25. 慟哭
今話のi2M (image instrumental Music) はこちら!
澤野弘之
『LiVE/EViL』
https://www.youtube.com/watch?v=jl3eke2QrKc
ぜひ、すばらしいメロディを聴きながら、作品のイメージを膨らませて読んでください。
25
花咲神社の鳥居の前に着いた頃には、どしゃぶりだった雨も上がっていた。もしかしたら、雨が降っていたのは自宅があった隣町だけだったのかもしれない、と千草は思った。
前後左側の車輪だけを田んぼの畦に乗り上げて停車した。車体の左半分が、わずかな傾斜に傾く。なぜ境内の広場に車を入れなかったかといえば、それは目立たないようにするため。それから、すぐにこの場を立ち去るためだった。
人間の心理は、普段は気にも止めない瑣末な変化として如実に現れる。本人が、それに気づいているかは別にしても。
ライブ映像の続きを観たかったが、今はそんなことを言っている場合ではない。緊張に高鳴り、今にも爆発しそうな心臓をなだめながら。
エンジンはかけたまま、素早く彼女は車を降りた。キーの抜き忘れを告げる耳障りなアラームが、緊迫をより一層引き立てる。
狭い道路を早足で渡って境内に入った。
白砂の広場に立って上空を見上げると、そこにはグレィに濁った曇り空。低空飛行を続ける薄い雲たちが、ものすごいスピードで視界を横切る。風が出てきた。
荘厳に密生する竹林が、風に煽られ、ざわつき揺れた。
まるで、異質な者の侵入を拒むように。
これから起こることを予見する警告か恫喝のように。
いつもは生ぬるいだけの境内の風も、今日ばかりはこちらの肌を刺すように吹き荒んでいた。土と草の香りを乗せる暇もなさそうだ。
千草は、見慣れた社務所を覗き込みながら、白いスニーカの足を踏み出した。
歩く度に、白砂を踏み締めるざらついた音が上がる。過去には一度も気になったことのない些細な白砂の音さえ、今は耳障りに感じる。自分がどれだけ神経質になって、怯え、気が立っているのかを見せつけられた気がした。
この場の主に見つからないことだけを祈りつつ、一歩一歩、社務所に近づいていく。
(大丈夫……。歩さんは、いつもこの時間、畑仕事で家にはいない……)自分にそう言い聞かせた。
ここへ初めて来たのは、筑紫に転校して来てすぐのこと。転校生歓迎会だったと思う。
(一輝さん、みつほさん、平太さん、巧さん、そしてエミリさん……)
みんなが、転校生だった私と達也さんを心から歓迎してくれた。
あれから十年。
染み出した感情をかき消すように、ゆっくりと息を吐く。
神社には似つかわしくないまるでカフェのような佇まいの社務所食堂は、千草にとってお気に入りの場所だった。
この場所へ来るのは、もう何度目だろうか。
蘇る記憶。出来事。想い。
振り切らなければいけないのはわかっていても、どうしても浮かんできてしまう。
(もう二度と、ここへも来られない……)
得るためには、失う必要がある。それはわかっていた。
でも、元々私は、得るためにここへ来たわけじゃない。
(取り返すため……)
それなのに……、私はここで、いつの間にかたくさんのモノをもらってしまって、拾ってしまって……。
それが嬉しくて、とても幸せで……。
馴染んで、離れがたくなって……。
(だめ……)
時間がない。
つぶらな瞳を細めて首を振った千草は、意を決したように頷いて食堂に歩み寄る。
日はだいぶ落ちているものの、周囲はまだ明るい。けれども、すでに室内にはオレンジの柔らかい光が灯されていた。
食堂の中には、愛咲穂花がただ一人。カウンタ前の背の高い丸椅子に座って、足をぶらぶらさせながら絵本を読んでいた。
千草は、ガラスのドアを軽くノックしてみた。
すると、こちらに背を向けていた穂花はすぐに気づき、びっくりした表情で振り向いた。千草は精一杯の笑顔を作って、穂花に向かって軽く手を振った。
「チグサだ!」嬉しそうに叫んだ穂花は、ハシゴをつたうように、ゆっくりと椅子から降りてこちらに駆け寄ってきた。
穂花は、ドアの内側の鍵をぎこちない動きでなんとか開けると、錆び付いて重いだろうドアを一生懸命に開いて千草に飛びついてきた。「チグサ!」
「穂花さん……」千草は屈んで、妖精か天使みたいな小さな穂花をそっと抱きしめた。幼い可憐な体からは、どこか心を温かくさせる乳臭い香りが漂っていた。「もう……、元気になりましたか?」
「うん! あたし、もう元気! 平気だよ!」力一杯の声を上げた穂花は、まん丸な青い瞳を三日月型に変えて、真っ白な歯を見せて笑った。
千草は、会議で受けた報告を思い出す。
穂花は官邸事件当日の深夜、瀕死の光剣一輝を不思議な花の力で助けたという。
幼い小さな躰に開花したのはデイジー。エミリの開花させた氷の紫陽花とは姿も形も能力も違うようだったが、その花がソリッドカルスの力によるものであることに間違いはない。
千草には、傷ついた躰を癒すという穂花の力がどうしても必要だった。
士官学校に入学して以来……、否、この筑紫に越してきた幼少の頃からずっと、目指す目的に到達できないというジレンマとストレスを抱え続けてきた千草にとって、愛咲誠一との出会いはまさに千載一遇のチャンスだった。
万が一この機会を逃したら、もしかしたら自分は、もう二度と目的を達成できないまま、大切なものを失ってしまうかもしれない。
そんな焦りが、彼女の全身を満たしていた。しかし、その焦燥感こそが、今の千草にとって唯一の原動力といっても過言ではなかった。
もちろん懸念もある。それは、光る種を体に取り込むことによって躰に引き起こされる可能性のある副作用だ。
士官学校時代から、戦闘や戦術、武器の扱い方などの肉体的且つ技術的なトレーニングよりも、情報技術や化学研究分野に興味の強かった千草にとって、今回手にしたソリッドカルスが、なんらかのプラントニューロン技術を流用したものであることは容易に想像がついた。プラントニューロンの医療技術が、発表、実現から時間が経ってもなお、未だ広く公に実用化されていない理由が、軽度の副作用であることも、過去の論文などから知っていた。
もちろん、プラントニューロン技術が開発されてからはもう随分と年月が経つのだから、愛咲が威信を賭けて守り抜いたソリッドカルスにおいて、同様の副作用があるとは考えにくい。そうやって、自分に都合よい方向で解釈することも出来なくはなかった。
けれども、現にデイジーを咲かせた穂花は、その後、かなりの長い間眠り続けていたとの報告も上がっている。飛行機事故の時、綿毛を生やして空から降り立った後も、穂花は数日間眠り続けていた。そのことを考えると、やはり千草の頭からは、副作用の三文字が拭いきれなかったことも事実だった。
まして、総理官邸で氷の紫陽花を開花させたエミリの姿を見ればわかるように、ソリッドカルスに秘められた力は、人知を超越した絶大なものであることは間違いない。単純な医療技術でしかないプラントニューロンとは比較にもならないだろう。
大きなメリットがあるものには、必ずそれと同じだけの大きなデメリットが付きまとう。それは、千草が人生の中で学んできた一つの指標となる考え方だった。
「穂花さんは、いつ目が覚めたんですか?」千草は、心の内を悟られないように、なるべく穏やかに、ゆっくりと語りかけた。
「さっきだよ」無邪気に微笑む穂花。その純粋な瞳で見つめられた千草は、自分の大それた邪さを照らし出されたよな気がして、激しい自己嫌悪に陥るのを感じた。
「チグサはどうして来たの? お仕事は? イッキは一緒じゃないの?」矢継ぎ早の質問から、穂花の無垢な嬉しさが伝わって来る。彼女の幼い顔には、「一緒に遊ぼう!」という愛らしい文字が元気いっぱいに描かれていた。
「今日は……、そう、私お休みなんです。だから穂花さんに会いに来たんですよ」千草は、幼気な少女にあからさまな嘘をついた。
「でもチグサ……、なんか、元気ない。大丈夫?」穂花は心配そうな表情で首をかしげる。
純粋であればあるほど、邪悪なものには敏感になる。
幼い彼女は、邪悪な私の嘘を本能的に見抜いているのかもしれない。
子供はバカ……?
動物は、人間よりも劣っている……?
そんなのは嘘。大嘘。
大人になればなるほど心が濁って、子どもの頃に見えていたものがどんどん見えなくなるだけ。
人生は、大事なものから順に霞んでいく。
大人にならなければ見えないことがあると思っているのはただの思い込み。それは見えているのではなく、大人になることで失ったものの代わりを、都合よく頭の中に作り出して、見えたような気になって言い訳しているだけのこと。
動物は、人間みたいな無駄な感情がない。邪な考えもない。ただ本能に従って、この星の理に従って、感じたままに生きている。争いもしない。虚勢も張らない。嘘もつかない。どこまでも透き通った純粋な瞳で、あるがままを見て、受け止め、その流れに抗わずに生きている。
私たち人間の大人に、彼らのような崇高な生き方が出来るだろうか。
きっと、出来ない。
つまり人間が他の何よりも優っているなんて、人間だけの思い上がり。思い込み。
人間なんて、所詮、生まれる前から劣化を前提として設計された脆弱な生命。常識に縛られ、言葉に支配され、争いあっておカネを求めて……、無意味に殺し合って……。瑣末な自己を顕示して、満足して……。これでいいんだと無理矢理自分に言い聞かせ、死ぬまで濁り続けていくだけの虚しい生き物。
劣っているから、
怖いから、
あらゆる生き物を見下し、この星を支配した気になって自然を破壊し、挙句の果ては、無垢な未来ある子どもたちまで犠牲にして、大人というだけの自分たちの存在を正当化している。
こんなに劣ったつまらない生命体が、この星に、他にいるだろうか。
多分、いない。
そう、私も、もう立派な大人。
邪悪な大人。
「チグサ……?」
気付くと、くりりとした丸い瞳がこちらをじっと見つめていた。
「ごめんなさい……」千草は我に返って、精一杯に微笑んだ。「私、そんなに元気がない顔してますか?」
「うん、してる……」穂花は、今にも泣き出しそうな、萎れた表情で口元をすぼめた。多分彼女は、普通の子どもよりも多感だろう。
「じゃあ、穂花さんと一緒にドライブでも行って、元気だそうかな……」千草は、柄でもなく思わせぶりに言うと、わざとらしく嬉しそうな顔を作って立ち上がった。
ドライブの一言を聞いた瞬間、穂花は大きく顔を綻ばせて飛び跳ねた。「行く! あたし、ドライブ大好き!」
「それじゃあ……、行きましょう」
千草は、はしゃぐ穂花の手を引いて、境内を早足で歩いた。
人の気配は一切ない。胸の奥から湧き上がる焦りをなで下ろしながら、千草は境内を出た。
しかし、千草の安堵は長くは続かなかった。
道路を渡って自分の車に近づこうとした時、さっきまではいなかったはずの黒いセダンが、千草の車の後方百メートルくらいのところでハザードもつけずに停車していた。
車内には、サングラスをかけたスーツ姿の男が二人。フロントガラス越しに、身を乗り出すような姿勢でこちらを見据えていた。ふたりの男たちは、千草が道路を渡り切る頃には、車外に出てこちらに向かって歩き出していた。
一瞬にして心拍数が高まるのを感じた千草は、なるべくそちらを見ないようにしながら荒々しい動きで穂花を引きずるようにして助手席側に回った。
「チグサ、痛い!」手首を絞められた穂花が苦痛に顔を歪めて叫んだ。
千草の様子に気づいた男たちは、徐々に駆け足で動きだす。
「早く乗って……!」穂花の訴えを無視して車のドアを開けた千草は、荷物を押し込めるように、乱雑に彼女を助手席に押し込めた。
ドアを閉めて後方を見やる頃には、男たちはすでに車の傍まで接近してきていた。
「NFIの袴田准尉だな」背の高い方の男が低い声で言った。
「……どなたですか?」千草は、飄々とした風を装って吐き捨てるように言い、男たちを見た。
浅黒い顔。サングラス越しにも伝わる鋭い眼光。スーツ姿でもわかる鍛え上げられた堅牢な体躯。どちらの男も、明らかに素人ではない。軍人か、それとも警察関係者か……。
「その娘をこちらに渡してもらう」男は言うと、数歩こちらに近づいた。
「どなたなのかと聞いています」千草は少しだけ声のヴォリュームを上げた。赤メガネの奥の瞳を尖らせる。
緊張してはいるものの、今の自分は、自分でも評価してやりたいくらいに勇敢だ。千草はそう思いながら、視線をさらに強めて相手を恫喝するように凄んだ。「この娘になんの用……、ですか?」
助手席に座った不安そうな穂花が、今にも泣き出しそうな顔でこちらを見上げているのが視界の隅に入った。
その空気を察したのか、後部座席の神威までが悲痛な叫び声を上げ始めた。
隼の声はとにかく通る。甲高く湿った野生の鳴き声は、みるみる内に密閉された車内から滲み出して、辺りの木々にこだまする。
「その質問に答える必要はない」もう一人の男が早口で答え、一歩、また一歩と接近してくる。
その刹那、千草は自分でも信じられないようなスピードで、二人の男に向かって拳銃を構えていた。「それ以上近づかないでください……。私、本気です」
千草が拳銃を所持してたのが想定外だったのか、男たちは一瞬怯んだようだった。しかし、お互いに顔を見合わせた後、軽く頷きあってから、相手も懐から銃を取り出して銃口を光らせた。
一瞬にして凍りついた空気。千草と男たちは、時間が止まったかのように均衡した。
田んぼの奥の崖下から、冷たい風が吹き上げてきた。周囲の木々がざわめき出す。
自然の喧騒を切り裂き響く、神威の声。
「チグサ!」
ガラス越しに、穂花の籠った声が聞こえてきた。けれども、千草は相手から目をそらさない。
しばらくの間、その状態が続いた。時間にすれば、ほんの十数秒だったかもしれないが、千草にとっては、十分にも二十分にも長く感じられた。
直後、膠着した重苦しい空間に、新たなノイズが割り込んできた。
深く沈んだ、けたたましく張り裂けるような音。
車のエンジン音だった。
小さなエンジンが、今にも壊れそうなほどにフル回転して山を登ってきているのがすぐにわかった。タイヤが路面を擦り付けるスキール音が加わった。
数秒もしないうちに、その車が姿を現した。
曇り空の下で薄暗く沈んだ空間に、目の覚めるような黄色が飛び込んできた。
想定外の事態だったのだろう。明らかな動揺を示した男たちは、銃をこちらに構えたまま、音のする方向を振り返った。
黄色い小型車は、男たちの真横を突風のごとく通り去り、氷の上を滑るように回転しながら千草の車の真横で止まった。
ゴムの焼ける焦げ臭い匂いが、暗黒色の煙と共に追い風に乗って鼻をつく。
左ハンドルの車から飛びでてきたのは、司令官のニーナだった。
ニーナは華麗且つ滑らかな動きですぐさま銃を掲げて、二人の男に向かって叫んだ。「銃を下ろしなさい!」
予想外の人物の登場に、二人の男たちは軽く舌打ちをして憎らしげに顔を歪ませた。
ニーナは、男たちを真っ直ぐに見据えたまま、車越しに「間に合ってよかった」と小さく呟いた。
「私はNFI司令官、ニーナ少将です」ニーナの柔らかくも威厳の込もった声が、周囲に反響して鳴り響いた。「あなたたち、陸軍諜報部の人間ね。この娘は、訳あって私たちNFI、及び環境エネルギィ省の保護下にあります。身柄の引き渡しを要求するのであれば、軍部に対して正式な申請を行い防衛省経由で行いなさい。今引き下がるのなら、その手に持つ銃のことは忘れましょう。ただし、こちらの警告を受けて、それでも強硬手段に出るのであれば、正当防衛としてこちらからも発砲します」
「ニーナ司令……」千草は、精悍なニーナの横顔を見つめた。
「袴田さん……。あなた、大事な穂花ちゃんを連れて、どこへ行くつもり?」ニーナは視線を真っ直ぐ男たちに固定したまま囁いた。笑っているような、怒っているような顔だった。
「それは……」鋭い問いに口を噤んだ千草は、軽く俯いた。
すべてが予想外の出来事だった。男たちの存在も、ニーナの出現も。
計画が大幅に狂った千草は、頭の中が真っ白になり、もはやどうしていいのかわからなくなっていた。
次の瞬間、思考を巡らす千草のわずかな隙を狙ったかのように、一発の銃声。
辺りの森に潜んでいた無数の鳥たちが、泣きわめくように一斉に飛び立った。
加速度をつけて放射状に撒かれ飛び散る血液が、じんわりと地面に広がっていく。
重力になされるがまま静かに落下し、路面を叩きつけた千草の拳銃。鈍い金属音が足元に響く。
「袴田さん!」
「チグサ!」
ニーナの叫びも、穂花の絶叫も、右手を撃ち抜かれた千草の耳にはほとんど届いていなかった。
男の放った銃弾は、千草の右腕を貫通していた。
銃弾激しい痛みが全身に広がり、やがて痺れを伴う悪寒に変わった。
躰が震えた。
千草は、残された左手で右の手首を必死に抑えながら、その場に屈みこんだ。
発砲した男たちは、すぐさまこちらに駆け寄ろうと足を進めた。
「動くな!」ニーナは激しく恫喝して、二発、男たちの足元に向けて銃を放った。
ニーナの銃に牽制された男たちはその場で動きを止めて、今度はニーナに向けて銃を撃ち放つが、ニーナは車の陰に身を潜めて回避した。
すぐに男たちは千草の車を目掛けて走り出すが、ゆっくりと立ち上がった千草の姿を見て、再び足を止めた。
千草は、ねっとりとした血液が滴り落ちる右手を放り投げるように垂らしたまま、落とした銃を左手で構え直し、助手席の穂花に向かって銃口を向けた。
「あなたたちは勘違いしてます。……この娘は今、私の側にいるんです。それ以上近づいたら、本当に殺しますよ」千草のメガネが、曇り空を写して灰色に光った。「そうすれば、きっと、あなたたちが知りたがっていること……。千年花のことも、ソリッドカルスのことも、何もかもが、もう二度とわからなくなる。それでも……、本当にいいんですか?」
千草の本気の覚悟に射抜かれた男たちは、悔しげに歯ぎしりをしながらその場に立ち尽くすしかできないでいた。
「袴田さん……、あなた……」ニーナが力弱いか細い声で呟いた。
「ニーナ司令も、邪魔はしないでください」千草は銃口を穂花に向けたまま、車のボンネット側をゆっくりと回りながら歩き、運転席に近づいた。「少しでも動いたら、この娘は殺します」
「……わかったわ。もう止めない」ニーナは諦めきった様子で力なく笑った。「……ご両親の所へ……、行くんでしょう?」
千草は、ニーナの予想外の返答を受け、全身に電流が走るような衝撃を感じた。必死に隠そうしていた動揺の色が、きっと顔全体、否、全身に浮かんでいたかもしれない。
「な、なに言ってるんですか……。私にはもう親なんて……」
「隠さなくてもいいのよ。私は、わかってるから……」ニーナは千草の言葉を遮りながら言った。
千草は、心の底から狼狽していた。
絶対に知るはずもないことを、なぜかニーナは知っていた。
ごく僅かな人間しか知らないその事実を……。
(なぜ……?)
橘さんも、司令も……。どうしてみんな、そんなに……。
(なんでそんなに人のことを気にかけられるの……!)
私なんか、ずっと今日まで、自分のことだけで精一杯。
自分、自分で生きてきて……。
人のことなんてほとんど見ようともしてこなかった……。
それなのに……。
「ただ、ひとつだけ約束してほしいの」ニーナは微かな笑みを浮かべて、千草を刺激しないよう穏やかに語りかけた。「……死なないで。それから、穂花……、その娘のこと、守ってあげて」
「司令……」千草は、鼻元から目頭にかけて熱さが込み上げてきているのを感じていた。
「あなたがそれを守ってくれるのなら、私もひとつ約束をします」ニーナは消え入るような声で囁いた。「私たちはNFIは、あなたを、そしてその娘も……、絶対に取り返す。だから、絶対に死なないで……。約束よ」
いよいよ溢れ出した大粒の涙を隠すことなく頷いた千草。彼女の足元のグレィの路面には、大粒の涙と血の雫。その二つが垂れ落ちることによって、黒と赤の、醜くも美しいコントラストが生まれていた。
そして、そのコントラストを中和し滲ませるかのように降り出した大粒の雨。
一粒、二粒。はじめは遠慮がちだった自然の涙も直様勢いを増し、気がつけば、不純な侵入者たちすべてを洗い流さんとする山神の鉄槌が如く降り注ぎ、痛々しいほどの猛威を振るい出した。
千草らに向かって真っ直ぐ突き刺すように落下する豪雨の水勢は、自らよりも何倍もの質量を誇る人間の存在でさえも、地面に向かって激しく押し付けなぎ倒すくらいの重圧があった。
良好だった視界も、今はまったく閉ざされた。
豪雨に打ち付けられ、この世の終りを告げるように戦慄き猛る、悲しげな山の咆哮。
周囲に立ち込める、土と、草と、樹木の湿った臭い。
千草のかける赤メガネは、もはやその役割を果たしてはいなかった。
「ここは私に任せて行きなさい」ニーナの顔はすぐそこにあるはずなのに、その大半は、足元から立ち上る濃厚な雨煙で霞んでしまった。「なにがあっても、あなたは私の大事な生徒。それを忘れないで」
次の瞬間、山の慄きのように轟々した激しい雨音に混ざって聞こえる歩の声。はっきりとは聞こえないが、境内の奥から穂花の名を呼び叫んでいるようだった。
千草は、歩がこちらに近づいてくるのを察知し、すぐに車に乗り込みアクセルを吹かした。
神威が、金切り声をあげてカゴの中で羽ばたく。顔を真っ赤にして口を開け広げた穂花は、突如襲った大雨に負けじと泣きじゃくっていた。
視界は大半、涙と雨でほとんど見えなかった。
どれだけワイパを早めても、涙だけはぬぐえなかった。
撃たれた右手の痛みなど、どこかへ消えていた。
千草は、バックミラを一瞥。
後方で響いた幾発もの銃声。
待機中に浮遊した水蒸気に囲まれ、悲しいくらいにくぐもって聞こえた。
瞬きもせず、
声も出さず、
ただただ真っ直ぐ前だけを見つめ、
声が掠れ枯れ果てるまで、
何度も、何度も、
ごめんなさい、
ごめんなさい。
そう繰り返し、
千草と穂花、一翼の隼を抱えた小さな車は、雨に煙る長い長い山道を淡々と下っていった。
次回投稿は一週間後、2016年6月30日(木)。連続更新はテキストに余裕が出来次第順次スタートしていきます。原則としてはTwitterアカウントにおいてお知らせしますが、告知なく始める場合もございますのであらかじめご了承ください。)
※この物語はフィクションであり、実在する人物、法律、団体、名称とは一切関係ありません。




