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048 過去と未来と現実と

 潮風に凪ぐ海は紺碧に染まっており、八雲の立つ船上からでは海底が見えない。遠くには騒々しい鴎の一団が鳴いている。これが漁船だったのであれば鴎の許へ行くのだろうが、八雲の乗る船は漁船ではなく、離島とカルマ大陸とを行き来する渡し船だ。

 離島と本土の距離はさして開いていない。地図上で見たときは九州と四国くらいの距離だった。縮尺そのものが少し違うかもしれないが、それくらいは誤差の範囲だろう。


 八雲は潮の香り立つ空気を吸い込むと、いよいよ海上にいるのだなと胸を躍らせた。これまで船に乗ることなどなかったし、ましてここは異世界の海だ。海獣と呼ばれる魔物などが棲息する海だからもちろん危険も伴う。


 だが、八雲とて男子である。わくわくするなと言う方が難しい。白く浮き立つ雲を頭上に控え、眼下には美しくも危うい紺碧の海が広がっているのだ。仕方がないだろう。


「ごしゅじん~」


 聞こえてきた声に振り返ると、そこには小さな女の子がいた。

 年の頃はおそらく五歳前後、名付け親は八雲でアクアと呼ばれている。純白のワンピースを着たアクアは、無邪気な笑顔を浮かべて八雲の腰に抱きついてくる。


「どうしたんだ?」


 と尋ねると、アクアは抱きしめる力を強めて言った。


「なんにもないけどこうしたかったの!」


 八雲はその言葉に吃驚した。そうかと頷くとアクアを抱き上げて肩に乗せてやる。


「ほら、綺麗だろ?」

「わぁ……!」


 そこから見える景色はまた違ったものだったのだろう。アクアは海碧(かいへき)の瞳を色濃く輝かせた。アクアはこういう景色を見たことがないはずだ。


 ──もとは魔物だったなんて、信じられるか?


 そう、もともとのアクアは奈落の底にいたスライムなのだ。

 二月ほど前、すべてを失い自暴自棄になってひたすら剣を振るっていた時期が八雲にもあった。そして危うく命を落としそうになったとき、安全な場所まで導いてくれたのがアクアだったのだ。そこで出会ったのが人の言葉を話す剣。思えば運命的な出会いだった。


「お、お二人とも、なにしてるんですか……?」

「ああ、アリス。ちょうどよかった、お前もこの景色──って、大丈夫か?」

「大丈夫じゃないれす。わたし、船に弱かったみたいなんれす……」


 ふわりと潮風とは違う香りが運ばれてくる。ほのかに甘い香りを漂わせて登場したのは、黄金色の髪をなびかせる絶世の美女だった。一対の蒼い瞳に形のよい鼻梁、くわえて真白の肌に桜色の唇がぷるんと潤んでいる。

 そんな美女を前にして、しかし八雲は頬を引きつらせていた。


「船室に戻って休んどけよ。きついんだろ?」

「それは嫌れす。わたしもこういう綺麗な景色を見るんれす!」


 なにせ隣に立つアリスの顔は生気を失った病人のように蒼白だ。瞳孔は揺れ動き、いまにも倒れ伏しそうでせっかくの美貌も台無しである。

 彼女が前述の人の言葉を話す剣、アリスだ。いや、この説明だと少し語弊がある。


 アリスはもともと初代勇者であり、わけあって魂を聖剣に宿していたのだ。だから、人の言葉を話す剣というよりかは、人の魂が宿った剣、と言うべきなのだろう。


 ──こいつも大概変なやつだよな。


 アクアに導かれた八雲は聖剣に宿るアリスと出会った。たぶん、この出会いこそが死んでもいいと思っていた八雲を変えたきっかけ。


「無理はするなよ?」

「人には無理をしてでも信念を貫くべきときがあるんれす!」

「それがいま?」

「ええ、そのとおり!」

「アホか」


 八雲が一蹴すると、アリスはこの世の終わりを見るような顔になった。たしかに綺麗だがこの景色にそこまでの価値があるだろうか?

 いよいよ八雲は馬鹿らしくなって鼻白む。しかし決して嫌な気分になったわけではない。むしろ、思わぬアリスの反応に笑いそうになったのを堪えたのだ。


 ──そうだ、この雰囲気が俺を変えたんだ。


 眼下に広がる紺碧の海を見据えながら、八雲はつい一か月ほど前に思いを馳せる。

 アリスは絶えず八雲に話しかけてきた。ずっと孤独だった寂しさを紛らわせるだろうと踏んだ八雲はアリスを無視することも少なくなかった。

 だがそれでもアリスはめげず、痺れを切らした八雲がとうとう折れたのだ。


「気持ち悪いです……」


 八雲は渋面を浮かべてアリスの背に手をやった。


「何か飲むか?」

「いえ……大丈夫れす」

「お前さっき大丈夫じゃないって言ってただろ」

「それとこれとは話が別なんれす!」


 呂律が回っておらず、アリスは言うことも支離滅裂だ。どうしたものかと頭を悩ませる八雲だったが、すぐに対処方法に気がついた。そもそもの原因を消せばいいのだ。


「ほら、これ」


 アリスの背をさすりながら、八雲はチョーカーについていたアクセサリを外した。


「これならたぶん治るだろ」


 アクセサリとしてチョーカーにつけていたのは小瓶だ。なかには透明度の高い水が満ちており、底部には瓶の口から出ない大きさの石ころが沈んでいる。


 ──治る……よな?


 正直、これだけでは持続的な効果を得られない。この“神聖水”は大抵の傷をたちどころに治す作用があるものの、吐き気などに効くかどうかはわからなかった。

 わからないが、とりあえず八雲は神妙な面持ちで見守ることにした。


「あ、ありがとうございます」


 顔面蒼白のアリスはか弱々しい笑みを浮かべると、小瓶のコルクを外して一息に呷る。すると間もなく彼女が嬉しそうに握りこぶしを作った。どうやら心配は杞憂に終わったらしい。


「……治りましたっ!」

「そりゃよかった。俺としても見ててつらくなるからな」

「まぁ、私みたいな女の子が苦しんでるのに何もしない方なんていないでしょうしね!」


 自慢げに胸を張るアリス。自己主張の激しい胸部に目が行きつつ、八雲は溜息を吐いた。

 はっきり言って、アリスはいわゆる残念系美人だ。少々ナルシストな部分があり、さらに聞こえは悪いが頭が弱い。つまりはアホの子である。


「自意識過剰が過ぎるっての」


 八雲は浮かべた苦笑を隠そうともしなかった。

 本当に自意識過剰だ。けれど、そこがかえって彼女の魅力となっている。この美貌を持ち、かつお淑やかな女性だったのならば、とてもではないが気軽に話しかけることなどできない。

 もしそんな女性と話す機会があったら、たぶん八雲は畏まってしまって上手く口が動かないだろう。だから八雲は、アリスがこういう女の子で本当によかったと思っている。


「ありすだいじょーぶ?」

「ええ、もう大丈夫ですよっ!」

「心配しなくていいぞアクア。アリスは大抵のことなら平気だ」

「なんで八雲さんが言うんですか!? そこは普通私が言うところでしょ!」

「俺が言ったって同じことだろ」

「ふたりはなかよしだね!」

「「仲良くないっ」」


 声をそろえる二人を見てアクアはくすくすと笑みを深める。どうにも気恥ずかしくなって、八雲は頬を掻いた。なんだか、以前にもこういうことがあったような。


 ──デジャヴってやつかね。まったく、いつもこんなんだ。


 いかにも不満そうにアリスが頬を膨らませている。頬を膨らませるのは、不服を表すときの彼女の癖だ。だからだろうか。アリスが怒るときには敵愾心を燃やすハムスターが背後に見えるのだ。


「なんですか、私の顔になにかついてますか」

「いいや、別に?」

「む……そういう余裕ぶった態度、イラッときますね」

「そう振る舞ってるからな。計算どおりだ」


 苛立ちを露わにするアリスに八雲は流し目を向けた。なんだかんだでアリスを弄るのは楽しい。しかし弄りすぎてもアリスが拗ねて口を利いてくれなくなってしまう。


「悪い、ちょっと調子に乗った」

「……しょうがないから許してあげますけど。あんまりやらないでくださいね?」


 からかうのもほどほどに。素直に謝るとアリスは唇を尖らせる。


「わたし、寂しくなっちゃうから……」


 両の指を絡ませて恥じらうアリスに、八雲は思わず赤面して目を逸らした。


 ──そんな表情もするのか?


 耳まで熱を帯びるのを感じながら、逸らした視線を再び戻す。アリスはどうしたんだろうと不思議そうに小首を傾げた。


「なにかおかしなことを言いましたか?」

「い、いや、おかしなことは何もない」

「ならいいんですけど……顔が赤いですよ? 風邪ですか?」


 ずいっ、と顔を寄せて追及するものだから、八雲はまた目を逸らして()()った。こほん、と空咳を打った八雲は、大丈夫だから、と早足でその場を去る。

 あ、と寂しそうな声を漏らすアリスを背にすると、胸がちくりと痛んだ。


「ごしゅじん?」

「……大丈夫だよ、アクア。俺は、大丈夫だ」


 なんとなく、自分の心の揺れにも気づいてはいる。無視すればいいだけだ。無視しないと、ただでさえ嫌いな自分のことがさらに嫌いになってしまいそうなのだ。

 また、胸がちくりと痛んだ。


「俺は、忘れちゃいけないんだ」

「わすれものしちゃったの?」

「忘れ物か……」


 静かに問うてくるアクアの言葉を反芻する。八雲は心中で頷いて、


「そうだな、忘れ物をしたのかもしれない。けど、本当に忘れ物なのかもわからないんだ。だから、それを確かめに行くんだよ」

「あくあむずかしいのわかんないよ~……」

「ははっ、ごめんな? ……けど、わからなくていいんだ、きっと」


 灰色の髪を弄りながらアクアが顔を顰めた。一方で八雲は表情に影を落とす。


 ──俺にも、よくわからないから。だから、たぶん、わかるために行くんだろうな。


 あのときの自分の言葉を確かめるために。そして、別れを告げるために。


「あ、見えてきたぞ」


 唐突に客の一人が言った。

 見れば、たしかに。まだ遠くだが、小さな時計塔らしき建物が見え始めている。


「すごいねっ!」


 アクアの歓声を聞き、八雲は階段を降りて舳先へと歩を進めた。

 そう言えばこの船は、客室用に二階が造られていることもあって、まるで旅行用のクルーズのようだ。最初見たときは驚いたものだが、魔石──長い時を経て魔力を蓄えた石のことである──を動力源として使っていると言われればなんとなく頷ける。


「こういうの、懐かしくなるな」


 誰にも聞かれぬよう、八雲は口中で呟いた。

 魔石に溜め込んだ魔力は地球で言う電気だ。それを船に組み合わせれば、このような船くらい簡単に造ることができる。苦労するのは設計士と造船所くらいのものか。


「綺麗ですね」

「……ああ、本当に」


 船旅などしたこともなかったが、案外こういう船旅もいいものだ。美しい色合いを見せる海上をゆったり進み、世界を見て回るなんてきっと最高の気分を味わえるのだろう。


「八雲さんの目的を終えたら行きましょうよ、世界旅行!」


 アリスが喜色満面に言った。溌剌な気分で未来に胸を膨らませているのが一目でわかる。八雲は一瞬だけ目を伏せて、


「そうしよう、いつか、きっと」


 ──たぶん、叶わない。

 そう知っていながら、八雲は生半可な返事をした。

 遠くに見える時計塔。長針と短針がもうすぐ十二で重なる。八雲が目を瞑ると、頃合いを見計らったように(ベル)()を響かせて昼時を知らせた。


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