056 真実
彼女は不安で不安で仕方がなかった。最近では夢を見ないからいいものの、その昔、ひとりで旅をしていたときはしょっちゅう悪夢にうなされたものだ。
いや、もしかすると彼女は、本当は毎晩悪夢を見ていて、しかし自己防衛として無意識のうちにその悪夢を忘れ去っているのかもしれなかった。
どちらにせよ、彼女は知りたくなかった。
悪夢のことも、失われた記憶のことも。
彼女は思う。記憶がないというのは、それだけで途轍もなく恐ろしいことである。しかも記憶のない期間ののちに故郷が間違いを犯していると知ればなおさらだ。
いったい空白の期間に、自分の身に何が起こったのだろうか。
それを知る術は、あることにはある。簡単だ。当時を生きていた人物に話を聞けばいい。
そうすることができたのなら、どれだけ楽なことだろう。彼女には訊くことができないのだ。記憶を取り戻す、いや、自分の知らない自分に起きた出来事について知るのは、記憶をなくしたままにすることよりもよっぽど恐ろしい。
知らないものを知る。知らないからこそ知る。
見聞を広める意味で知識を得るだけならば、“知る”ということは甘美な響きに感じられるのだろう。
しかし、そうではない。だからこそ、訊くに訊けないのだ。
彼女にとって“知る”ことは恐ろしく、“知らないままでいる”ことは気安い。
彼女はある青年に尋ねた。知りことが怖いから、訊かない。これは、逃げでしょうか?
青年はこう答えた。知りたくないなら知らなくていい。知りたくなったら知ればいい、と。
その言葉を聞いた彼女は少なからず救われた。が、同時にいつか知らなくてはならないのだとも思った。彼に訊かずとも、彼女自身は自分は逃げていると思っていたからだ。
ならば何故尋ねたのか。ひとえに、彼女が弱いからだ。救いを求めているからだ。
彼女が救いを求める理由。まずは彼女がどんな生を過ごしてきたかを知らねばなるまい。
生まれてこの方、彼女は、家族とほとんど話したことがない。接することすらも、だ。
彼女が神託を授かっていたからだ。
言葉を交わしたことがあるのは、唯一父親だけで、しかしその父親との会話も事務的なものに留まった。いわゆる家族の団欒を、さらに言えば愛情をも知らずに生きてきたのだ。
彼女は寂しかった。だが弱音を吐くことも許されなかった。
幼いころからそんな環境に置かれていたせいか、彼女は表面上を取り繕うのが上手くなる。彼女は、太陽のもとでは仮面を纏い、月のもとでは枕を濡らしていた。民衆は彼女を強いひとだと信じて疑わなかった。彼女の演技が上手すぎたのか、それとも彼らに縋るものがなかったからなのか、いまとなってはどちらかわからない。
齢十六になったとき、彼女は旅に出た。いや、出されたと言うべきか。
彼女は緩やかに壊れていった。一人で、独りで、孤独に壊れていった。
旅の終着点、無双を誇っていた彼女はある女に負かされる。女は彼女に手を差し伸べた。女やその取り巻きと過ごしていく中で彼女は喜怒哀楽の四つの感情を知った。
ある日、彼女は決意する。祖国へ戻り、父親にある報告をせねばと思い立った。
本当は行きたくなかった。怖くて仕方がなかった。
彼女が助けを求めれば女は出会ったときと同じように手を差し伸べただろう。
だが彼女は、助けを求める方法を知らなかった。正確には、助けを求めていいのかわからなかった。そんなことをすれば見放されるのではないかと恐ろしくなったのだ。そんな恐怖を生み出した原因は、紛れもなく幼少期に彼女を取り巻いていた環境である。
彼女は弱い人間だ。きっと、誰よりも弱い人間だ。
しかし、彼女の弱さに気づく者はいなかった。
だからこそ、彼女は声にならない悲鳴を上げている。この世に生を受けてよりずっと、最初に覚えさせられた表情──笑顔で泣き叫んでいる。
× × ×
「それ、どういうことだよ」
真意を量りかねた八雲が問いかける。竜王は淡々と答えた。
「そのままの意味じゃ。アリスには当時の記憶がないんじゃよ」
「アリスは魔王のことも竜王、アンタのことも憶えてる」
「それは記憶を失う前の話じゃ。アリスが王国に戻る前の記憶じゃろう」
「王国に戻る前……? アリスは王国に戻ったのか? 歴史書にも冒険譚にもそんな記述は一切なかったぞ?」
「アリスが戻ったことは知られておらんよ。ただ、ひとつだけ知られている事実がある」
竜王はゆっくりと語り始める。
「あの地の裂け目が『竜王の咢』と呼ばれている所以はお主も知っておろう」
「……漆黒の竜が現れてひとりの人間を食った、だったか」
「その竜はわしで、食われたのはアリスじゃ」
間を空けて、
「は!? 竜王とは書かれてたけど……あれ、本当の出来事だったのか?」
驚愕の事実に八雲が目を剥く。その逸話が事実であるとは夢にも思っていなかったのだ。
竜王の話には嘘や偽りは一つたりとも混じっていない。すべて真実であり、竜王が知っている出来事をそのまま話しているだけなのだ。
「まぁ聞きなさい。アリスは当時、カルマ大陸から戻ったばかりじゃった。国民に気取られぬようにして王城に行ったんじゃ。何故とは訊くな?」
おおかた国民を心配させないため、もしくは混乱を招きかねないから、などの理由だろう。長年戻っていなかった初代勇者が、傷一つない身体で戻ってくれば王都は凱旋パレードなみに騒がしくなるに違いない。アリスの思いやりが窺える。
「それで?」
「言わずもがな、国王はアリスの父親じゃ。アリスもあれでなかなか思慮深いが、やはり身内となると気が緩んだのかもしれん
──結果、アリスは捕縛された。当時のアリスは今とは比べられないほどに強かった。なぜ捕縛されたなのか、わしらにはわからぬ。そしてな、アリスは処刑の形を取られたんじゃよ」
お主ならわかるだろう、と視線を寄せる。八雲はハッとして、
「そうか……あそこは処刑場だ。王の行動を先読みしていた竜王がいち早く駆けつけてアリスを助けたってことだな?」
「概ねそのとおり。じゃが、わしが先読みしたわけではない。現魔王、リサーナが万全の策を用意していたまでのこと。だからこそ助けられたんじゃ。
……しかし、助けられなかったものもある」
「……え?」
「アリスは壊れておった」
重くなった竜王の声音に戸惑う八雲。すると竜王は目を閉じて、
「処刑される前に、お主と同じように拷問を受けたんじゃよ」
その言葉には、後頭部をガツンと殴るような衝撃があった。
「身体にはいくつもの傷が残っておった。裂傷、青痣、とてもではないが、目も当てられない有様じゃった」
遠くに子供たちの無邪気な声が聞こえる。市場の雑踏や歓声が街に響く部屋のなか、歯痒さを伴った竜王の呟きはそれらを避けるように八雲の耳に届いた。
「すべて、わしらの責任なんじゃ……止められなかった、大丈夫だろうと思っていたわしらの……」
悲哀を多分に含んだ声音。俯いた八雲は、竜王の気持ちを汲みとれるほど冷静ではいられなかった。
「……なんで、行かせたんだ。万全の策を用意してたってことは、アリスがそうなるかもしれないこともわかってたんじゃないのか」
抑えていた感情がふつふつと煮える。
「そうじゃな。わかっておった。アリスの話を聞くに、国王は出来た人間とは言えない男じゃった」
「なら行かせなければよかっただろ! 他にもやりようはあったはずだ!!」
「それでもアリスは行こうとした。あのときのアリスを止める資格なぞ誰にもなかろう」
「けど! わかってたなら止めるべきだった!」
食いかかろうとした八雲だったが、竜王の顔を見ると燃え上がっていた激情がすぅっと冷めていった。行き場のない怒りをどうすればいいのかわからず、八雲はやるせない気分で胸がいっぱいになる。
「ぐっ……!!」
当時のアリスがどんな思いを抱いていたのか、八雲は知らない。どんな状況に置かれていたのか、それを見ていたのは竜王たちだけだ。彼にどうすることもできなかったのなら、アリスの過去をほとんど知らない八雲など何もできないに決まっている。
「わしらが力づくで止めておれば、アリスは傷つかずに済んだというのになぁ……」
「……ッ!」
八雲は悔しさを噛みしめる。力いっぱい握られた拳はわなわなと震えていた。
「アリスの口からは恐怖を訴える言葉しかなかったよ。じゃが、わしがアリスを助けたとき、そばには下手人がおった。白衣を着た男と、黒いローブを着こんだ者じゃった」
「なんだとっ!?」
白衣の男。そう聞いた途端に八雲は立ち上がった。竜王は驚かなかった。
そいつは俺を拷問した奴だ、と大声で叫んでやりたかったが、八雲は辛うじて理性の綱を手繰り寄せた。もう五百年も前のことだ、同じものであるはずがない。
しかし八雲の予想は覆される。
「眼鏡をかけた男じゃ。獣のように炯炯とした目で、しかし子供のように爛々とした目じゃった。奴はアリスの肩口にナイフを突き刺して肉を抉っておった。恍惚とした顔で、延々とな」
「嘘、だろ……生きてるはずがない」
「やはり、知っておったか」
「……っ!」
絶句する八雲を見た竜王は神妙な面持ちで言った。
「それを目にした瞬間、わしは奴を殺そうとした。が、叶わなかった。男か女かも定かではない、黒いローブを着た者に止められたんじゃ。かろうじてアリスを確保したわしは命からがら逃げた。それから、先に言ったとおりじゃ」
八雲はもう二の句が継げなかった。
「これがわしの知る、お主の訊く空白の期間にあった出来事じゃ」
「……ああ」
「わしらが無理矢理にでも止めておけば……」
竜王はどれだけ後悔してきたのだろう。老衰を感じさせない普段とは違い、いまの竜王はひどく弱っており、苦渋と悔恨の滲む姿を見せていた。
「……くそっ」
正直なところ、八雲はアリスがそんな過去を持っていたなどとは想像もしたことがなかった。それほどまでに、アリスは底抜けに明るく、闇を感じさせない少女だったからだ。だがその印象は、八雲の実感でしかない、言うなれば勝手に貼り付けたレッテルに相違ない。
いままで自分は何を見てきたのか。悔やんでも悔やみきれず、八雲は歯噛みした。
「お主が悔いることではない。何も知らなかったんじゃから」
「だけどっ……それでも、俺は……!」
八雲が言葉を切る。竜王は負の流れをせき止めるように口を開いた。
「あれはわしらが間違っておったんじゃ」
竜王の慰めが、いまの八雲にはまるで傷に塩を塗られるようだった。
「わかってる。そうなんだろう、けど」
それでも、力になってあげたかった。
彼女は力になってくれたのだから。何もない八雲を救ってくれたのだから。
「悔やむ必要はない。お主は、これからもアリスと仲良くしてくれればそれでいいんじゃ。悩むのも悔いるのもわしらだけでいい。わしらの責任じゃよ」
震える八雲の頭に手を乗せると、竜王は黙り込んで何も言わなくなった。彼の手も震えていたことに、八雲はとうとう気がつかなかった。