第九話 前夜
「ふう……」
優里菜は露天風呂の石の湯縁に頭を預けて空を見上げる。麻美子が言っていた通り、雲のない今日は満天の星がこちらを見下ろしていた。
鳴上の夜空よりも遥かに星が多い。その美しさに、思わず今日のことが少し意識から遠のいた。
優里菜は天宿での騒動の後、広輝と一緒に戻って来ていた。
天宿を出る際に騒ぎを聞きつけた真白や紅実、愛紗たちに意気消沈している広輝を託される。自分でどうにかできると思わなかったが「はい」と答える他なかった。
広輝は部屋に戻って一息ついても、お風呂に入った後も、夕食を食べている時も、話しかけてもずっと上の空だった。食事中は、いつもなら少なからず気分が良くなっているのだがそれも見れず、そればかりか何度も箸から食べ物を落とす始末で。夕食後は広縁から外を眺めて動かなくなってしまった。
あまりに間が持たず、優里菜はもう一度浴場に来てしまっていた。
「…………」
濃密な一日だった。ここで麻美子と話したのが昨日とは思えないほど。
早朝の墓参りは、誰のお墓なのか察しはついたが具体的にはまだ知らなかった。それが今はもうある程度の推測がつく。岳隠天守の息子と千花の姉、そして彼らの身内。
広輝は彼らの墓前で何を思っていたのだろうか。優里菜も、誰もそれを知る由もないけれど、長く深い黙祷は彼らを軽んじているようにだけは見えなかった。
円からの双剣の指導はとても厳しかった。広輝のスパルタな指導のルーツを垣間見た。彼の剣の姉弟子にして天術の師匠であることを疑う余地もないほど納得するのだった。しかしながら、広輝から基礎を文字通り叩き込まれていたからか、体の動かし方と剣の扱い方などの基礎練習は思いの外すぐに終わり、いくつかの技を教わることができた。実戦でそれらを成功させるイメージが全くできなかったが、すぐに鮮烈に目から焼き付けられることになった。鷹之が広輝との試合で最後に繰り出した[下弦の月]。優里菜が防いだことのない広輝の[飛翔燕]をあんな形で凌ぎ、勝利の刃を首に添えてみせた。双剣を使った勝利のイメージが一つ脳裏に刻まれた。
清天寮の子供たちの笑顔には癒やされた。円から聞いたような背景があっても、今笑っていられることにほっとした。琳や広輝もそうなって欲しいと願うばかりだ。
天守と常道との会談は緊張したが、その後の出来事に全て持っていかれた。憎しみの渦を今までで一番近くで感じた。ギレーヌやクルスにも憎悪を見たが、そこにはまだ天子と魔術師という構図があった。しかし今回は天子と天子。パートナーという身近な存在が闇い渦の中心にいた。遺族の対応もそれぞれで、前に進む為の正解が一切見えてこない。広輝が一体何をしていこうとしてるのかも分からなかった。
(……そうだ。あれは何で?)
不可解なことがあった。天守も、常道も、天守側近二人も、円すらも一貫していた。
その答えは優里菜がどんなに頭を捻っても出てくることはなかった。
代わりにその答えを持っていそうな人物が隣に腰を下ろした。
「綺麗だろ? 岳隠の星空は」
「はい……あ、お疲れさまです」
円の登場に優里菜は慌てて姿勢を直す。
「いいよ、そんなに畏まらなくて。みっともないところも見せてしまった」
「いえ、そんな……」
天宿での出来事を言っているのだろうと直ぐに察しがついた。優里菜を剣の指導した時のような元気が円にない。
円は疲れを取るように体を伸ばした。
「ふー……コウの様子はどうだ」
「何か考えているようですけど、上の空に見えます」
「そっか」
「はい」
会話が途切れてしまった。
今はまだ一般の利用客もいる。突っ込んだ話はできなかった。
二人の視線は自然と空へ、冬の澄んだ空気の向こうで瞬く星々へと移っていた。
「ほんと、嫌になるくらい変わらない。この星空は」
幼い時から見続けたその空は何一つ変わることはない。こちらがどれだけ変わっても、時が経っても、同じ空がそこにあった。
初めて剣握った日も、好きな人に気づいた時も、可愛い妹・弟分ができた日も、全てがひっくり返った日も。いつだって変わることなく残酷に美しく瞬いている。
自分の闇い部分を照らしに来ているようで、少し怖かった。
そんな思いに耽る円に、理解不能な一言が彗星の如く通り過ぎた。
「…………広輝くんみたいですね」
「ああ…………………………………………
…………………………………………は??」
岩に預けていた体を起こして優里菜を見る。正気を疑う目で。
「ど、どういう意味だ??」
のぼせてしまったのかと心配も片隅に入る。
しかし優里菜は至って冷静に、その理由を説明し始めた。
「広輝くんはぶっきら棒だし、そっけないし、めんどくさがり屋で何考えてるかさっぱりですけどーー」
急な連続の罵り。広輝がいたらあの無表情をも苦笑いさせていただろう。
「ちゃんと見ると、広輝くんなりの信念とか優しさがあることに気づくんです」
それが一体どうやってこの星空に繋がるのか。優里菜は説明を続ける。
「新月の夜って、快晴でもすごく暗いですよね、不安になるくらい。でも、こうやってちゃんと見るとーー」
(ーーああ、そういうことか)
円もようやく優里菜の意図が理解できた。優里菜と同じように、もう一度空を見上げた。
「ちゃんとそこに居るんですよ。私たちに届かないくらいの光の小ささで、見上ないと気づかないくらい遠くに」
「そう、だな」
円も同意した。
(そうだった。あいつはそういう奴だ)
そういう少年に変わってしまった。空気のようにいつもいた。時には鬱陶しいと思うくらい側にいたくせに、今はもう軽々しく触れさせてくれない。
「だから思うんです」
優里菜の声のトーンが変わった。姿勢を正し、円を見据える。
あの違和感の正体を問い質す。
「そのくらいちゃんと見れるのに、目が良いのに、どうして止めないんですか」
天守は言った。『やるなら外でやれ』と。
円は言った。『場を弁えろ』と。
決して誰も、復讐自体を止めようとはしていなかった。
碧い瞳が円を映す。
円が碧い瞳に映っている。
優里菜の視線に耐えきれず、円は目を逸らす。
「参ったな」
「何がですか」
「……私からは話せない。これで勘弁してくれ」
「彼がどうなってもいいと? 皆に果たさせていいと?」
一般の利用客に聞かれても大丈夫な言葉を選ぶ。広輝のことも大事に思う人が取る行動の矛盾。
円は真っ直ぐすぎる追求を下手な嘘で誤魔化すことはできなかった。だから優里菜と同じ方法を取った。
「そうじゃない。そうだな、君も言ったろう? 『内緒』だと」
「!」
信じる為の約束。
だが、誰との?
「済まない。先に上がる」
円は逃げるように露天風呂を後にする。いや、約束を守る為に。
これ以上、気づかれてしまう前に。
朔日の夜空に繊月が顔を覗かせ始めた。
***
優里菜が部屋に戻ると、相変わらず広輝は広縁の椅子に座って外を見ている。
電気も点けなていない部屋から望む外界は、満天の星明りを雪が反射し、白く仄暗い景色が広がっていた。
「風邪引くよ」
優里菜は広輝の膝の上に膝掛け用のブランケットを包むように敷くと、対面のもう一脚の椅子に腰を下ろし、広輝に掛けた物と同じブランケットを膝に掛ける。
浴衣の上から斑点を羽織り、暖房が効いた部屋でも窓際は少し冷えた。
天々館の造りは雪国仕様で断熱材が壁や天井の中に敷き詰められ、窓も断熱仕様の二重構造ではあったが、さすがに窓ガラスの傍は冷たい空気が漂っていた。
柔らかいブランケットの感触と、石鹸の香りが広輝を現実に引き戻した。
雪に反射する微かな光のおかげで何とか対面の優里菜の顔が見えた。
長い後ろ髪を一つに纏めて右肩から前に垂らしている。心なしかいつもより大人っぽく見えた。
「ーーありがとう」
素直なお礼と覇気のない表情。本調子に戻るには、まだ時間が必要そうだった。
そこから続く言葉はない。二人とも黙って窓の外に目を向けた。
しんと静かな時が流れる。寂しくて少しばかり気まずい、窓側半分が少しばかりひんやりするその時間が、段々と惜しく思うようになっていく。普段は気にならない暖房の音がうるさく聞こえ、切ってしまいたいと思えるほどに。
そして、間の小机にある優里菜が浴場に行く前に淹れて今はすっかり冷めたお茶を、淹れ直すのも惜しい。その雑音が今のこの時を壊してしまいそうで。
その静寂を破ったのは広輝だった。
「まだ傍にいるつもりなのか?」
その質問の意図を優里菜が考えている間に、広輝が付け加える。
「オレがどんな罪を犯したのか、それで憎まれ、恨まれているのか知ったはずだ。それでもまだ……」
広輝の声はいつも通りに聞こえるが、取り繕っていると分かる。苦しくて力が出ないのか、悲しくて話すのが辛いのか、それは分からない。
優里菜は顎に手を当てて首を傾げる。
「うーん……私の中の広輝くんへの印象って、広輝くんが思ってるほど多分崩れてないよ?」
「……とうして」
「どうしてって言われても……あーうん。愛紗ちゃん助けた時の行動と辻褄が合わないし」
広輝は愛紗を救おうと全力だった。愛紗を誰にも傷つけさせない。愛紗に誰も傷つけさせないと。
風評通りの[堕天子]ならば、愛紗がどうなろうと、自分の絶技で両断していたに違いない。そもそも愛紗を助けようなんて発想すらしないだろう。
敵を無慈悲に斬る。広輝はそんな心無い剣士ではなかった。
ちゃんと星の意思を継いだ天子だ。
優里菜があの時言い放った言葉は偽りのない気持ちだった。
「なら何で、何も訊かないんだ」
その矛盾を問い質そうとしても何ら不思議はない。憎しみの渦に巻き込まれたのだから、それは被害者の権利だ。
優里菜も気づいている。あの事件が広輝の暴走の一言で片付けられている異様さに。暴走した本人に暴走した時の記憶がどの程度残るかはまちまちだ。それを利用して真実を隠匿している、と。
それでも聞き出さない。聞かない。その素振りさえ見せない。
今だって優里菜から話を振ることはなかった。
優里菜は顎から手を離し、両手を膝の上で重ねる。その答えは決まっている。
もうとっくに気付いているから。
少し苦しそうな表情を浮かべる広輝を見つめて言う。
「だってーー」
眉尻を下げて、寂しそうな笑みを浮かべながら。
「誰かの心に踏み込むのも、自分の心に踏み込んでこられるのも、好きじゃないでしょ」
広輝は言葉を失くした。たったそれだけで何も訊かずにいたのか、と。他人が嫌がることはしない。ただそれだけを守って。巻き込まれ、自分が傷つく可能性もある。そんな状況下で、まだ……。
人はそれを甘いと言うかも知れない。優しさではないと言うかも知れない。
けれど広輝はそれで、何も訊かずにいてくれたことで、甘えていられた。訊かれるかも知れない不安と訊いてこない安堵を交互に感じながら、ぬるま湯の中で先延ばしにしていられた。
優里菜の優しさが、痛く広輝の胸を突いた。
「お前は、優しすぎる……」
そんな言葉を広輝は苦しそうに言う。背中を丸め視線を落とし、奥歯を噛み締め、浴衣の胸辺りを力いっぱいに握りしめ、嗚咽を漏らすかのように。
心を平静に戻す為に思考を停止させ、身体の衝動を落ち着かせる為に深呼吸を繰り返す。
心が揺れる間も、平静を取り戻しても優里菜は何も訊いてこない。黙ってそこにいるだけ。『聞いてほしい』と言えば、きっと聞いてくれる。このまま何も話さずいても何も聞いてこない。『寝よう』と声をかければ、きっと床に就く。
「…………」
そんな優里菜の甘やかしにも思える優しさから抜け出すことを広輝は決めた。彼女から離れることを決めた。
「優里菜」
「なに?」
「お前には話しておく。あの夏休みが終わってから今までを」
もう傍に居させるわけにはいかない。
お読み頂き、ありがとうございます。
次回から過去編に入り、GW(毎日9:00)に連日投稿して一気に駆け抜けようと思います。
理由は、長くなることと、あくまで過去の話なのでなるべく早く現在の時間軸に戻る為です。
この過去編は八話(七話半)になります。
以上、次のお話を楽しみに待って頂けたら幸いです。




