046 手を取った先
将棋を指そうと誘った八雲だったが、竜王にあえなく断られてしまった。やはりこの世界に将棋はないらしく、しかしチェスならあるようだ。しかしチェスはまったくやり方がわからなかったから、八雲はやむなく娯楽に興じるのを断念したのだった。
その後、アクアたちもリビングやってきて、人間の姿になっていたことを教えていなかったイーナは元より、何も知らなかった竜王はかなり驚いていた。が、特にショックを受けたふうもなかった。淡々とアクアが進化の宝玉を食べた可能性を示唆したのみだ。
結局、その推測どおりで、元の場所に進化の宝玉はなかった。
しかしなぜアクアが幼いのか。そういう効果が進化の宝玉にあるのかと問えば、竜王はそうではないと言う。思うとおりの姿になれるはずらしいが、アクアが自分から幼くなったかはわからない。竜王は意味ありげに笑っていたが、その真意は八雲には汲み取れなかった。
昨日の話し合いのとおり、八雲たちはいまから出発することとなっている。昨晩はイーナも、ついて行きたいと静かに目を輝かせていた。アリスは言わずもがなである。
持ち物の最終確認を行っているときに、竜王がふと、
「お主は武器を持たんのかの?」
と尋ねてきたから、八雲はどう答えたものかと困った。現時点では魔法も使ったことがなく、かと言って聖剣はアリスだけを所有者と認めているから八雲には使えない。
その旨を伝えると、竜王は朗らかに笑って地下にある武器庫を見せてくれた。どうやら竜王が昔に集めていた武具が収納されているようだ。
武器庫はアリスの身体が保存されていた封印の部屋よりも奥にあった。竜王の先導で立ち入ると、長らく入っていなかったのか埃っぽい。
咳き込みながら武器を物色していると、唐突にアリスが口を開いた。
「八雲さんってもともとどういう武器を使ってたんです?」
「刀だ」
「……へー」
「興味ないなら訊くなよ……」
台詞を棒読みするアリスに八雲は項垂れた。そんなこんなで探していると、アリスがそこらの武器を適当に見繕ってきた。
「これなんてどうです?」
「大槌は使ったことがないから無理だな」
「ならこれは?」
「鉄球って……本気でいってるのか?」
「じゃあこれですね!」
「二枚のギロチン持って戦えるわけないだろ……さっきの質問には何の意味があったんだ」
自信満々に持ってくる武器はどれも使えそうにないものばかりだ。たとえ使えそうなものでも、なぜか扱いづらいものに限られる。
八雲は肩を落として溜息を吐く。竜王は八雲の肩に手を置くと、断言した。
「ここに刀はないんじゃ、諦めることじゃな」
「……せめて扱いやすい片手直剣とかにしたい。あるか?」
竜王はふむと頷くと、武器の山に腕を突っ込んで、一振りの剣を取り出した。
「それならほれ、これはどうじゃ」
老人の手に握られていたのは、無骨な片手用直剣だった。アリスの聖剣のように煌びやかな装飾があるわけでもなければ色彩豊かというわけでもない。色彩豊かな剣というのもそれはそれで嫌だが。とにかく、竜王の提示した武器は鈍色の片手直剣だった。
「振ってみい」
「のわっ……と、危ないだろ?」
「鞘があるんじゃからせいぜい打撲じゃ」
「それも嫌なんだよ」
八雲は渋い顔で剣を抜く。抜き身の剣は鈍色の重い輝きを見せている。
「それは使用者にとって一番使いやすい形状になるんじゃよ。と言っても、さすがに刃が変わったりはせんがの。せいぜいが重量と柄の形といったところじゃ」
「へぇ……たしかに、他よりは握りやすい」
「じゃからと言って最良の武器にはならんがの」
クツクツと笑う竜王。八雲は片眉を持ち上げ、辺りを見回した。棚からも充分に離れているし、いまのところ人影はない。
「じゃ、振るぞ」
そう言って、八雲はその場で片手を操る。本気で動き回ることはできないものの、確認にはちょうどいい狭さだ。縦横無尽に剣を走らせた後、今度は両手で柄を握りしめる。
「……これは結構面白いな」
両手で扱っても問題ない。前の刀よりは手に馴染まないが、それでも他の武器よりはしっくりくる。おそらくこの武器庫にある剣のなかでは一番だろう。
「これにする」
「えぇっ! せっかく新しい武器持ってきたのに!」
「お前のセンスはどうなってるんだ……」
アリスが抱える武器一式を見て、とうとう八雲は頭が痛くなった。絶対に、こいつだけには何も任せないようにしよう。そう誓って、八雲は片手直剣を腰に差す。
しかしなんだろうか。アリスが涙目で訴えてくるのはなかなか心に来る。
鉄扇、鉤爪、果てはハルバードまで。彼女は自分のことを身軽な女性か筋肉質な男性とでも思っているのだろうか。だとしたらアリスの目は節穴か、もしくはビー玉に違いない。
「仕方ないな……」
結局、八雲はアリスの武器も確認してやり、改めて丁寧な口調で否定してやったのだった。
× × × ×
「ごしゅじんおかえり~」
「ああ、ただいま」
リビングのドアを開けた途端、空色の長髪が揺れる。飛び込んできたアクアを、八雲は微笑を浮かべて受け止めた。奥のソファには櫛とヘアゴムを持ったイーナが鎮座している。
一見厳かな雰囲気に思えるが、そうではない。ただ単にイーナがアクアの髪を纏めようとしてくれていただけだろう。
八雲がありがとなと目配せすると、イーナはたちどころに顔を赤らめて頷いた。
「アクア、イーナが待ってるぞ?」
「あ、そーだった。ごめんね!」
「ううん、大丈夫」
アクアは八雲の許を離れてイーナへと駆けだす。八雲はそれを見守りながら椅子に腰かけた。続いてアリスと竜王も椅子に着き、一家団欒の構図が出来上がる。
「気持ちよさそうだなぁ」
「えへへ~いいでしょ! でもくすぐったいんだよ? しってた?」
「知らなかったです! 私もやってほしいなぁ……」
アクアが無邪気に問えば、アリスが即座に食いつく。これが面倒見のいいお姉さんに見えれば違うのだが、どうも八雲にはアリスが同じ子供にしか見えない。
一方で竜王はふんすと鼻息を荒くすると、立ち上がって拳を握る。
「イーナは準備できたかの」
「たぶん大丈夫」
「枕は持ったか? イーナはいつもの枕じゃないと眠れんじゃろ? あとは色鉛筆も持っていかねば! 絵を描くのが上手いし……まだあるぞ!」
竜王が語気を強めていくにつれ、イーナがどんどんうつむき加減を増していく。気づけば耳まで真っ赤に染まっていた。空色の髪を梳く櫛がぷるぷる震えている。
「過保護だよおじいちゃん……」
「そんなことはない! イーナは暗いところが苦手じゃから懐中電灯も持たねば!」
「……恥ずかしい」
「大丈夫! イーナは可愛い!」
イーナが小声で「そんなことないもん……」と涙目になっているが、竜王はお構いなしだ。
孫想いなのはよくわかったが、これでは少しばかりイーナが可哀想だ。乾いた笑みを浮かべつつ、八雲は助け舟を出すことにする。
「イーナだってもう十歳だろ? そろそろ見守ってやる時期だ」
「もしイーナが怪我をしたら思うとわしは怖くて昼も眠れん!」
「だいたいの人はそうですけど!?」
竜王のボケにアリスがツッコむ。もはやツッコミ要員と化してきているが、おそらく本人は気づいてすらいないのだろう。八雲は芸人級のキレを見せるアリスに感嘆と憐憫の入り混じった溜め息を漏らした。
すると竜王はニッと笑みを深めて、
「さて、からかうのはここまでにしておいて、行くとするかの」
「からかってたんですか!?」
「イーナが心配なのは本当じゃ」
「ま、そりゃそうだろうな。十歳って言ってもまだ子供も子供だし」
「わしからすればお主らもまだ子供も子供じゃがな」
竜王がそう言うと、アリスはぷくっと頬を膨らませて不満を主張する。そういうところが子供っぽいのだが……。
──けど、やっぱり俺もまだまだ子供なのかな。
八雲が眉をしかめていると、その間にアクアの髪のセットも終わった。イーナは満足そうに顎に手を当てている。新たな髪形になったアクアは嬉しそうに飛び跳ねていた。
「えっへへ~。ついんてーるっていうんだよ!」
「うん、似合ってるな。アクアはきっとどんな髪型でも似合うと思うぞ」
声を上擦らせて返答する八雲にアリスと竜王が一歩後ずさる。
「へ、へんたいなんでしょうか……」
「こんな若い男がロリコン……世も末じゃよ……」
あえて八雲は二人の発言を聞き流すことにした。どうせいつもの悪ふざけに違いない。
「今回は結構自信ある」
「……さすがは女の子。俺じゃ絶対にできないよ」
アクアの長髪は耳より下の位置で結ばれ、可愛らしい空色のツインテールを作っている。
イーナの瞳には若干の羨望が見て取れたが、もしかすると彼女も長髪に憧れを持っているのだろうか。思えば八雲の知る女の子は大抵長髪に憧れを抱いていた。
男連中からすれば邪魔になりそうだな、としか思わないが、きっと女性陣にとっては大切なことなのだろう。髪は女の命とも言うくらいだから。
「いつか自分でやるようになってしまうんでしょうか……灰色のツインテール」
「うっ……吐き気が……きっと世界が終わるんじゃ……」
さすがにそんなことはしない。せいぜい研究してアクアをお洒落にしてあげるくらいだ。いつまでも失礼なことを言っている二人には後でお灸をすえておこうと思った八雲である。
「ふざけるのも終いにして、そろそろ行くかの」
と、竜王が楽しげに言った。八雲は重く頷き、アリスは明るく返事をした。イーナとアクアは揃って両手を上げて喜んでいる。
そこからはトントン拍子にことが進んでいった。とりあえず必要最低限の荷物を纏められるだけ纏め、その結果あり得ないくらいリュックサックが肥大化してしまった。
「けどなぁ……」
どうやって地上へ出るのだろう。竜王と出会う前から抱いていた八雲の不思議は、しかし竜王の手によっていとも簡単に紐解かれることとなった。
竜王に連れられてやってきたのは、ログハウスからすぐそこの地底湖のほとりだ。いまは昼だから周囲は明るく、湖面がきらきらと輝いている。
桟橋に着けられていた一艘のボートに乗ると、八雲たちは対岸まで湖面からの景色を楽しんだ。この湖には魚もいたらしく、ときおり小型の魚が飛び跳ねる。もし戻ってこれたなら。そのときは竜王と一緒に釣りを楽しむのもいいなと思える。
しばらくして対岸に辿り着くと、そこには赤い絨毯が広げられていた。金糸で刺繍された赤の絨毯は、王城にあったレッドカーペットさながらの煌びやかさを持っている。しかしどこにも扉らしきものは見当たらない。
きょろきょろと辺りを見回す八雲に、アリスはしばし首を傾げ、間もなくぽんと手を打った。すっかり得意げな顔になったアリスが、いまだ状況を把握しきっていない八雲に言う。
「いま八雲さん、どうやって地上に出るんだろうって思いましたね? 仕方ないから私が説明してあげます! これはですね、」
おそらく溜めを作ろうとしたのだろう。一旦言葉を切ったアリスだったが、その続きを引き受ける人物が現れた。言わずもがな、竜王である。
「転移魔法陣じゃ。わしが遥か昔に刻んだものでの、カルマ大陸最西端の地にポイントが設定してある」
「なんで言っちゃうんですかぁ!」
「面倒じゃから」
面倒の一言でアリスの自慢を切り捨てる姿はいっそ勇ましい。これが八雲だったなら、おそらくはアリスにビビッて口出しできなかっただろう。情けないばかりである。
「使うのは久しぶりじゃが、何も不良はないはずじゃ。泥船に乗ったつもりでいるとよい」
「沈みますよねそれ!? 正しくは『宝船』ですよ」
「いや大船だけどな」
言ってから五コンマと経たないうちに八雲は後悔した。見れば、アリスは涙目になって下唇を噛んでいる。ドヤ顔していたこともあってそのショックも絶大だろう。
「あくあたち、どこいくの?」
「えっとね……結構遠いところかな」
少し視線を下げれば可愛らしい二人組がいる。相反する色の髪を持つ少女たちは、しかし仲良し姉妹のように手を繋いでいる。イーナは少し緊張気味、アクアはずっとにこやかに。
──こっちの方が頼もしい気がしてくるな。
八雲は苦笑を忍ばせると、がっくりと項垂れているアリスの肩に手を当てた。竜王は目敏くそれを見ると、八雲に視線で合図した。八雲は頷いて応える。
竜王が魔力を籠める。今なら感じられる。制限という呪縛から解き放たれているいまならば、すべてを視ることができる。
「ここまで来れたのはお前のおかげだぜ、アリス」
そう呟くと、八雲は眼光を尖らせた。まだ魔力というものを深く知っているわけではない。魂の儀式にて見たものは、氷山の一角に過ぎない。制限があったころでさえ見ることができたのだ。今ならばそれ以上を、本物をこの目に焼き付けることができる。
ゾクゾクと戦慄が背を撫でる。
魔力の激流が、雪崩のように押し寄せた。
それは、紫紺とも漆黒とも深紅とも言える色をしていた。竜王の、老骨の身体を、まるで蝕むようにして魔力の奔流が暴れ巻く。しかし中心にいる竜王はものともしない。
──これが……魔法?
高揚感や快感はなかった。まるで逆。いま、八雲が持っているのは恐怖ただひとつのみだった。足場を踏み違えれば谷底に落ちてしまう。そこにあるのは、おぞましい何かだった。
耐え切れず目を瞑りそうになったとき、八雲の耳に小さな呟きが残された。きれい。
──え?
その声音は、隣のアリスであるようにも、イーナであるようにも思えた。しかし二人を見て、八雲は驚きを隠せなかった。
二人とも、目を輝かせていた。美麗な景色にシャッターを切るカメラマンのように、二人はうっとりとしている様子だった。だがこれは、心酔だとか陶酔だとか、気が狂ったようなものでは、まったくなかった。
あくまで自然な表情なのだ。夕焼けを見るがごとく、感動を顔に貼り付けているのだ。
つまり、八雲だけが違うものを見ている。
目の前で起こっている光景を、この場では自分だけが別の何かと認識している。そう考え至ったとき、竜王が振り返った。
『お主には見えるかの? このおぞましい何かが』
『なんだよ……これ。みんなには別のもんに見えてんのかよ』
声が震えている。気がつけば八雲の前身は汗を噴き出し、がたがたと慄いていた。
しかし他のみんなは気がつく様子がない。
『見えているならよいんじゃ。お主にだけ見えるよう細工したからの。安心せい。魔法は本来このように禍々しいものではないゆえな』
『……なんのために細工を』
八雲の問いはそこで強制的に切られる。竜王の放つ威圧が喉まで来た言葉を掻き消していた。
『憶えておきなさい。魔法は恐ろしいものじゃとな。そうすればお主は呑まれんで済む』
八雲は黙った。竜王が優しく微笑む。
魔力の視える者にとって、これが魔法というものなのか。はたまた、竜王が細工しただけであって、他の者にとっては綺麗な現象としてしか映らないのだろうか。
ふと、あの日が戻ってくる。この世界に初めて来た、あの日の出来事。
魔法。手にしてはいけなかった、甘く、狂おしい、人を虜にする果実。それをテにしてしまった今、八雲は、竜王の言ったとおり呑まれてはいけない。
『……俺は、絶対に呑まれない』
『それでよい。念話も解くとしよう』
どうやらこれは念話と言う魔法らしい。話には聞いていたが、いざ体験してみると恐ろしくなる。もしも何も知らない人間が一方的に、自分にしか聞こえない声に話しかけられ続けたら、と考えると知らずのうちに血の気が引いてしまう。
顔を青くする八雲をよそに、竜王はパチンと指を鳴らし、唱えた。
「【彼の地へと導き給え、転移陣】」
現れたるは白堊の扉。じぃっと見入る一同に、初めはびくともしなかった扉は、しばし経つとひとりでに開き──視界が真白に塗りつぶされる────。
✯
つんつん、と頬を突かれて八雲は意識を起こした。
「……ははっ」
一度目の転移、目を開けると灰色の天井と馬鹿な幼馴染が映っていた。そして二度目の転移、そこに映っていたのは。
「起きるのが遅いのう」
「なんで笑ってるの?」
「ごしゅじんあそぼーよ!」
皮肉な老人と無邪気な二人の女の子。それから、
「ほら、起きてください」
差し伸べられた手。その先にある、ぱあっと明るく咲いた笑顔。
ちょっぴり残念な、封印されていた初代勇者。いや、勇者なんていうのはあまりにも無粋だろう。彼女は、きっと、ただの優しい女の子だ。
「手、貸りるぞ」
手を取って起き上がる。奈落に落ちた自分に、彼女は何度も手を差し伸べてくれた。それはきっと、これからも変わらない。何度転んでも、彼女らの手を取って起き上がろう。
視界が、開ける──
「さぁ。私たちの旅を始めましょう」
目頭が熱くなる。最近涙腺が弱くなって困るばかりだ。
手を取った先にあったのは、どこまでも広がる、終わりのない蒼穹だった。