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22. 満ちる旋律

今話のi2M (image instrumental Music) はこちら!


LUNA SEA

『月光』~Ludwig Van Beethoven~

https://www.youtube.com/watch?v=6YrEWVlAcJk


ぜひ、すばらしいメロディを聴きながら、作品のイメージを膨らませて読んでください。

22


 基地を飛び出した袴田千草は、自宅に向かっていた。


 彼女の自宅があるのは筑紫の隣町で、基地からは車で四十分ほどかかる場所にあった。隣町に行くには、一輝の住む花咲神社を過ぎて筑紫山を越えるルートの他、山を迂回する平地のルートがあった。車の運転が苦手な千草は、士官学校時代から後者のルートで筑紫の町まで通っていた。


 今も、いつも通りの通い慣れた道でハンドルを握り自宅を目指していた。しかし、彼女の心境はいつもとはまったく違っていた。恐らく、もう二度とこの道を通ることはない。千草はそれを確信していたのだ。


 そんな彼女の不安定な心を読み取ったのか、フロントガラス越しに見える低空には、限りなく黒色に近いグレィの分厚い雲が停滞し始めている。


 もうずっと。気が遠くなるほど長い間、心の中にわだかまりとして蓄積していたヘドロのような感情が湿気となってみるみるうちに空に吸い上げられているような気分……。


 千草は、ハンドルを握る手元に視線を落としてため息をついた。


 しかし、決して重たい気持ちだけではなかった。どちらかというと、抱えていた重荷を投げ放ったような開放感。黒く重くのしかかる空とは反対に、どちらかというと爽快な気分。今までに感じたことのない、独特な感情によって、胸が激しく締め付けられる思いだった。


 これから自分が一体なにをしようとしているのか……。それは当然、千草自身が一番よく知っていた。


 たった今自分は、数年の間支え合ってきた仲間たちに背を向けている。その疚しさが、開放感に満ちた心の肩を軽く叩き、後ろから鋭く突き刺してくる。


 同級生たちの顔が、何度もしつこいくらいに目の前を()ぎった。


 けれども、背徳感や罪悪感、緊張感……、そういう類の後ろめたさは不思議と感じなかった。否、感じていたのかもしれないが、人生最大の目標に向かって歩き出した彼女は今、無理やり助走をつけて得た勢いだけに任せて、自分の本心を、無理やり心の片隅に押し込んでいただけかもしれない。


 思えば、自分の短な人生の中で、ここまで強い意志を振り絞って主体的に行動しているのは初めてだった。かすかな心の高まりに呼応するように、アクセルを深く踏み込んだ愛車も、心なしか、いつもよりエンジンの回転音が甲高く聞こえるようだった。


 時速五十キロ。


 前方との車間を多めに開け、千草は、メータパネルの手前に転がしたままの、くしゃくしゃのメモ用紙を一瞥した。基地での別れ際、エミリが密かに握らせたものだ。


(エミリさん……)千草は心の中で、あの時の彼女の表情を克明に思い出す。


 いつもと変わらず、感情のぬくもりが感じられない無表情。けれども、黒目がちの大きな瞳には、特有の冷たく碧い、煮えるような強い意志が確かに灯っていた。



 エミリはきっと、すべて気づいていたのだ。


 私のことも、こうなることも、すべて……。


 あの日から……、ずっと。


 いつだって彼女は、見て見ぬ振り。知っているのに知らぬ振り。


 そういう友人だった。


 千草は、メモ用紙に書かれた文字を噛みしめるように、強く目を閉じた。そして、その紙を掴み、小さく丸めながら胸ポケットにしまった。


 

 冷めたお風呂のように生ぬるくて、試験の前日のように(だる)い気分。


 それと同時に、遠足の前の日のような……、引越し前日のような、ワクワクして、けれども、どこか胸の奥がきゅうっと締め付けられるような、眠れなくなるような、あの、懐かしい感覚。


 本当に久しぶりだった。


 複雑な思考と記憶を、心地よく響くざらついたロードノイズがかき消してくれた。


 フロントガラスに、小さなビーズのような水滴がひとつ、ふたつと落ちてきた。


 まるで涙のよう。

 気づけば空は泣いていた。


 みっつ、よっつと、わずかな間にビーズの涙は増えていき、いつしかフロントガラスは滝のような雨に覆われた。


 千草のわだかまりを吸い上げたはずの空も、そのあまりの重圧に耐えられず、泣き出したようだった。


 わかっている。


 結局、誰も、逃げることはできない。


 悲しみも苦しみも、誰かに預けることでは無くならない。 


 それらを無くすには、いつかは必ず自分で立ち上がって、自ら戦うしかない。


 何度、この重圧に潰されかけたことか。


 空が泣くくらいなのだから、多分、私だって、ほんの少しくらい、泣いたっていいかもしれない。


 でも、泣かないって決めた。あの日から。


 涙だけは、いつも先送りにしてきた。


 だから……。


 千草は、危うく、脆弱な雑念に支配されかけた心を拭って発破をかけるように、大量の雨粒に侵食されたフロントガラスに、最高速のワイパをかけた。


 苦しげなモータ音と共に動き出した素早いワイパは、私の鼓動と同じく、雨の飛沫に怯えるように激しく、そして、堪えた涙の熱だけを吸い上げたように深く高まっていた。





 自宅に着き、砂利敷きの駐車場に車を止めた千草は、車内から、長年住み慣れたアパートを見上げた。


 小さなアパートは古びた二階建てで、玄関のドアが四つ。風雪にさらされたベージュ色の外壁は黒いカビのようにくすんでいる。トタンでできた青い雨よけも白色に風化し、所々がひび割れ欠け落ち、もはや雨よけの機能をなしていない。今はただ、風化に追い打ちをかけるような激しい雨に打たれ、壊れた和太鼓のように苦しげな悲鳴を上げているだけだった。


 一階の左の部屋が千草だった。正確には彼女の叔母の部屋だったが、叔母はもうこの世にはいない。三年前に病に倒れ他界した。


 他の三部屋も、すでに空室で誰も住んでいない。このアパートに住んでいるのは千草ひとりだけだった。


 アパートの正面は鬱蒼(うっそう)とした竹やぶで、周囲はいつも不気味なくらいに薄暗い。近隣に他の民家は一切なく、耕作放棄されて荒れ果てた畑が数枚あるだけだった。そしてそれは、彼女がこの地に越してきた十年前から同じ。なにひとつ変わっていなかった。


 車から降りると、千草は頭を抱え、激しい雨から逃げるように部屋に駆け入った。


 赤メガネを取り、レンズをハンカチで拭っていると、部屋の奥から濁った笛のような音が鳴り響く。狭いキッチンを抜けて、畳敷きの六畳間(ろくじょうま)に入った千草は、窓際に置かれた縦長の白樺製の木箱に真っ先に駆け寄った。


 千草の足が畳をこする音に反応して、木箱の中からなにかが動く音が聞こえた。


「ただいま、神威(かむい)」千草は、若草を愛でるような声で言った。


 木箱に設けられた小さなドアをそっと開けると、中からは一羽の立派な(はやぶさ)が歩き出てきた。


 墨を落としたような深い漆黒を湛える両の瞳は、真新しい向日葵(ひまわり)のような黄色の(まぶた)に縁取られ、鎌のように攻撃的な曲がりを加えられた凛々(りり)しい(くちばし)が精悍な顔つきを際立たせている。完璧に生え揃った胸元の白い体羽(たいう)には、焦げ茶色のアクセントが芸術的なまだら模様に散りばめられ、自然の生み出す生命の完全さと美しさを物語っていた。


 しびれを切らすように、鈍った両羽(りょうはね)をゆっくりと伸ばした隼は、くりりとした水晶のような瞳で千草を見つめ、もう一度「キイ!」とひと鳴きしてから彼女の肩に羽ばたき乗った。


 満足したのか、今度は嬉しそうに目を細めて、ようやく帰ってきた主人の顔に向かって頬ずりをする。


「ひとりにしてごめんなさい……」


 千草が首の根元を人差し指でこすってやると、隼の神威は、気持ち良さそうに目をつむって頭を下げる。それが、得意のもっと撫でろポーズだった。


 その愛らしい仕草は、通常、神経質で臆病な性格を持つ隼とは思えないくらい、まるで飼いならされたインコか文鳥のようにひと懐っこいものだった。


 神威は、千草がこの地に越してきた十三歳の頃、鷹匠(たかしょう)を趣味としていた叔母から譲り受けたオスの隼で、神経質な性格の隼にしては珍しいくらい、生まれつき温厚で従順な性格だった。唯一の肉親である叔母を亡くした千草にとって、幼い頃から慣れ親しんだ神威は共に育った兄弟であり、かけがえのない友人、家族でもあった。千草は、神威を迎えるために帰宅したのである。


 千草は、催促を続ける神威をもう一度木箱に戻し、制服から私服に着替えて荷物をまとめた。


 脱いだ制服をどうするか悩んだが、結局はカバンの中に入れた。もう二度と着るはずのないことはわかっているのに、このまま部屋に残しておくことは、なぜか心が許さなかった。


 エミリがデザインしたものだからか……。それとも、みつほとお揃いのお気に入りだったからか……。それは正直、よくわからなかった。



 時刻は十四時を過ぎていた。


 手近な荷物を一通りまとめ終えた千草は、必要なものをすべて車に積み込んだ後、最後に、小さな冷蔵庫の前に立った。その瞬間、あの日花咲神社で過ごしたわずかな時間がフラッシュバックのように、脳裏に蘇った。


 

 千草は、固めた決意が溶けて揺らがぬうちに、震える片手を冷蔵庫のドアにかけた。


 取り出したのは四枚の透明なガラスシャーレ。そこには、今もなおうっすらと青白い光を放つタネがそれぞれ、主人に迎え入れられるのを待つように、ひっそりと息を潜めていた。千草は、タネの眠りが醒めぬうちに、事前に用意した冷蔵バックの中に、焦る気持ちを必死に堪えながら、丁寧に並べ入れる。


 玄関に立った千草は、多少の荷物を仕方なく残した部屋を見渡しながら、心の中で感謝の意を唱えた。


(ありがとうございました……)


 下げた頭に、数々の記憶が流れ込む。

 この街へ来るときは、こんな余裕さえなかった。

 でも、今は違う。

 全てを振り切って、前だけを見る。

 そう決めたから。


 

 神威の収まった木箱と共に、住み慣れた部屋を後にした。


 再び愛車のエンジンをかけた千草は、迷うことなく筑紫山方面に登るルートに向かってハンドルを切った。


 後部座席に置かれた木箱から、突然の揺れに驚いた神威の怒ったような声が一度だけ聞こえたが、千草は気にせず車を走らせる。


 大粒の雨も、さっきよりは弱まっていたし、飛び出した大通りにはほとんど車通りがなかった。否、もう、車通りの多い道なんて、この地域にはない。なぜなら、この街に来たときと比べて、明らかに、この国の人口全体が減っているのだから。


 千草は黒いスニーカの足でアクセルをゆっくりと踏み込みながら、インパネのモニタを操作しした。中央のドックには既にオムニスが差し込まれている。パネルを数回タッチして、画面をナビゲーションからテレビ放送に切り替える。千草にとって、この時間から始まる映像は、絶対に見逃すことのできないもので、数カ月以上前から楽しみにしていた放送だった。


 小さな液晶画面には、大勢の観客に埋め尽くされた屋外会場の空撮映像が映された。


 簡易スピーカからの割れかけた安っぽい音でもわかる、現地を埋め尽くす、鯨波にも似た歓声の渦。伝わる観衆の熱気と臨場感。


 灰色の雨に煙る真っ直ぐな農業道路は、無数の茶色い田んぼに挟まれ、筑紫山(ちくしやま)に向かって延々と続いている。


 千草は、信号もないその道をひたすら走る。


 もうもうと湧き上がる雨煙の中に見えるものといえば、視界の端の遠くに浮かび上がったコンビニエンスストアの古びた看板灯だけ。まるで車の中だけが、ライブ会場にワープしたような、不思議な感覚に囚われた。


 次の瞬間、燃え盛る歓声に油を注ぐように響いた、切ないピアノの旋律。


 ざらついたレコードノイズ。

 神妙な表情に鈍重なディレイを引きずるバスドラムの鼓動。ドラムンベース。

 狂気じみたエレクトリックギターの奏でるワーミーサウンド。

 独特のアレンジがなされたヴェートーベンの月光だった。


 油を注がれた歓声の炎は増幅し、まるで水を得た魚のよう。現地の空間をあっという間に埋め尽し、侵略した。


 狂乱にも近しい観衆の声が、はち切れんばかりに安物スピーカをノイズまみれにして襲う。倒壊したダムから下流の町へと襲いかかる洪水のように、声と音の渦は加速度的に膨張していく。


 ピアノの旋律に呼応するように、次第に浮遊し姿を表すアンビエントノイズ。重厚なドラムンベースは鈍重さを増し、激しい音とリズムの渦の中を嫋やかに泳ぐように旋律は波を打って周囲に広がっていく。


 この曲は、彼と彼女がステージに登場する時に必ず流される曲。


 千草はこのライブを見たかったわけではないし、小さな頃から音楽にもさして興味はなかった。でも、彼らだけは違う。千草にとって、彼らの生み出し奏でる楽曲だけは特別だった。


 旋律が終焉を迎え、すべての音が鳴り止んだ。


 沸騰しきり、蒸発しかけた空間の上に、永遠とも思える静寂が訪れた。


 水を打ったように静まり返ったステージと客席。


 間髪入れず、ステージ前方左側から徐々に姿を現し浮かび上がるクリスタルピアノ。


 漆黒の姿で、それに挑むキーボードのレイヤ。トレードマークの金髪とヘッドバンドが、真っ白なスポットライトを浴びてキラキラと宝石のように輝く。


 少し遅れて中央から浮かび上がるのは桃色のロングストレートヘアが印象的なヴォーカルのエルメス。


 千年に一度の歌姫と呼ばれた彼女の歌声は、まさに至高。一切の曇りなく透き通る声色は、聞くものの心を癒し、惹きつけ、魅了する。時には、混沌に満ちたこの世の(よこしま)さえすべて払拭するような聖性を感じさせられることさえあった。


 命の儚さと、脆さ。

 戦争と平和。

 生の苦しみと死の悲しみ。

 誰の心にも巣食うはずの闇と憎悪。


 彼らの楽曲のテーマは、過去、多くのミュージシャンに歌いつくされたありきたりなものとは一線を画していた。


 リーダのレイヤによって雄大に織り込まれた繊細で優美なメロディ。


 エルメスの紡ぐストレートかつ叙情的な歌詞と、それを完璧なまでに表現する歌唱力は、今や、混沌に満ち満ちたこの世を生きる多くの人々に絶大な評価と支持を得初めていると言っても過言ではなかった。


 音楽に疎い千草でさえも、彼ら二人の名前と顔は知っていた。それどころか、彼らの存在は長い間、千草にとって大きな心の支えでもあった。


「私も……、もうすぐそこに行くから……」画面に向かって呟いた千草は、再び始まった繊細な旋律をバックに、ようやく目の前に現れた雄大な筑紫山を登り始めた。


 千草の次の目的地は、花咲神社だった。

次回投稿は一週間後、2016年6月2日(木)。連続更新はテキストに余裕が出来次第順次スタートしていきます。原則としてはTwitterアカウントにおいてお知らせしますが、告知なく始める場合もございますのであらかじめご了承ください。)


※この物語はフィクションであり、実在する人物、法律、団体、名称とは一切関係ありません。


※当作品内に掲載されているすべての文章、画像等の無断転載、転用を禁止します。すべての文章、画像等は日本の著作権法及び国際条約によって保護を受けています。

[ Copyright 2016 Koma Aoi. All rights reserved. Never reproduce or replicate without written permission. ]

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