囲を見渡す。確かにいない。

 次の手を巡らせ始めた二人に、焼けたマシュマロを持った美宙・千花姉妹が持って来る。円に労いを込めた差し入れである。

「どうしたの? はい、マシュマロ」

「あ、ああ、ありがとう。お前たち幸穂ちゃんと広輝見てないか?」

「見てないわ」

「んー見てないよ」

 いよいよ雲行きが怪しくなって来た。

「円、小学生たちを見ててくれ。俺は大人たちに言って捜すの手伝う」

「わかった」

「美宙、お前も手伝え」

「えー!」

「白以上には手伝ってもらう。何かあってからじゃ遅い」

「……わかったわよ」

 年上が年下の面倒を見るのも岳隠の習わし。迷子の捜索もまたその一環である。

 渋々、美宙も了承したのだった。


  ***


「だまれや!」

 緑鬼の拳が、幸穂に容赦なく振り下ろされたーー時、鬼の顔面が小さな足に蹴り飛ばされた。

「ぶあ! ってえな!」

 鬼は少しよろめいただけで傷も追っていない。邪魔をしてくれた小虫を睨みつける。

 自身よりも遥かに身長の高い鬼の顔面を蹴った張本人は、不格好に地面に着地。鬼を睨み返す。

「コウ、兄ちゃん……?」

 追ってくるはずがない。いるはずがない。今だってあの川原で体育座りしているはず。

 そう思っていた従兄(広輝)の姿。

 広輝は道から外れ、茂みの方へ。幸穂と反対方向に距離を取って、鬼を挑発する。

「こっちだ! バカ鬼!」

「なんだと、このクソガキ」

 鬼はそのわかりやすい挑発に乗る。意識が幸穂から広輝に移った。

 広輝はさらに挑発を繰り返す。

「悔しかったら捕まえてみろ! バカ鬼! アホ鬼!」

 今度は自分が守るんだと。兄が自分を導き、守ってくれていたように。今度は自分が兄として守るのだと。

 広輝がバーバキューに参加した理由は「幸穂が参加するから」だけだった。

 火傷しないか、川で溺れないか、危険な目に合わないか。それを近くで見守る、ただそれだけだった。

 だから、守ってみせる。

 恐怖はある。目の前の鬼を倒せるとも思っていないし、足もすくみそうだ。

 でも、それでも

(気づいたら誰もないなんて、もう嫌だ)

 あの絶望が、逆に広輝を奮い立たせた。鬼の向こうにある泣きそうな顔を、妹を守る為に。

 鬼の注意を全部引き受けて、逃げ切ってみせる。

 広輝は鬼を怒らせるために、その見た目を罵った。

「この……デブ!」

「ーー殺す」

 広輝の思惑は成功。

 鬼の目が据わり、声も荒げない。抹消する標的として認識した。

 雰囲気を一変させた鬼に広輝は背を向ける間際、幸穂へ伝えた。来た道を指差し、目と口の形で。

「(にげろ)」

「コウ兄ちゃん!」

 広輝は茂みの、森の向こうへ走り、鬼がそれを追った。

 茂みを掻き分ける音が遠ざかり、森の静けさが戻ってくる。

 森の中で一人取り残される幸穂。

 一人だけの不安と何かしなくてはという焦燥。

 それなのに鬼と出会った恐怖がまだ抜けず、脚が動かない。腰が抜けそうだ。早く助けを呼ばなきゃという焦りと体が動かない矛盾で頭が混乱しそうだった。

『(にげろ)』

 助けてくれた広輝の姿が浮かぶ。それが幸穂に少しの勇気をくれた。

 やることは広輝の言う通りに逃げること。そして助けを呼ぶこと。

 目尻に溜まった涙を腕で拭い、泣き声が出そうな喉を歯を食いしばって塞き止め、広輝が指さした方へ走り出した。

 全然見覚えのない道。きっと清天寮とは反対側の道。そんな道を進んできてしまったのかと後悔が浮かんでは消える。助けを呼ぶ、その使命感が他の思考を消していた。

 逸る気持ちと、満足に動かない足が空回る。何度か転びそうになるも持ち前の運動神経で立て直し、先を急ぐ。

 それでも心と体のアンバランスは、幸穂の足をもつれさせた。

 小石と土の道に顔からダイブ。顔、腕、膝に多くの擦り傷や切り傷が一度にできた。

「ーーっ!」

 立ち上がろうとした時、自分の腕や膝を見て痛みが幸穂を襲う。

 今まで我慢してきたものが、痛みで一気に溢れ出そうだった。

 目尻があふれる寸前まで涙で溜まった時、地面に書かれたそれに気づいた。

 木の枝を使って書かれた目印。小石を退かせ、土に掘られた大きな矢印と見覚えのある筆跡が土に残っていた。

 [まっすぐ]

 ちゃんと帰れるように。迷わないように、迷っても大丈夫なように。

 広輝が残した道しるべ。

 幸穂は違う意味で泣いてしまいそうだった。

 力を振り絞り、もう一度立ち上がった時、道の向こうから知り合いが幸穂を見つけた。

幸穂(ゆき)ちゃん!」

「ーーみそら、お姉ちゃん……」

 美宙は幸穂を見つけて安堵したのもつかの間、擦り傷だらけの幸穂に驚く。

「どうしたの!? 怪我してるじゃない!」

 膝を折って幸穂の傷の具合を確かめる。

 いつもなら嬉しいことだが、今はそんなことをしている場合ではないと幸穂が必死に訴える。

「コウ兄ちゃんが、お兄ちゃんが……」

「……いじめられた?」

 美宙の思考は、広輝を犯人に仕立て上げる。

 幸穂はそれを否定しようとしたが、美宙に見つけてもらったことで、頑張って耐えていたものが溢れ出しそうになっていた。だから本当に伝えたいことが上手く言葉にできない。

「おに……おにっに、出て」

おに(・・)いちゃんに何かされた?」

 その情報の欠片は美宙に、さらに違う思考を加速させた。あくまで美宙の中の悪者は広輝らしい。そこまで印象が悪かったのか。

「もりの、おく……追いかけてって」

おに(・・)いちゃんに追い回された?」

 美宙の中の想像が完成してしまいそうだった。広輝が嫌がる幸穂を追い回して怪我をさせた、と。

 しかし、その上手く伝わらないもどかしさが、幸穂を爆発させた。涙も泣き声もお構いなしに。

「っちが、うーー! つののオニが出て、お兄ちゃんが死んじゃう……! わあぁああ」

「!! お、鬼!?」

 泣き喚く幸穂を前に美宙の脳内が切り替わる。女子小学生から天位:白を賜った天子へ。幸穂だけを心配している場合ではなくなった。

 自然に左手が腰に携えた小太刀の柄に伸びる。

 鬼は、その強さでざっくり小鬼、中鬼、大鬼の三種類に分別される。小鬼程度なら今の広輝でも逃げきることはできるかもしれない。けれどそれ以上なら……。

 いずれにせよ、緊急度が格段に上がっている。

幸穂(ゆき)ちゃん、あたしは鬼を追うわ。ゆきちゃんは川原に戻って『鬼が出た』って大人か慧兄、マド姉に伝えて。それだけで皆わかってくれる」

「うぅ……ぁぁ……」

 聞いていたのか聞いていなかったのか。幸穂の泣き顔は変わらない。

 今はそれに付き合っていられない。美宙は幸穂の両肩を掴み、発破をかける。

「しっかり! これは幸穂(ゆきほ)にしかできないことよ。あなたがお兄ちゃんを助けるの!」

 幸穂ははっとして、ピタリと泣き止める。ひっつく横隔膜を深呼吸を繰り返すことで抑え、鼻をすすり、涙を両手で拭う。

 まだまだ何かの拍子に泣き出してしまいそうな顔だったが、その真っ赤な目に確かな意志が宿った。

「行ける?」

「うん」

 幸穂は力強く答えた。


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