第31話 侯爵令嬢と第二の配下
古爵家の娘アンリ・パトリックは、暗い寮の部屋で引きこもっていた。
主の部屋とは天地の差がある、狭い木造の居室だ。
ボロボロの部屋に、こじんまりとしたベッドが置かれている。その上で、膝をかかえて、震えながら一人でうずくまっていた。
「どうして、わたし……なんでこんな、っ……」
アンリの様子は、明らかに普通ではない。
思い出すのは、悪夢のような光景ばかりだ。
その一つ一つは、アンリにとっては小さな傷だが、劣等感は膨らみ続けている。
『あなたには、氷系統に、才能はないようね』
以前、クリスタに氷系統魔法を教わったとき、そう告げられた。
侯爵令嬢から直々に教わった魔法は、どんなに努力しても使いこなせなかった。
『うーん……アンリちゃん。風系統は、向いていないみたいですねえ』
水も、風も、そして最後に習った炎系統もだめだった。
侯爵令嬢の配下でありながら、自分だけが魔法の腕は成長しなかった。
だが元々天性の才能を持った主や、その臣下のレティシアなら、追い越されたとしても納得できただろう。
しかし、アンリを最も苦しめたのが、学園に入学した平民の存在だ。
『見てください! ようやく、ちゃんとできるようになったんですっ!』
アリスの杖から、眩しい日輪のような光が放たれているのを見たとき、アンリの心に、綻びが生まれた。
自分より後に学園に入学して、全てが劣っていたはずなのに、あっというまに、魔法の腕では追い越されてしまった。
彼女は、主から魔法の腕を信頼されるほどの成長を、今も続けている。
ほとんどは、口に出さずに我慢していたが、主の前で嫉妬の言葉を出してしまうときもあった。
せめて、得意な座学だけは決して負けるわけにはいかないと、励んできた。
睡眠の時間さえ惜しんで、死ぬ気で努力を続けてきた。
しかし、今はマルセルの声が、こびり付いて離れなくなっている。
『君のやっていることは全て、平民でもできるんですよ』
今までやってきたことは、全て無駄だったと、そんな風にさえ思ってしまう。
その通りだ。
座学なんて、平民でもできる。
魔法の能力を求められる貴族が、魔法が使えないなんて、あり得てもよいことではない。
そして、今のアンリを苦しめているのは、それだけではなかった。
『悔しいでしょう。憎くて、辛いのは、全てあの平民のせいだ』
聞いたこともない言葉が、アンリの頭の中に直接響いてくる。
この部屋に、他に人の気配はない。
自らの背中から這い出してくる白影に、アンリはまったく気付いていない。
「あの子が、アリスが、全部悪い……?」
『ええ、そうです。あの平民がいなくなれば、全てが元通りになりますよ』
アンリの中に、黒い感情が湧き上がってくる。
そうだ。アリスを追い出せば、この悩みも消えてくれるかもしれない。
今抱いている想いが、アンリの心を黒く焼け焦げさせる。
だが、しかし。
『殺してしまいましょう』
「ひっ……」
しかし、それはアンリにとっては、あまりに黒すぎる感情だった。
突然冷静になったアンリは、表情を歪めて、怯えるように壁に背中をついた。
「ち、違うっ。わたし、そんなこと……」
『あの平民の女がいなければよかったと、そう思っているでしょう。あなたは、殺したくてたまらないはずだ』
「やめてっ……!」
耳元で囁いてくる影の言葉を、怯えながら、否定する。
だが、直接響いてくる声は、抑える手を貫いてアンリの耳に声を届かせる。
『隠さなくてもいい。あの平民が、憎いのでしょう?』
「ち、違うっ……わたしが、できないから。だめだから……」
『平民のくせに、主に取り入るなんて、ずるをしているに決まっているでしょう。憎む気持ちを、隠す必要なんてありません』
アンリの心が弱くなるたびに、邪悪が魂に入り込む。
彼女を堕とすために、燻っていた嫉妬を、燃えさかる憎悪に変えようとする。
『君には、あの平民を殺す、魔法の力がある』
それまで、アンリを責め続けていた影の声が、突然、甘みを帯びた。
それは悪魔の囁きだった。
白影はアンリの腹部に触れて、彼女に、それを使うように囁きかける。
そこに体内に、存在しなかったはずの、魔力を感じた。
生まれ持って得た魔力ではない。不愉快で気持ちの悪い、クリスタを襲った魔獣と同じ、おぞましく黒い魔力だ。
『その力を使え』
急な強い命令に、アンリは体を震わせた。
恐る恐る、視線を向けると、ベッドの脇には杖が置かれている。
アリスと同じ、汎用の樫の杖。
それを握りしめて、高鳴る心臓を抑えた。これでいつでも魔法が使える。
『そうだ。アリスを憎めば憎むほど、その力は強くなる』
「っ……」
『さあ、あの平民を憎め。ずっと欲しかった魔法の力を、使いこなせ……!』
アンリの心が壊れるほどに、その力への違和感がなくなっていく。
身体に入り込んだ異物が、憎い思いに同調するほどに、馴染む。
だが、頭を伏せて、必死に耳を塞いだ。
「やだっ、こんなの、いやぁ……!」
アンリは殺したいなんて、思っていない。
考えれば考えるほど、殺意が芽生えていく自分に、狂いそうだった。
そのおかげで声の主とアンリの感情は僅かにずれて、一線を超えなかった。
そんなとき、扉が小さく叩かれた。
暗い部屋で震えていた体が、ひときわ大きく飛び跳ねる。
レティシアか、アリス辺りだろう。
だが、今は誰とも会いたくない。必死に目を瞑って、早くいなくなってくれと願いながら、アンリは居留守を決め込んだ。
「アンリ、いるのでしょう。扉を開けなさい」
「えっ……クリスタ、様……!?」
聞き間違いではない。闇の中にある扉の向こうから聞こえてくる声を、聞き間違えるはずもなかった。
恐る恐る、ベッドから離れて、扉に近づいていく。
「本当に、クリスタ様、なんですか……?」
「ええ、その通りよアンリ」
アンリは扉に手を置いて、滑るように膝をついた。
安心する気持ちと、顔を見られたくないという感情。相反する二つの気持ちが、アンリの心をヒビ割れさせる。
扉には鍵がかかっているため、二人は阻まれている。
すぐにでも会わなければいけないのに、アンリには、それができなかった。
「そのままで構わないわ、アンリ」
だが、扉向こうのクリスタの言葉を聞いて、アンリは顔をあげた。
侯爵令嬢が自分を気にかけて、ここまでやってきてくれた。
それなのに、こんな態度をとるなんて、どれほど無礼なことをしているのかは分かっていた。しかし、分かっていても、やはり扉は開けられない。
「あなたは、無事だったのね。怪我はありませんか?」
「はい……クリスタ様のおかげです」
「そう、安心しましたわ」
アンリは、主の言葉に、胸が焼けるような想いを抱いた。
こんな醜い自分を、心配してくれている。
抱いていた憎しみの感情が、それだけで抑えられていくのを感じた。
「クリスタ様……」
「…………」
だがやはり、アンリの心を、黒い感情が蝕みはじめる。
さっきまでのような誰かを憎む感情ではない。情けない自分を恥じる気持ちだ。
「ごめんなさい、クリスタ様……」
ぽつん、と。
地面に滴が落ちる。
「わたし、あの時は何も、できませんでした」
「…………」
「クリスタ様が、戦っていたのに、わたし……」
アンリはずっと、何もできなかった自分を悔いていた。
「確かにアンリ、あなたはあの場にいましたわ。あなたの力が及ばなかったのは、間違いないことよ」
「……はい」
クリスタは、いったん言葉を切った。
アンリは続く主の言葉に怯えた。見限られてしまうかもしれないという恐怖だけが、心にあり続ける。
「ですが、敗北したのは私も同じこと……あなただけが気に病む必要はありませんわ」
「そ、そんなっ……! だって、クリスタ様は……!」
慌てて否定したが、クリスタの答えは変わらない。
声だけで姿は見えなかったものの、敗北を認めたのとは裏腹に、堂々と言い放った。
「あなたを責めるとすれば、それは、私の側から離れたときよ」
「えっ……」
「あの時、あなたは逃げ出さなかった。間違った行動は一つもとっていないことを、私が認めますわ」
恐る恐る扉に手をつけて、その向こう側を見透かそうとした。
最底辺まで落ち込んでいた心が、浮かび上がってくる。
主は、全く怒ってなどいなかった。それどころか、まだ認めてくれている。
「力が及ばないというのなら、強くなりなさい」
厳しい言葉は、アンリの心に傷をつけなかった。
救いの糸を垂らしている。それさえ掴めば、元に戻れるかもしれない。
「あなたの魔法が劣っているのは事実。ですがあなたなら必ず、その状況を覆すことができますわ」
扉の前に置いた手を握りしめて、悔しさに体を震わせる。
部屋に閉じこもって逃げている自分が、ひどく情けなくなったのだ。
だからアンリは、ドアの鍵に手を伸ばそうとした。
『平民にさえ劣っているあなたが、強くなれるはずがないでしょう』
しかしその手が、途中で止まった。
アンリの耳元に這い寄ってくる影が、冷たく、首筋を撫でた。
『あなたは、侯爵令嬢のお荷物なんですよ。そんなことも分からないんですか』
「……アンリ?」
アンリは、再び、耳を塞いだ。
「あ、あぁ……っ」
扉の向こう側のクリスタには、アンリの様子がわからない。
影の囁きは、胸に広がった傷を拡げてしまう。思い出すのは、醜くて、弱い自分ばかりだ。
その通りだ、何も状況は変わっていない。
アンリにはもう、自分自身を信じることができない。
扉を開けることが、できなかった。
二人は、しばらく言葉を交わさなかった。
だがクリスタが、優しく言う。
「……今は休みなさい。あなたを、待っていますわ」
そう言い残して去っていく。アンリは、扉に手を伸ばした。
だが、そこまでだ。その手が扉を開くことはない。
そのまま、向こう側に人の気配がなくなって、ひどく後悔した。
涙が、床に落ち続ける。
「クリスタ、様……ごめん、なさい……」
『それでいいんですよ。あなたに、侯爵令嬢に会う資格はないのですから』
影の声によって、アンリは地獄に堕とされていく。
それでも、最後の一線を超えることだけは、どうしても拒んでいた。主を裏切ることができない――だから、守り抜くことができた。
だが、アンリは扉を開けることができなかった。
主のクリスタも、配下の様子に、気付くことができなかった。
それが王国に、新たな事件を引き起こす引き金となってしまった。




