004 謁見の間
“謁見の間”という名がつくだけあって、その扉には煌びやかな装飾が施されていた。
一口に煌びやかと言っても、宝石類がはめ込まれているだとか、そういった装飾ではない。扉そのものに彫刻がなされているのだ。
それは、雄大さを感じさせる剣であったり、また、神秘性を持つ杖であったりと、さまざまなものだった。
すごい、と漠然とした感想しか抱けなかったが、芸術関連に精通した者からすれば、その彫刻はまさに神の御業らしかった。
が、そう騒ぐのも一瞬のみ。老人が扉に手を掛けたときには、生徒たちはみな息が詰まりそうなほど硬直していた。みな、この先になにがあるのだろうか、と不安になっているのだ。
老人は扉を押し開けて、開口一番、
「勇者さまを、お連れいたしました」
と、峻厳さに満ちた声音で言った。
──そういえば、勇者、勇者、っていったい何のことだ?
八雲は不思議になった。勇者と言うと、RPGやらライトノベルやらによく出てくる言葉だが……。
しかしそんな疑問も、目の前の光景に飲み込まれた。
豪華絢爛。
そんな文句がふさわしい広間だった。爛々と揺らめく蝋燭を立てたシャンデリア。大理石の床を覆う深紅の絨毯。
中央に配置された長テーブルや椅子は、どれも見たことがないほど美しく、こと芸術関連にはさして造詣が深くない八雲でも、それらがかなりの調度品だとわかった。
「あちらにいらっしゃるのが、ここアルスの現国王にあらせられるエルヒム=レイ=アルス様でございます」
老人は深く頭を下げる。その先には、映画に出てくるような玉座。そしてそこには、赤い外套を羽織ったひとりの男性が座っていた。男性は、蓄えた口髭の下に穏やかな微笑みを湛えている。
玉座の両端には、護衛であろう騎士が二人。その遥か後方には、濃紺のローブを纏った側近らしき者たちがひっそりと佇んでいた。
──このひとが王様、か。
その立ち居振る舞いを見て、八雲はエルヒムを訝しんだ。どことなく、取り繕った感じがする。言ってみれば、来客用の笑顔だ。
「そなたたちが召喚の儀に応じたという勇者か」
エルヒムは立ち上がる。それから、八雲たち生徒に向かって深く頭を下げた。その、およそ一国の王とは思えない行動に、八雲は信じられない顔をした。
水面に波紋が広がるように、室内にいた城の人間にも動揺が走る。エルヒムは顔を上げて、
「本当にすまない。ここはそなたたちの世界ではないのだ。われわれが、身勝手な理由で召喚したゆえ、そなたたちはここにいる。そなたたちからすればここは、いわば“異世界”なのだ」
エルヒムは重々しく言い去った。
耳慣れない言葉に、八雲は思考が追いつかない。エルヒムは今、なんと言ったのだ。
「混乱させてすまない。だが本当なのだ」
聖也が、えっ、と言葉を詰まらせる。
意味がわからなかったらしく、生徒たちはにわかに混乱し始めた。どういうこと、異世界ってなに、と困惑気味の声が混じる。
「一体なんのことかしら」
「すごく凝った遊園地なんだね」
麗華は唇をへの字に曲げ、愛華は人差し指を顎に当てる。
──いや、まさか。
嫌な予想に、八雲は渋面になる。いやまさか、そんなはずはない。そんなのは、小説の世界だけのはずだ。
ふら、と八雲はよろめいた。力が抜けていって、立っているのが厳しくなる。
「ここは、アルス大陸とカルマ大陸とから成る世界。そなたたちの世界には名があるかもしれないが、この世界には名がない。確実に、そなたたちの世界とは違うであろうな」
エルヒムが語り終えた瞬間、ついに八雲は膝をついた。眩暈がして、ひどい頭痛がする。
麗華と愛華が呼びかけてくるが、八雲は軽く手を上げて「大丈夫」のサインを見せることしかできなかった。しかしそれも、やはりやせ我慢でしかなく、上げた手も力なく落ちた。
──嘘だ。嘘でないのなら、これは夢に違いない。
絶え間ない頭痛と眩暈は、倒れた八雲を苛んでいく。苦しくて、呼吸が辛い。ひゅ、と息が切れて、眩暈がさらに強くなる。
この短時間で八雲は、過呼吸に陥っていた。動悸も速まって、胸骨に強い圧迫を感じる。
平衡感覚すらも消えて、さらには周囲の音も聞こえなくなる。視界がぼやけて、あらゆるものから色が消えていく。まるで、一面灰色な世界に残されたかのようだ。
背をさする誰かの手に、八雲はかすかな安心を覚えた。
が、それでもまだ恐怖は拭いきれない。ひとりになるのは、嫌だ。喉を通った声に唇が動くも、自分がなにを言っているのか聞き取れない。
長らく続いた激しい頭痛と眩暈は、ついに八雲の意識を刈り取った。
× × × ×
他の家庭に比べれば、服部八雲の家庭事情はかなり良好だった。一人っ子である八雲は、両親とも仲が良く、週末は家族そろってどこかへ出かけるのが常だった。
母は、はっきり言って怖いひとだった。いつも眉間に皺を寄せていて、八雲が勉強を怠るとすぐに怒った。まさに怒髪天を衝く勢いだった。
父はいわゆる恐妻家であり、しかし愛妻家でもあった。母に怒られながらも、苦し紛れに見せる笑顔が印象的だった。優柔不断で頼りない、けれど誰よりも優しいひとだった。
そんな両親も、脆い一面を見せたことが一度だけある。それは、八雲がまだ小学校に入学していないころ、八雲がまだ幼かった頃だ。
園児たちは、何か悪いことが起きると口々に八雲を糾弾した。それは、やはり八雲が不幸を呼ぶと誰かが噂したからだった。ついたあだ名は、疫病神。
もちろん、八雲もそう言われていい気はしない。幼いなりにも抗議して、真っ向から衝突した。だが、八雲はいつも折れてしまうのだ。証拠を出せ、と言われてしまえば、八雲にはもう黙りこむ以外に選択肢はなかった。
しかしそんななか、八雲に味方してくれる存在がクラスにもひとりだけいた。それが、北上拓哉だった。いわゆるガキ大将だった拓哉は最初、八雲に対するイジメに無関心だった。が、あるときから心持が変わったらしい、八雲の前に立つようになった。
突然芽生えた正義感によったのか、八雲には見当もつかない。だがそれでも、味方ができたというだけで、友達ができたというだけで心は躍った。
しばらく経って、初めて友達ができたことと、友達ができたことによる苦悩を、八雲は両親に話した。拙い言葉遣いでも、八雲は必死に話した。すごく嬉しかったけど、でも、その子にも可哀想なことが起きたらどうしよう。そんな、幼稚園児には似合わない苦悩だった。
その夜だった。あの強い両親が、初めて八雲の前で泣いたのは。
母は、八雲の身体を抱いて、
ごめんね。なにもしてあげられなくて、ごめんね。八雲は悪くないのにね。お母さん、何にもわかってなかった。
どうして母が泣いているのか、そのときの八雲にはわからなかった。けれど、その温もりは身に沁みるようだった。厳しさのなかにある優しさは、母親というものの在り方を八雲に教えた。
父は無言で母と八雲を抱きしめた。そのときの父の力強さは、忘れられないだろう。優しさのなかにあった力強さは、八雲に父親というものの何たるかを教えた。
両親の温もりと愛情を、八雲はきっと、忘れられない。
しかし、その数日後、事故が起きた。
以来八雲は、ひとりが怖くなった。
× × × ×
目が覚めた。
半身を起こしてあたりを見まわす。天蓋つきの豪奢なベッドに、床には質のよさそうな絨毯が敷かれている。窓の外にはやや蒼い三日月が見えた。
見まわすうちに、八雲の目はある一点を捉えた。
傍に置かれた椅子では、麗華がこっくりこっくりと船を漕いでいた。おそらくは、八雲の目覚めを待つうちに寝てしまった、というところだろう。
「気絶、してたのか」
夢を見ていた気がするが、やはり思い出せない。諦めて、八雲はベッドから出た。麗華を起こさないように、窓際に近づく。外はすでに暗い。長時間眠っていたようだ。
そういえば、他のみなはどこへ行ったのだろうか。訊こうにも、麗華は安眠している。それも、幸せそうな寝顔で、だ。起こせるはずもない。
──迷惑かけてばかりだ。
八雲が苦笑すると、麗華がぴくりと肩を揺らして、
「ふみゅ……」
なんともだらしない寝息だ。普段の麗華からは想像もつかない。噴き出しそうになるのを、八雲は必死にこらえた。それでも、くく、と笑いが漏れる。
笑いが収まったところで、八雲は、さて、と思考を切り替えた。
「どうしたもんかね」
先ほどのエルヒムの話が真実だとすれば、ここは異世界ということになるのだろう。ではなぜ、自分たちがその異世界に来ているのか。
エルヒムの言に従えば、彼らの身勝手な理由に他ならない。その理由とは?
八雲は思い出す。勇者、召喚、異世界……。どれもこの城に来てから耳にした言葉だ。城内の者は、自分たちのことを勇者とか召喚勇者だとか言っていた。
八雲たちが勇者であるとすると、召喚したのは王たちだ。彼自身が言っていたことでもあるから、これは確定事項である。
勇者という単語を聞いて想起するものとは? 八雲は考えてみた。
一般的な、もとい、ライトノベルやゲームなどに代表される勇者の役割とは。それはすなわち、魔王の討伐。ともすれば、八雲たちはその魔王を討伐するために召喚されたのだろうか。
「なんて考えるのはアニメの見すぎかな」
だが、もしそうだった場合、どうなるのだろう。それこそふざけるなだ。身勝手どころではない、まさに邪知暴虐な王である。武器を握ったこともない高校生に戦わせようと言うのか。
八雲は暫時考えたうえで、
──……従わないといけないってことになる。
との結論を出した。
もし「魔王を倒してほしい」と言われたとして、しかしそれは、キャンセルできるような依頼ではなく、キャンセルを許さない脅しと言えるくらいの“命令”なのだ。
安らかな表情の麗華に、八雲は目を細める。だが同時に、八雲は怖くもなった。
そんな状況に陥ったとき、はたして自分はこの幼馴染たちを護れるのだろうか。
「護られてばかりの俺が言えることじゃないか」
自嘲して、八雲は再びベッドに寝転んだ。横を向いて、麗華に目を遣る。
しなやかさを持つ黒の長髪。目蓋を閉じて寝息を立てる様は、実年齢よりもずっとあどけない。寝て体温が上昇しているのか、白雪のような頬は今やほんのりとした桜色に染まっていた。
このままではかわいそうだ。
八雲は麗華をベッドに寝かせることにした。椅子でこっくりこっくりやっていると、いつか倒れてしまいそうだし、倒れなくても首を痛めてしまいそうだ。
「ちょっとごめんな」
麗華の首と膝裏に腕を回し、身体を痛めないようゆっくりと抱える。麗華は「ん……」と柳眉を動かす。
麗華を寝かせたのち、八雲は椅子を窓際に置いて座った。綺麗な三日月が浮かんでいる。三日月は元居た世界でもよく眺めた。だが、今眺めている月は、元居た世界のものとは別なのだ。
「どうすれば、いいんだろうな……」
今のところ、主導権を握っているのは王国だ。八雲たちはこの世界について何も知らない。王国外に放り出されてしまえば終わりだろう。
とりあえずはこの世界について学び、また、王が八雲たちを召喚した理由を知らねばならない。帰るためには、きっと王の願いを聞かなければならないだろう。
早く、帰らなければならない。それは、自身の夢のためだ。今朝がた聖也に語った夢を叶えるには、元居た世界に帰らなければならない。
八雲の夢は、祖父母を支えてあげて、いつまでも傍に居続けること。ただそれだけ。
他の奴らは小さい夢だと笑うかもしれない。けれど、八雲にとっては、なによりも大きな夢で、すべてを賭してでも叶えたい夢だった。
そのためには、生き残らないといけない。ここがどんな地獄だったとしても、藁に縋ってでも、どんなに無様な姿を晒してでも生き残るのだ。当然だが、生き残らなければ、すべてが水の泡となる。
それにしても、
「よく寝てるな……」
すう、と寝息を立てる麗華に八雲は目を細める。
事故の後から、八雲に対して麗華はどこか遠慮がちな節があった。しかし今は、こうして八雲の近くでも安眠している。
急に、不安になった。誰かと一緒にいるのは、自分にとってたまらなく怖い。いつか離れていったら、もしも裏切られたら……。
そんなifを想像するだけで、背筋が凍るほどの悪寒が込み上げてくる。
「なあ。俺、お前らと一緒にいて、いいのかな……」
返答がないと分かっていても、訊かずにはいられなかった。
誰かを不幸にさせたと、そう言われ続けてきた自分は、みなと共にいるべきなのだろうか。
わからない。訊かないとわからない。けれど、訊いてその答えを待つのはひどく恐ろしいことで──八雲には、その勇気がなかった。