030 人の皮を被った化け物
村のみんなは優しかった。勇者の肩書きなど気にせずに接してくれたし、変な期待を抱かれることもなくて、八雲にとっては最良の環境だった。
一緒に過ごしているうちに、心に平和が戻ってくるのをひしひしと感じていた。聖也が昔に戻ったみたいだと言ったのは正解だった。
周囲からの蔑視、罵倒、それらの類には慣れ切っていたなんて、自分に吐いた嘘でしかない。慣れるなんて到底無理に決まっているだろう!
いくらそうした環境に居続けたからと言って、慣れるはずがない。すべては大好きな人たちを心配させないための嘘だ。ずっと、自分の気持ちを騙していた。
ああ、そうだ。言われるたびに傷ついてきた。何度も何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も言われて、そのたびに傷ついた。
だから、八雲にとってレスティアは、荒んでいた心を癒すに最良の環境だった。
けれどそれがもし、自分のせいで崩壊したのなら?
あのとき、死にたくないと訴える小さな手を助けに向かったとき、八雲は絶望した。
小さな手の主に近づいて、燃える木材を必死にどかしていたとき、傍らから声が掛けられた。
『その子だけは助けて……! わたしはどうなってもいい! だから、その子だけは!!』
母親らしき女がすぐそばで潰れかけていた。おそらくは下半身がもうダメになっていて、弱々しくも力のある声音は脱出を諦めていると八雲に知らせた。
近所に住んでいた女で、仲よくしてもらっていた。目は焦点があっておらず、おそらくは八雲のことも誰かわからない状態であったと思う。
八雲は歯がゆい思いになって、
『すぐに助ける!』
木材をどかそうとしたそのとき、一陣の突風が吹き抜けた。そして突風は、倒壊しかけた家を崩すには充分な威力を持っていた。
『──ッ!?』
危険を察知した八雲は咄嗟に避けてしまった。すれば当然、倒壊した柱が向かう先は、
グジュッ、と音がした。
『え?』
八雲は恐る恐る元居た場所を見た。どんな焔よりも赤い血が華を咲かせていた。折れた小さな手が柱頭となって、赤い花弁が周りを彩っていた。
濃い血液の臭いと焦げた肉の臭いがあたりを漂った。パチパチと爆ぜる火花が八雲の鼻先を掠めて、女の目は絶望に縁どられていた。
『いやぁあああああああああああ──』
絶叫して八雲を睨むと、女は深い憎悪に目を剥いた。
『アンタのせいでうちの子が死んだ! アンタのせいで! もとはと言えばこの村が襲われたのもアンタのせいだ!』
『お、おれはただたすけようとして……』
『アンタのせいだ! アンタのせいだ! アンタのせいだ! アンタのせいだ! アンタのせいだ! アンタのせいだ! アンタのせいだ! アンタのせいだ! アンタのせいだ! アンタのせいだ!』
『ち、ちが……』
『アンタのせいだ! お前がうちの子を殺したんだ! お前ガッ──』
グジュッと音がした。女の頭が潰れていた。
血と脳漿がまき散らされて、ひどい悪臭が風に乗る。女の伸ばされた手が地に落ちた。
女も死んだ。
八雲は呆然とした。焼けつく肺の苦しさも、今では苦しくなかった。
行かないと、と思った。
今すぐこの場を離れたかった。
そうしてゆっくり歩いた。すると、しゃがれた声が聞こえた。
『貴様のせいだ! 連中は貴様を探していると言うとった! そうして孫を殺しおった!』
老人だった。血みどろで今にも絶命しそうな彼は、憎々しげに言い放った。
『貴様がこの村を陥れたんじゃろ! この人殺し!! 孫は貴様に殺されたんじゃ!!』
『ち、ちがう……おれはころしてない』
『見ておけ! これが貴様の罪じゃ!!』
老人は持っていたナイフで己の喉を掻っ切った。
ごぼっと口から血の泡が溢れ出た。傷口からは絶えず血が流れ、しかし老人の濁った眼は八雲にずっと向けられていた。
老人は、またナイフを振りかざして、己の顎から脳天めがけて突き刺した。次こそ老人は倒れた。身体が何度も痙攣を起こして、老人はぐるんと白目を剥いていた。ごぽりと口から血塊が零して、老人は絶命した。凄絶な姿だった。
八雲はまた歩いた。行かないと、と思った。
道中でまたしても声が聞こえた。いや、聞こえなかったかもしれない。けれど幻聴だとしても、八雲は聞きたくなかった。
八雲は走った。けれどいつまで経っても足は前に進まなくて、後ろからは亡者が追いすがってきた。呻き声が聞こえた。耳を塞いでも、呻き声が止まなかった。
早くこの場から離れたかった。
また声が、聞こえた。
「八雲くん」
どこかで聞いたことのある声だった。
「八雲くん」
本当に楽しそうな、身体に粘つく声。
「八雲くん、起きてください」
「あぁああああああッ!! 俺じゃない! 俺じゃないッ!!」
目を覚ますと同時、八雲は発狂した。あのおそろしい光景が蘇ってきて、もしかすると老人たちが殺しにくると思った。
しかし目の前にいたのは老人ではなかった。
「大丈夫ですか?」
「……がるむ、さん?」
よれよれの白衣を着こんで、丸眼鏡を掛けている、線の細い、いかにも研究者然とした風貌の男。ガルムがそこにいた。
八雲は安心した。さっきの映像は夢だったのだ。助けられなかった事実とそのことの恐怖があの幻影を造りだしたのだ。きっと、自分のせいだとは言われていなかったはずだ。きっと、そうだ。
「あれ……俺、生きて──ラルカッ!? ラルカとリリカは!? テグスとセリカさんは!? 村のみんなはどこにいるんですか!?」
「落ち着いてください八雲くん。一体どうしたと言うんです?」
「な、なんだよこれっ! 外してくれよ!」
飛び起きようとして、八雲は今更自分が寝台に拘束されているのに気づいた。何度も暴れているうちに手首や足首が擦れて出血する。
──どうなってる。
ひどい裂傷を負っていたはずなのに、よく見ればどこにも傷はなくて、服は清潔なままだ。しかもなんというか、八雲が着ているのは患者が手術するときに着用する服のようだった。
「まったく、少しは落ち着きましたか? ほら、始めますよ」
「ま、待ってくれ。なんなんだここ? なんだよこれ?」
「言ったでしょう? 私の実験に少し付き合ってもらうと」
「え?」
「……ふむ。記憶に混濁が見られる、といったところですか。悪い夢を見ていたようですね」
実験と聞いて、八雲は何のことだかさっぱりわからなかった。
辺りを見回すと、ここはどうやら密閉された空間のようだ。
通気口はあるものの、鉄製と思われる重厚な扉は閉め切られているし、床や壁などは明らかに石である。ただ一点おかしなところを挙げるのなら、消毒用アルコールの臭いに混じってわずかながら変な臭いがある。
そして八雲はと言えば先ほど気づいたとおり寝台に拘束されているのだ。胸周りと下腹部に金属のベルトが巻かれ、両手両足には拘束具が取り付けてある。多少動かしてもびくともしなかった。
しかしこの状況からすると、もしかして今までのことは夢だったのでは?
ああ、そうだろう。きっと夢に違いない。夢でなければ騎士団が裏切るはずもないし、リリカたちが殺されるはずもない。
──あれ?
実験でガルムと一緒だと言うことは、まず王城を出ていないのか? となると、リリカたちとは出会ってすらいない? すべて実験の過程で見せられた幻か何かなのか?
「どうしました?」
八雲は困惑した。これが実験だとすれば、おそらく自分は王城も出ていない。今まで見ていたものが夢であって、今が現実なのだろう。
「八雲くん?」
けれど、夢? リリカたちとの生活自体が夢? 泣いて、喧嘩して、笑いあってを繰り返したあの日常が、すべて夢だったのか?
八雲は馬鹿らしくなった。同時に苛立ちが募って、血が滲むほどに唇を噛む。
「──そんなわけ、ないだろ」
すべて現実だ。あの幸せだった日常が夢であるはずがない。あの最低な終わりは夢であってほしい。だが夢で終わらせていいはずがないのだ。
彼女らの死を否定したくとも、それ以上に彼女らとの幸せを、彼女らとの出会いを否定していいはずがないだろう!
「なあガルムさん」
「ええ、なんですか?」
陰のある笑み。大人の風貌のなかに、まるで無邪気な子供が住んでいるような、そんなアンバランス。
ガルムの視線は一挙手一投足を見逃すまいと八雲の身体に絡みついていた。ただならぬ雰囲気に怖気を走らせながら、八雲はガルムを見遣った。
「なにか?」
人を食ったような顔の裏に何を隠しているのか。蘇る恐怖と悲しさを抑えて、八雲は考えてみた。
ガルムとの邂逅。そこからの出来事、ダンジョンでの事件。実質的な王城からの追放。レスティアでの出来事。そして騎士団の襲撃。彼女らの死。先ほどのガルムの言葉。
実験に付き合ってもらっていた? しかしそんなこと、身に覚えがないし、これまでの出来事が夢であるはずがない。これは記憶の混濁だとかではなく、本当に経験したことなのだ。
となれば、この男は嘘を吐いている。
「あれが本気で夢だって言うのか」
「どういうことです?」
「とぼけるのもいい加減にしてくれよ。あれが夢で終わっていいはずがない。俺がアイツらを否定したら、他の誰がアイツらを肯定してやれる」
「すべて悪い夢なのでは? その方が君も幸せでしょう?」
「俺が幸せならあいつらが不幸せでいいってか? それこそふざけるんじゃねえ」
八雲は悔しさに歯を食いしばる。目の前の男が何をしたかまではわからなくとも、一連の出来事の裏で糸を引いていたことくらいは察せた。
信用できるかできないかは別としても、騎士団が何の理由もなしに村を襲撃するはずがない。クルトやセルグのような実直な青年、ザイクのように豪胆かつ誠実な人間がそのような指示を出すとは信じたくない。
王の勅命であったのか、もしくは否か。いずれにせよ、眼前で笑みを浮かべる男が敵であることに違いはなかった。
「……へえ。意外です。君が現実を認めるなんて意外でしたよ」
ガルムは興味深そうに目を細めた。観察対象を見るような目は底冷えする冷たさを持ち合わせていて恐ろしい。思わず身震いして、八雲はガルムを睨みつけた。
「言ったでしょう? 観察対象が複雑だと。だから私は実験したんです。ダンジョンでは多数のゴブリンに子供を食わせ、オークやオーガも同時に襲わせました。
結果は充分で、さまざまなデータが取れています。君以外にも面白い子はたくさんいましたが、やはり私が一番興味を持っているのは君です。君は他の何よりも興味深い」
「……ッ」
「ええ、本当に興味深いですよ。これからあなたの身体を実験できるのかと思うと年甲斐もなく胸が躍ります。まあ年齢と言う概念が私に適用されるのかはわかりませんがね」
ゆったりとした語り口だが、言葉を挟む隙がなかった。ガルムには底の見えない好奇心が見え隠れしていて、なんとも不気味な雰囲気を漂わせる。
──ふざけるなよ……畜生……ッ!
しかしそれより、あのダンジョンの日より、すべてがこの男の計略であったというのか。もしそうだったのならば、この男は絶対に許してはならない。
怒りに震えそうな声で八雲は、
「ダンジョンのときから手の平の上だったってわけか」
「ああ、勘違いしてもらっては困りますよ。私はそれ以前から手を回していましたから。君は私と出会って話をして以来やる気に満ち満ちたんじゃないですか? ……本当に単純ですよね。あれくらいの思考誘導なんて魔力の扱い方さえわかっていれば、
──ああ、ごめんなさい。訂正します、私でなければ無理ですね。それに気づくと言っても余程魔力の扱いに長けた者でなければ無理でしょうから」
「アンタ、は……!」
あの邂逅以降のすべてが予定調和だったと知り、八雲は愕然として表情を崩した。ガルムは嬉しそうに、くふふ、と笑い声を漏らし、
「さすがに感情までは誘導できませんから、それを加味してみるとレスティアでのさまざまな出会いは僥倖でしたね。あらゆる状況を造りだし、それを壊したときに君がどう反応するかも知れました。好きな人、護りたい人、親友とその妻、ともに過ごしてきた人たちを殺されてどんな気分です?
私はそれが知りたくてたまらない。絶望して心が折れて、精神を病んでいてもおかしくないのに君は今もこうして私と会話し続けられている。はっきり言って君は異常だ。普通の人間とは違いますよ」
「……ッ」
「そうそう、異常と言えば君は存在自体が異常なんですよ? よく考えてもみてください、魔力がほとんど感じられない、つまるところほとんどないなんておかしいですよね?
君の身体には病気もなければ特別弱いところもありません。それは異常なんですよ。魔力は生命力に近しいものであることくらいは聞いていると思います。よく考えてみてください」
獰猛な笑みがずいと近づいて、八雲は気味悪さにのけ反った。ニタァ、と唇が三日月の裂けて、本能的な恐怖を感じさせる。
「これは明らかな異常だ! 魔力が通常の人間より少ないのなら君の身体は病弱であるはずなのです。したがって今の君には何某か制約が掛けられているとしか思えないのです。
──だから私は、実験がしたくなった」
ガルムが言うと、突然悲鳴が響いた。
通気口から届いたそれは、絹を裂くなどという表現では足りないくらい。まさしく断末魔の叫びであり、苦悶に苛まれていることをありありと表していた。
「さぁ、実験を始めましょう」
人の皮を被った化け物が、そこに居た。