059 異変1
更新がだいぶ遅れてしまいました。すみません。
アリスが異変に気がついて目を覚ましたとき、すでに街は狂騒の渦中にあった。燃え盛る火焔に逃げ惑う人々と、それらを誘導する守衛の姿が窓から確認できる。
「ただの火事にしては規模が大きい……」
火事でないのなら魔物によるものである可能性が高い。幸いとこの宿までは火の手が回っていないようだったが、いつ魔手が伸びてくるかもわからない。
アリスは同じベッドに寝ていたアクアを揺り起こした。
「アクアちゃん! 起きて!!」
「ふにゃ? ありすー?」
寝ぼけまなこをこするアクアは事態の急変に気づいていない。アリスは小さな身体を抱きかかえて廊下に飛び出した。だが、
「煙!? まずいっ!!」
アリスは黒煙を確認すると、即座に部屋に戻って扉を閉めた。それでも、小さな隙間からはこちらの命を蝕もうとする黒い煙が入り込んでくる。
「最悪な目覚めもあったものですね」
廊下には何人たりとも逃がさないとばかりに黒煙が充満していた。階下には火の手が見受けられないものの、どこからか煙が舞い込んでいるようだ。風魔法で蹴散らすこともできるが、そうしたところで元を正さねば意味がない。ならば脱出のほかに選択肢はない。
アリスは室内を見渡すと、ある一点に目を留めた。
──たしか強化を施していると言っていたような……。いえ、躊躇っている暇はない。
それでも念には念を入れた方がいいだろう。ものの数秒でアリスは脱出の算段をつけると、不思議そうな顔をしているアクアに微笑みかけた。なぜアクアが胸をぺちぺち叩いているのか、ここではあえて触れないことにする。
「アクアちゃん。目を瞑っててね」
「? わかった」
アクアが頷くのを確認したところで、アリスは口中で一気に呪文を諳んじる。唯一残された脱出口──窓に手を翳して、鍵となる言葉を。
「【暴風の弾丸】」
深緑色の線が宙空に陣を描き、荒ぶる風を収束させた三発の弾丸を撃つ。アリスはすぐに術式をリライト。必要最小限の魔力を練り上げていく。
その間、最初に打った三発の弾丸が壁に窓を中心に正三角形の頂点を打つ。
アリスはもう一発分の魔法を留めながら、自らとアクアに付与魔法で強化を施す。
「しっかり掴まって!!」
アクアが細い腕をアリスの首にかける。アリスは暴風の弾丸をリライトした術式を解放した。弾丸よりもはるかに威力が高く、口径にすれば銃の何倍もある武器を模している。
「【いまこそ、その暴虐を解き放たん】」
筆が走るように深緑色の魔法陣が描かれていく。
「【我が命に従いて、我が道を阻まんとするものを打ち砕け】」
一枚目は大きく。二枚目はそれより小さく。三枚目はさらに小さく。
「【暴風の大砲】!!」
そして三枚が窓に向けて縦一直線に並んだとき、アリスの手の平に描かれた魔法陣から風の砲弾が放たれた。その反動は小さくなく、アリスは跳ね返されるように後ずさりした。
「少し強すぎたかも?」
風属性の上位互換である嵐属性の魔法。さらにアリスが手を加えたことにより、魔法の威力はオリジナルと比べて格段にあがっている。
アリスのもとを離れた暴風がぐんぐんと伸びていく。
一枚目と二枚目の魔法陣で圧縮と加速、三枚目で微細な方向調節をされた砲弾は、その名のとおり暴風の破壊力を圧縮したものであるが、その光景は砲弾と言うより竜巻に近い。
文字どおり大砲のような爆裂音が轟き、小さな竜巻がうなりをあげて壁に衝突する──、
「…………や、やりすぎちゃったかな」
窓を中心とする円どころか、放たれた暴風は壁一面を破壊し、果ては向かいの建物もそのまた向こうの建物も突き抜けていた。どうやら過剰すぎたらしい。
真下に人がいなかったのは僥倖だった。しかしそれどころか、周囲にも人らしき影は見当たらない。ほんの少し前までは幾人かいたはずなのだが……怪我人がいないならいいだろう。
「し、仕方ないよね。正当防衛(?)だよね」
アリスはその後少しの間、頬を引きつらせていた。
が、すぐにここを離れなければいけないと思い出し、およそ室内とは言えなくなった空間から跳んだ。その際に両隣の部屋を見たが、すでにそこには誰もいなかった。
すっと着地してから、アリスは二階を見上げる。
「八雲さんたちは大丈夫かな……」
彼らなら無事であるはずだとわかってはいるものの、胸中には一抹の不安が残る。
しかしいまはアクアを無事に安全な場所に連れて行かねばなるまい。おそらくは魔王直属軍の詰め所、もしくは依頼所あたりにスペースが確保してあるはずだ。
「ありす? もうだいじょうぶ?」
「うん、大丈夫だよ。でもまた走るから、ちゃんと掴まっててね?」
アリスは不安がりつつも、アクアにはそれを気取られぬよう笑顔を作った。アクアは困惑気味だが、燃え盛る火焔を目にしたのだろう。海碧の瞳の中央に揺らめく紅がある。
大丈夫。
優しく言い聞かせると、アクアは頷いてアリスの襟を握りしめて顔を埋めた。アリスは少女をきついくらいに抱きしめると、狂乱の声響く街路を走り出す。
「それにしても、一体なにが……?」
アリスは過ぎゆく街並みを眺めながら考えを巡らせる。
目覚めに際して見たように、遠くでは消えることなき火焔が猛威を振るっている。そこらじゅうに転がっている焼死体は喰われた形跡もない。
「魔物じゃない? ……ううん、早計かな」
ただの火事でないことはたしかだが、人が喰われていないからと言って魔物によるものではないと現状では判じきれない。いずれにせよ、情報が必要だ。
「行かないと」
火の粉舞い上がる空のもとを、ただひたすらに走る。過ぎ行く街並みは走馬灯のごとく。
どこからか悲鳴が聞こえてくる。助けて、とか、熱い、とか。
まだ救える命があるかもしれない。
けれど、アリスは守るべき少女を抱えたまま危険に飛び込むほどお人好しではなかった。
「……ごめんなさい」
せめてもの祈りを捧げながらアリスは走る。もし他にアクアを預けられるものがいたならば。そう考えたって仕方がないことくらい、分かっている。
速度を上げる。少女の身体を強化し、己が身も同じく、しかしその負担は数倍。さらに風を起こして推進力を向上させ、立ちふさがる倒壊物は容赦なく破壊していく。
同時に複数の魔法を展開したアリスは、その端麗な顔立ちに尋常でない鬼気を滲ませる。
足を動かす。時間経過につれ重くなる足を、錆びついたような筋肉を、無理矢理にでも動かして。走ると言うよりかは、一歩一歩深く踏み込んで、前へ前へと跳ぶように。
そうしているうちに、アリスはとうとう詰め所に辿り着いていた。守衛の誘導のもと、避難してきた住民たちは、みな一様に混乱の渦に巻き込まれていた。
「竜王さんは、竜王さんはどこに!?」
ごった返す人の波を掻き分けて進むと、そこには指揮官と思しき壮年の男と白鬚を蓄えた甚平姿の老人がいた。振り向いた竜王が、アリスたちを見た途端に喜色を浮かばせる。
「アリス! よかった、無事じゃったな。お主なら寝たまま気づかず焼死なんてのもあり得そうじゃ。まぁ、冗談はこれくらいにしておいて、本当に、無事でよかった。ありがとうの」
と、アクアをなでた。アリスはそんな場合ではないと歯噛みして、
「これは一体どうなってるんですか?」
「……凶暴化した魔物の襲撃だよ。門が破られたのだ」
詰め寄るアリスに答えたのは壮年の男だった。巌のように仁王立ちする男は険しい顔で言う。
「あまりに一瞬の出来事だった。堅く閉ざした門が瞬く間もなく破られた。手引きした者がいるのではと疑うほどに」
「けど、魔物なんてどこにも……」
「ああ、いなかっただろう。なにせ奴らのほとんどはこの街を通り抜けていった。一部は街のどこかにはまだ残っているかもしれない」
「通り抜けた? 魔物が?」
アリスが柳眉を歪める。男は重々しく頷いた。
「なにかもっと大きなものに怯えるように、奴らは私たちに見向きもしなかった。いまのところ住民に被害がないのは不幸中の幸いだ。と言っても、建物の倒壊などはどうにもできなかったがね」
チッと舌打ちして、男は固く握った拳を自らの腿にぶつけた。この騒ぎでは気が立つのも無理ない。かくいうアリスも悔しさに目を伏せる。
「ありす?」
「……どうしたの?」
「いーなちゃんは? ごしゅじんはどこ?」
その問いにハッとして、アリスは胸に抱いたアクアを凝視する。揺れる瞳。アクアは不安そうにアリスを見上げている。アリスは竜王を呼び止めた。
「竜王さん! イーナちゃんと八雲さんはどこに?」
「む? お主と一緒では……」
えっ、と漏れた呟きはアリスのものだ。竜王は青ざめた顔でぼそりと呟く。
「一緒では、……なかったのか」
「私が見たとき、部屋には誰もいませんでした」
「なっ……!」
アリスの震えた声。竜王が絶句する。アリスはすぐに目の色を変えると、
「アクアちゃんをお願いしますっ!!」
竜王にアクアを預けてその場で跳んだ。
「アリスッ!?」
騒めく群集の、その上に足場を展開させ、アリスは一気に駆け抜ける。いますぐ飛び出さねば、イーナが危険な目に遭っているかもしれないと思った。
「行きます! イーナちゃんを探しにッ!!」
返事を待たないアリス。竜王が何某か叫んだが、アリスは背中にぶつけられた言葉を無視して詰め所を去った。一刻も早く、彼女の許へ。心のなかでそう叫びながら。
──どこに。
「どこに、いるんですか……っ」
アリスの嘆きは街を焙る火焔の音に掻き消される。
瞬きの合間に浮かぶのは最悪の結末。その未来を阻止すべく、彼女は走っている。
「そんなはず、ないっ! 絶対にさせない!!」
アリスは下唇を強く噛むと、再び少女の名前を呼び始めた。
直後、これまでに聞いたことがないほどの猛々しい咆哮が耳を劈いた。振り返ったアリスが見たのは、時計塔が音を立てて崩れていく瞬間。
その傍らには、生きた業火が降り立っていた。




