16. 悪魔の孤独な主張
<本稿のテーマソング>
澤野弘之『AcyOrt』(アルドノア・ゼロ OSTより)
https://www.youtube.com/watch?v=RJnjsnGhKSk
16
エミリと達也は、四階中央ホールに突入。部屋に充満した重苦しい闇の中に目を凝らす。
室内は、予想していたよりも明るかった。
ホールの天井一面に貼られた透明のガラス面は、天井左角で斜め四十五度に曲がって、床まで続いている。上部左方のからは、ガラスを通して磨かれた、切れ味の鋭い月光が光の束となって差し込み、薄闇を切り裂くように差し込んでいた。
光の先に垣間見える外部には、神殿のような西洋式テラスが闇に浮かんでいるようだった。
月光のスポットライトが落ち込んだ丸い光の輪の中には、一人の男。天に抜けるかのように背の高い男は、闇に溶け込んでしまうような漆黒を纏っている。細く長い腕を高く掲げている。
明るく鋭い月光も、男の黒だけは切り裂くことができないようだった。否、寧ろ、黒き男の存在こそが、月光を切り裂いているようにさえ見える。背中を攻めあぐねた光の束は、躰の表面を撫でるようにして溢れ、仕方なしに、足元へと溜まって佇んでいるようだった。足元から伸びた影は、清き月光の妖力さえも利用して、部屋の奥に転がされた人質の吹き溜まり向かって、食指を伸ばすように真っ直ぐに伸びている。まるで、闇の帳から、彼ら人間の養分を吸い上げる根のようにして。
エミリと達也は、大きな影の警告に、思わず足がすくんでしまう。それでも、鍛え上げた二人の精神力は、辛うじて、目の前に突如現れた巨大な黒と均衡した。
「総理……!」しばらくの沈黙の後、エミリが声を上げた。
漆黒の男の手の先には、この国の長の姿があった。
革の手袋をはめた大きな手で首を絞められた総理大臣は、じたばたと足を揺らしてもがき苦しんでいる。顔面を歪ませ、両手で必死に男の手を解こうとしているが、男は時間が止まった石像のように微動だにしない。
「すぐにその手を離しなさい!」エミリが銃を構えて叫んだ。「さもないと撃つ!」
エミリは、隣で硬直する達也を一瞥した。彼は今、あまりの恐怖に凍りつき、身動きさえとれない状況だった。
エミリはすぐに視線を男に戻した。すると、漆黒のシルエットの中から、真っ白な目玉だけが一つ、じろりとこちらに向けられ、視線がぶつかった。
「ほう」男は口元をかすかに上げて、吐息のように囁いた。
直後、男はこちらを見据えたまま、首を絞め上げた片手を解放し、総理を地面に投げ落とした。
死にかけた赤子のように崩れ落ちた総理は、両手を床について這いつくばったまま、激しい嘔吐を繰り返してむせ込む。
「楽しげな邪魔が入ったな」男はこちらに向き直り、両手を広げた。まるでこちらを歓迎して迎え入れるように、優雅な口調だった。
その瞬間、エミリは全身の肌という肌に、苦い悪寒が広がっていくのを感じた。
(笑ってる……)
長い前髪に覆われほとんどが見えないが、青白く彫りの深い男の顔には、不気味な嘲笑の色がにじみ出ていた。
与えられた玩具を弄ぶ子供のように無邪気な微笑み。その不敵な表情は、人の命を奪うことを楽しんでさえいる。そんな顔だった。
相手の全身からほとばしる、透明な月光を濁らせるような妖気にも似たオーラ。
ぐつぐつと煮えたぎるような、底なしの邪気。
「なにをしているの?」男の視線に射抜かれたエミリは、毅然とした態度で言い放ったが、内心は、恐怖に打ち震えていた。この場にまともに立っていられるだけでも不思議なくらい、彼女の心は満身創痍。いつ崩れておおかしくない状態だった。
「総理への……、挨拶」男は顎を引き、口元をさらに歪めながらゆっくりと答えた。
「そ……、外の死体は?」達也、怯えを振り払うように強い口調で問い詰めた。
男は吹き出すように言った。「ああ……。ここまで来るのに邪魔だったから、全員死んでもらった。……と言っても、勘違いしてもらっては困る。俺はなにもしていない。俺の中に芽生えた黒い怪物が、勝手にやったことだ。すべての責任は、俺にはない」
「怪物……?」「彼?」二人は男をじっと睨んだまま眉を潜めた。
男の言葉の端々には、狂気にも似た、なにか異質な意思が含まれている。
(狂ってる……)エミリは、直感的にそう感じていた。
「二人とも、気をつけて」
硬直した鼓膜に、ニーナの忠告が遠く響いた。
それは、その場に立つ二人が、誰よりも分かっていることだ。
言われなくても分かってる。
二人は、心の中だけでつぶやいた。
男は、吐き捨てるように言葉を続ける。「ただ試してみたかっただけだ……。あいつらが先にしかけてきたから」
「武器を捨てて、投降しなさい」エミリは、相手の言葉をかき消すように、強い口調で告げた。
「武器?」男はにやりと笑ってエミリを見る。「そんなもの俺には必要ない。武器は、弱者の持ち物だ。そちらこそ、そんな物騒なもの、しまってくれないか? なあ。第百八十代内閣総理大臣様の御前であられるぞ。はっはっは!」
「ふざけないで!」エミリ、叫ぶと同時に冷たいトリガを引き絞った。
青白い閃光が、一瞬のうちに暗闇を切り裂く。しかし、レーザーは闇に吸われて消えてしまった。さっきまでそこにいたはずの男がいない。
(消えた……?!)
次の瞬間、男はエミリの眼前に突如として現れた。
目の前に湧いて出た顔には、どこか女性的な繊細さが垣間見えた。しかし、それとは対照的に、相手の心を刺して潰すような黒い視線が右目から、こちらに向けて注がれていた。前髪の奥に見えた左目は、胡桃の殻ようにおぞましく潰されていた。
その顔には、美しさの中に存在する、真の醜さが共存しているようだった。
眩く煌びやかな光の中にのみ生まれる、真に黒い、すべてを閉ざすような、深淵を満たして止まない闇の塊。
エミリは、男の視線に生気を奪われたような気がした。
みるみるうちに視界は狭まり、軽い目眩さえ覚える。湧き上がる恐怖に全身の神経伝達が阻害され、息を飲むことしかできないでいた。
肺が固まったように重く、呼吸が苦しい。
「お前、いい目をしているな」吐息を感じるほどの距離に迫った男は、エミリの顎先を指でつまみながらつぶやいた。「俺と同じ目だ……」
エミリは男の手を払いのけようと試みた。しかし、全身は鉛のように鈍重で、まったく言うことを聞かない。口を紡ぎたくなるような汚い罵倒の言葉がいくつも思い浮かでも、それを音にして投げつけることさえできなかった。
「お前の奥にはなにがある……?」男は、品定めをするかのようにエミリの瞳の奥を覗き込みながら、楽しげな口調で続けた。「怒りか? 恨みか? それとも孤独、悲しみ……? 否、そんなに安直な、安いものではない……。お前の奥底にあるのは、俺と同じ、闇だ……。激しく高ぶり、けれども、ふつふつと燻ることしかできない脆弱な憎悪の黒炎。違うか? なぜ、そんなに正義振る? なにがお前を焚きつける? お前の真の心の奥底には、冷たい闇を感じるぞ……。この世のすべてを凍らせるような、冷徹な冷血の魂。そんなお前が、なぜ政府の飼い犬として落ちぶれている。下らないに身に安住し、世の安寧を願う……。自分が情けないと思わないか?」
額にはびっしりと、霧吹きで吹き付けたような脂汗が滲み出していた。しかし、額をぬぐうことさえできない。言葉を発することも、相手を睨むことも、攻撃することも……。
「やめてください……」隣で呆然と立ち尽くしていた達也が小さく呟いた。「彼女から……、離れてください……」
「あ……?」男は顔だけを動かし、達也を横目で睨みつけた。
「彼女から離れろ!」達也は大声で叫び、腰に装備していた黒い筒を取り出した。ボタンを押すと、筒の先からブレード型のレーザが照射され、黄色い光が闇に差し込んだ。
達也は片足を力強く踏み込み、猛然とした勢いで男に斬りかかった。
次の瞬間、臓腑を脅かす、鈍い音。
男の指先から伸びた、黒紫色の鋭利な光が達也の体を貫いた。
達也は、鋭い痛みに全身を支配された。その直後、胃の奥から生暖かくて血生臭い粘性の液体がこみ上げ、口内に飽和した。液体はすぐに限界水位を突破して、達也の唇を押し広げる。
達也は、激しい勢いで吐血。粘り気の強い赤黒い血液が、塊のようにびたびたと床にこぼれ落ちる。
全身を襲う激しい痛みは、躰の内外にまとわり付くように広がり、彼から、生力と気力の両方を奪っていった。筋力を失い脱力した達也の両手からは、銃とブレードが、廃棄される鉄塊のように落下した。
口の中が一気に錆び臭くなった……。
目の前を、真っ白な砂嵐に覆われるような感覚。
血の気が引く。
全身に痺れが襲う。
眠気に似た、気の遠くなる感覚が、達也の意識を覆い潰した。
「神代くん……!」エミリは、ようやく開きかけた口から、達也の名前を叫んだ。しかし、恐怖に凍りついた全身はどうしても言うことを聞かない。
「まあ、そう慌てるなよ……」男は、唯一残された右の片目を中央に寄せ、達也をあざ笑うように口元を斜めにした。
男は、上半身をバネのように引き伸ばして、差し出していた右手を引き抜くようように動かす。次の瞬間、達也の胸と背中から、激しい血飛沫が吹き上がった。
達也の躰を貫通していた黒紫色の正体は、男の右腕だった。男の腕は、肩の先、肘周辺からまさに黒紫色の靄と化し、鋭く細長いレイピアになり、達也の躰を貫いていたのだ。
エミリは、激しく吹き上がる赤の噴水に目を伏せることしかできなかった。強く瞼を閉じ、顔を背けた。
達也はすぐさまその場に崩れ落ち、足元の暗がりに同化するように姿を沈めて動きを止めた。
「神代くん……?!」イヤモニタには、どうすることもできないニーナの悲痛な叫びだけが虚しく響いた。
「今日は挨拶に来ただけだと言ったはずだ……」男は、レイピアに纏わりついた血液を払うように腕を振り、背後で嗚咽を続ける総理大臣を一瞥すると、再びエミリに向き直った。顎先をつまんでいた指をそっと離し、吐息交じりの掠れた声で囁く。「よく見ておけ……。これが、俺の中に芽生えた黒い怪物だ」
男は、激しく振戦を始めた上半身をゆっくりと前かがみに縮込めた。
不気味なほど広く横に広がった口元からは、体温を感じる激しい吐息が漏れ出す。
次の瞬間、男の背後から、不気味な形をした何かが、盛り上がった筋肉のように姿を現した。
堂々と翼を広げて羽ばたく蝙蝠のような二枚の苞葉。
巨大ワームの口のように大きく開く、薄気味の悪い花芽。
触手のように広がる、か細い無数の花茎。
その姿は闇よりも黒く、悪魔よりも悍ましい造形だった。
エミリは、体内で無限に肥大、増福していく恐怖の中、必死にその花の名を思い出す。
実物は見たことがないが、昔、どこかで見かけたことのある花……。
そう、図鑑だった。
(デビルフラワー……!)
男の背後で肥大化していく巨大な花は、無数の花茎をゆらゆらと揺らし、二つの丸い苞葉を瞳のように開き、こちらをじっと睨みつけている。
花……?
植物……。
種……。
もしかして……。
それなら私の中にも……。
黒紫のオーラに覆われた男の全身からは、不気味な妖気が迸り、こちらの肌を焼き焦がすような熱を放っていた。
エミリは、自身に突然襲いかかった激しい目眩と吐き気を必死に堪え、妖気に飲まれないように目を見開き、確固たる戦意を奮い立たせるよう、全身に力を込めた。
(逃げちゃだめ……。絶対……! 飲まれる!)
「怖いか……?」男は得意げに笑みを浮かべて、舐めるような上目使いの視線を向けた。
エミリは瞬き一つせず男を睨み返し、津波のように迫り来る闇のオーラと対峙した。
心臓は爆発寸前。指揮者を失ったオーケストラの如く、アンリズミカルな鼓動を激しく刻む。肺は、狂ったように伸縮を繰り返し、薄れた酸素を掴もうともがいていた。
精神と肉体は、既に泥状の恐怖に埋め尽くされていたが、かろうじて正常な意識だけは保つことができていた。
一ミリでも気を抜けば、すべてが闇に飲まれて終焉する。
即席の確信と、いじましい生存心だけが、彼女の無二の支柱だった。
「こいつが俺の中で言うんだ……」男は、掠れた声のまま淡々と続けた。「殺せ……、殺せ……、もっと殺せ……、ってな。もっと血が欲しい、血をくれ、血液をくれ! 死を、悲鳴を、惨劇をおお! 」
男は既に我を忘れ、乱心していた。半ば精神を蝕まれた狂者のように、胸を張り、両手を広げ、口をあけ広げて、絶叫した。
こちらの精神を刳り返す、狂気に満ちた声色が、広大な室内に響き渡る。
足元には、冷たく沈んだ達也の姿。
背後には、嘔吐を繰り返す総理大臣。
闇の帳には、肉塊のように動かない人質の群れ。
「俺はこいつに、千年花を咲かすために選ばれた……」
千年花……?
エミリはさらに大きく目を開けた。
あんな、おとぎ話。
かすかに笑えた。
咲かす?
なんのため?
バカバカしい。
狂ってる。
あいつと同じ……。
千年花……。
狂ってる!
恐怖に冷えた心の中に、ほんの僅か、青白い怒りの執念が芽生え出した。
エミリはそれを見逃さない。
千載一遇の機会を、朦朧とした意識の中にしっかりと引き込み、硬直した躰を奮い立たせるように動かす。辛うじて動いてくれた細い指先を、ゆっくりと引き金にかけた。
「こいつの名前……、教えてやろうか」男は言った。
沈黙。
暗黒。
月光。
黒紫の妖気。
血飛沫が酸素に練り込んだ、どす黒い死臭が粘膜に滲みた。
異常な生命が吹き込まれ、醜く蠢く不気味な花は、みるみる大きく徒長して、空間を埋め尽くすほどに膨張している。
茎が擦れ、軋む音。
間欠泉に似た、薄い呼吸音。
揺らめくオーラ。
絶望の淵、黒闇の深淵から、死を司る悪魔の花がこちらの命を覗き見ている。
「俺の中に咲いた花の名……」
聞きたくない。
『悪魔 の 孤独な主張』
エミリは、男の声を打ち崩すためにトリガを引き絞った。
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