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001 日常、そして転移

 まだ太陽が顔を出し始めたばかりの早朝、服部(はっとり)八雲(やくも)は、飼っている黒猫に起こされた。頬を舐める愛猫をなでつつ、八雲は布団のなかでひとつ伸びをする。


 夢を見ていたような気分だ。

 あながち気のせいではないかもしれない。ただ憶えていないだけで、本当に夢を見ていたのだろうから。


「ま、気にしても仕方ない。夢なんてそんなもんだろ」


 起き上がると、欠伸が出た。まだ寝足りないようだが、だらだらと愚痴をこぼしてもいられない。ある程度身なりを正すと、八雲は居間に向かった。


 すでに食卓の上には祖母の作った料理が用意されていた。焼き鮭、厚焼き玉子、おひたし、味噌汁、と、純和風の素朴な朝食だ。しかし、祖母が作ってくれた朝食は美味しい。そこらの旅館にも引けを取らないほどだろう。

 八雲は朝食を摂り終えると、祖父の部屋を訪れた。障子を開けると、渋いお茶の香りが鼻腔をくすぐる。畳に置いた将棋盤のすぐ横で、祖父が胡坐をかいていた。


「おはよう」


 祖父は目だけをじろりとこちらに向けて、


「今日も懲りずに勝負か?」

「ああ、今日こそは勝ってみせるさ」

「まったく強くならないくせに、なにを言うんだか……」


 そう言いながらも、祖父は嬉しそうに頬を掻く。祖父もまた、この日課を楽しみにしてくれているのだろう。

 となれば、そろそろ勝たなければなるまい。ずっと同じ結果では祖父も飽きてしまうだろう。


 将棋盤を挟んで、祖父と対面する。まずは勝負の前の一礼をして、それから八雲は盤上に駒を並べた。

 今日はどんな戦法を取ろうか。悩むところだが、まずは初手を見て、祖父の戦略を予測するべきか。


「今日はやけに集中してるみたいだな」

「いつまでも負けてはいられないから。そろそろじいちゃんに負ける悔しさを教えてやるよ」

「口だけじゃないといいんだけどな」


 クツクツと笑いつつ、祖父は歩を取った。


    ×   ×   ×


「八雲」


 祖父は慰めるような視線を八雲に向ける。それから、盤上の駒を見た。八雲側には、王と少しの駒しか残っていない。それも、詰みの状態だ。


「お前、上達しないな……」


 結局八雲は完敗したのだ。いつものことなのだが、歯がゆい気分も毎度味わうのだからなかなかの苦痛である。

 次こそは、と意気込むものの、どうあがいても勝利への道を見出せない。八雲には天性の勝負強さどころか一瞬のひらめきもないようだ。

 祖父は呆れたように八雲を見る。


「そろそろ学校の時間だろ?」


 それを聞いて、八雲は時計を確認する。どうやら祖父はこの雰囲気を変えたくて言ったわけでもないらしい。時刻は七時半を示している。

 八雲は立ち上がって、


「そうみたいだ。行ってくる」

「ちゃんと勉強するんだぞ」

「いつもしてるって」


 明るく笑いながら、八雲は祖母に「行ってきます」と言って、玄関を出た。


 今朝は生憎の曇天模様だった。

 天気予報では降水確率は三割ほどだったが、はたしてその予報は精確なのだろうか。

 考えても、結局傘を持ってきていない以上意味のないことであったが、八雲はそれが気になって仕方がなかった。


「八雲!」


 しばらく歩くと、声が掛けられた。

 その青年の髪色は、まるで王冠のように金色だった。目鼻立ちがよく、精悍な顔立ちをしている。

 柔和な雰囲気が漂う彼は、東條聖也と言って、八雲の幼馴染にして親友と呼べる男だ。


「今日はやけに早いな。どうしたんだ?」

「いや、いつもどおりだ。お前が遅かっただけなんじゃないのか?」

「おかしいな? 時計は狂っていないはずなんだけど……」

「まぁ、学校に行けば分かるだろ。あっちの電波時計が一番信用できる」

「……それもそうだね。じゃあ、行こう」


 聖也は手提げのバッグを肩に掛けると、爽やかな笑顔を見せて歩き出した。

 つくづく曇り空の似合わない男だ、と苦笑しながら八雲も続く。


「今日から二学期だ。来年の今頃は、きっと猛勉強してるだろうな……」

「勉強なんてしなくても、お前ならきっといい大学に入れるさ」

「さすがにそれは無理だよ。それに、俺は偏差値よりも自分のやりたいことができる大学に行きたいんだ。近場で言うと、〇×大学とかね」


 聖也が挙げたのは、この辺りでは有名な私立大学だった。なんでもあらゆる語学に精通している学部があるらしく、外交官を目指している聖也には都合がいいのだろう。

 しかしその大学も、一流とまではいかないがなかなかに偏差値が高い。八雲の学力では、到底手の届かないような大学だ。


「やっぱりお前は優等生だよ。謙遜し過ぎると疎まれるから、ほどほどにな」

「そんなことないさ。勉強ができても、スポーツができても、それを極めることはできないんだからね。ぜんぶ中途半端なままだよ」

「お前が言うと嫌味にしか聞こえないから不思議だ」

「ははっ、ごめんごめん。八雲はあまり勉強が得意じゃないからな」


 聖也は笑いながら謝罪する。八雲は眉尻を下げて、、


「スポーツも得意じゃないんだけどな……」


 それから八雲は、聖也に自らの夢を語りつつ、学校までの道を歩いた。



 ショートホームルーム前の時間は、いつも聖也や他の幼馴染たちと談笑している。くだらない話ばかりだが、八雲にはその何気ない日常が幸せだった。

 今朝も幼馴染たちは八雲の机を囲んでいる。少女が二人に八雲を含めた少年が三人。

 しかし少女の一人は眼光を尖らせていた。


「今日はどうしてあんなに早かったのかしら? 待ち合わせ場所には聖也も服部くんもいないし」


 八雲と聖也を睨む双眸には、漆黒の宝石に光を当てたような、そんな輝きがあった。怒りで赤くなった顔はまるで採れたての林檎のようだ。

 この幼馴染の少女――南條麗華は、どうやら怒っているらしかった。


「いいぞ、麗華! もっと責めろ!」

「拓哉は黙ってなさい」

「それはひどくな――「黙ってなさい」――すみませんでした」


 麗華の剣幕に、一人の少年がすっかり萎縮してしまう。


 北上(きたがみ)拓哉。

 明るい茶髪の拓哉が縮こまっているのは、たとえるならば飼い主に叱られた大型犬のようで、八雲は思わず笑いそうになった。


「麗華ちゃん、落ち着いて……?」

「大丈夫よ愛華。私は至って冷静であり、いつだって落ち着いているわ。そうでしょう?」


 麗華はゆったりとした口調で隣に立つ少女に微笑む。


「なら大丈夫だね!」


 西園(にしぞの)愛華は、元気よく返事をして椅子に座った。明るくあどけない笑顔が印象的な、可愛らしい女子だ。クラス内での人気は麗華と同じで高い。


 正直な性格でいわゆるいい子なのだが、八雲はかえってそれが苦手だった。冗談を信じてしまううえに、すぐ他の面々に言いふらしてしまうのだ。

 ゆえに、愛華に嘘を吹き込んだと八雲はいつも非難されてしまうのである。自業自得であるとは思っているのだが。


「麗華ちゃんの言うことは信じるよ、わたし」

「愛華……」

「麗華ちゃんっ!」


 今度は子犬が主人にじゃれている画を見せられた。


「いつもこれだね……」

「慣れたもんだ」

「愛華は少し勢いがよすぎるけどね」


 毎度のごとく始まるこのじゃれ合いは、いつも麗華が苦しそうなのだ。なにせ麗華は勢いよく突っ込む愛華を抑えつつも可愛がってやらねばならない。

 だからきっと、麗華が「くっ……前回よりも増してるっ」とか漏らしているのは麗華なりの可愛がり方なのだろう。


「……愛華」

「どうしたのっ」

「その、何してるの……?」


 愛華はなおも愛想のいい笑みを浮かべる。蜂蜜色をした瞳は、真っ直ぐ麗華を捉えていた。ここまで純真無垢な女子はなかなかいないものだろう。

 だが今日の愛華は一味違った。麗華の断崖絶壁に顔を擦り付けながら愛華は、


「こうしてると幸せなの!」


 と柔らかな笑顔を向ける。すると麗華は嬉しそうに愛華をなでた。


「私も幸せよ、愛華……」


 ――こいつら……。


 はたから見たら百合百合しい展開にしか見えない。


 八雲たち三人は苦笑まじりに見守ることしかできない。ただこうなると長いから面倒だ。


「愛華もこの二人を許せないわよね……」

「ん? わたしは怒ってないよ?」

「そうよね、仕方ないものね……」

「切り替え早くね!? どんなスイッチだよぶっ壊れてんじゃねえの!?」


 まくしたてる拓哉。麗華は振り向いてニコリと笑顔を浮かべる。鬼女と形容してもいいくらいの笑顔は、一瞬で拓哉を真っ青にさせるほどの迫力があった。

 そんな麗華の剣幕に、八雲と聖也もそろって身震いした。恐れおののくとはこのことか。


「いま、なんて言ったのかしら?」

「何も言ってませんすみませんでした本当にごめんなさい」

「ふふ、わかっているならいいのよ」

「どうしたの麗華ちゃん? 嬉しいことでもあったの?」


 状況がよくわかっていない愛華は小首を傾げて愛らしく問う。


「ええ。今度、駄犬の躾をするのよ」

「麗華ちゃん犬飼ってた?」

「私たちが小さいころから一緒だったわ。愛華も見に来る?」

「うん! 躾ってどんな感じなんだろー……」


 想像を膨らませる愛華を慈しむように見つめると、麗華は聖也と八雲の方に向き直った。

 先ほどの愛華への態度とはまったく違って、線を引いたように美しい麗華の柳眉は、今や吊り上がっている。


 ――止めてはくれないのか……。


 愛華に視線を送ると、彼女はしばらく不思議そうな顔をして、そのうち顔を赤らめはじめた。ついには両の人差し指を突き合わせてぶつぶつと何かをつぶやく始末だ。

 暢気(のんき)な愛華に反して拓哉はガタガタ震えている。哀れだった。


「で、なぜ先に行っていたのかしら?」


 長髪を風になびかせつつ、麗華は聖也と八雲に詰問する。こういうときの麗華は、なかなか面倒で、かなり厄介だ。


 八雲は身を反らす。麗華の顔が思いのほか近いから八雲としても話しづらい。むろん、忘れていただけなどとは口が裂けても言えないのだが。


「いろいろと複雑な事情があってだな……」


 すると麗華は一瞬戸惑って、しかしすぐに眉間に皺を寄せた。

 完全に火を点けてしまったらしい。


「どんな事情があったのか、お聞かせ願いたいわね」

「そいつは聖也に訊いてくれ」


 八雲は顎で聖也の方をしゃくる。聖也は目を見開いて驚愕を露わにした。

 実を言うと、八雲と聖也はただ単に麗華たちのことを忘れていただけであって、特に理由はない。が、ここで何の理由もないと言えば、麗華が怒るのは明白だ。


「ええとね……将来のことについて話してたら盛り上がってさ。つい忘れちゃったんだよ」


 謝罪の言葉を述べる聖也に続き、八雲も頭を下げた。


「悪かった」


 しばらく麗華は二人を睨んでいたが、そのうちもじもじとし始めた。

 八雲はその様子をちらちら伺いつつ、ほっと安堵の息を漏らす。このままいけばおそらく麗華は許してくれる。


「早く顔を上げてちょうだい。別に気にしてなんかいないわよ……」


 二人に頭を下げられるのが嫌だったのだろう、麗華は唇を尖らせて拗ねた。

 それを見た八雲は、聖也に「よくやった」という視線を送った。聖也は苦笑しながらも、頷いて応えた。


「麗華ちゃんは寂しかっただけなんだよ。こんな言い方だけど、気にしないでね?」 

「麗華はウサギみたいだね」


 なかなか正鵠を射ている。それと猫にも似ているなと思いつつ、八雲は心中で同意を示した。


「……ウサギはこんなに怖くないだろうぜ」

「私はそんなに寂しがりじゃないし、怖くもないわよ!」


 麗華は蒸気を吹きあげそうな勢いで拓哉に食って掛かり、それから四人はいつもどおりのやり取りを始める。八雲もまた、いつもどおり持参した書籍を机上に置いた。

 

 と、そのときだった。


「よう服部。お前まだ学校にくんのかよ」


 黒の短髪を後ろになでつけた、ガラの悪い男子生徒――中田仁は八雲の机に拳を叩きつけた。教室内の空気も、一瞬で冷える。


「……なにか悪いことでもあるのか。お前らになにか実害でも?」

「あるさ。お前のせいで怪我人が出たんだしな」

「あれは事故だろ。どうして俺のせいになるんだ」

「偶然か? それとも必然か? お前なら知ってるんじゃねえのか? アァ疫病神さんよ」


 中田は八雲を睥睨する。

 いつものことだ。中田はなぜか八雲に食いかかってきて、何かしらの文句をつけてくる。ひどいときは、暴力に訴える始末なのだ。


「俺がこの教室を出れば満足なのか」

「そうだなァ。とっとと消えてくれた方が俺も嬉しいってもんだぜ」


 立ち上がると八雲は、周囲を、教室内を見渡した。

 八雲を見て怯える女子生徒、こちらを睨んでいる男子生徒。それ以外にも、自分を嫌っている、もしくは苦手としている生徒は多いようだった。これもまた、いつもどおりだ。


 こうも敵意を向けられると、嫌な記憶が蘇ってきてしまう。

 事故が起きたあの日も、こんな雰囲気だった。


 その日は、文化祭を目前に控えていたこともあり、八雲たちのクラスも活気で満ち溢れていた。しかし八雲の傍に立てかけられていた、クラスの看板が突然倒れ、それにぶつかった女生徒が骨を折る怪我を負ったのだ。

 八雲が直接関与したわけではない。だが、八雲がいる場ではいつも何か悪いことが起きていた。最初はみな偶然としか思っていなかったのだが、だんだんと八雲に責任を追及し始め、ついにはクラスほとんどの生徒から無視されるまでにもなった。これもまた、幼いころからの日常。


 完全な言いがかりだ。実際に何かを引き起こしたわけではないというのに、その場に偶然居合わせたというだけで、犯人扱いをされる。

 だが、それを否定しきれないのが難点でもあった。事故が起きるときは、毎回八雲が傍にいるときだけなのだ。しかし一旦八雲から離れると、不幸は起きなくなる。だから八雲は疫病神と呼ばれてきた。


 そして今も、それは続いているのだ。八雲を糾弾し、排除しようとするクラス全体の思惑が、密やかに動いていたのだろう。

 中田は唇の端を吊り上げて、嫌な微笑を湛えている。八雲の出方を窺っているらしい。


 ――……慣れってのも、嫌なもんだ。


 八雲は深く溜息を吐く。


「そうかよ」

「ああ、そうさ。お前は人を不幸にする野郎だ」


 不思議と中田に対する怒りは湧いてこなかった。それよりも、胸を穿たれたような、ぽっかりとした喪失感だけが残った。


「なぜそうなるのかしら。別に服部くんが悪いわけではないでしょう」


 異を唱えたのは麗華だった。

 腕を組んでいかにも不満そうに眉間に皺を寄せている。


「そうは言っても事実、服部の周りではいつも事故が起きてんだぜ? これが必然じゃないなら何て言うよ。偶然の連続? 運命の悪戯? ――馬鹿じゃねえのか。んなもんが連続して起きるわけねえだろうが。しかもある一人の周りでだけでなんて、絶対にあり得ねえ」


 ニヤニヤと嘲笑を浮かべつつ、中田は言い放った。それを受けて、麗華はくしゃりと顔を歪めた。が、麗華はなおも食い下がる。


「だからなんだって言うの! それはあなたが勝手に思い込んでるだけじゃない!」

「俺だけじゃねえさ。もしも俺だけだってんなら、どうして他のやつらは止めない?」

「それは、それはあなたが――」

「――もういい」


 麗華を制止する。すべてが嫌になった。自分の味方をしてくれている麗華の優しささえもが、嫌だった。不甲斐ない、情けない自分が大嫌いだった。


「もういいよ。中田の言ってることは本当だ。昔っからそうだもんな。お前のときも、きっと俺のせいだった」


 八雲が目を伏せると、麗華は愕然として目を見開いた。涙に潤んだ、丸く大きな瞳が、八雲の姿を捉えていた。愛華は唇を噛んで俯いている。

 聖也は困惑と悲哀とを混ぜ合わせたような、複雑な顔をしていた。拓哉は、めずらしく真剣な面持ちで中田を睨んでいた。


「悪い。俺、今日は帰る」


 教室後方のドアへ向かう。数人の男子生徒が、触れたくないと言わんばかりに道を空ける。女子生徒は、親の仇を見るような目でキッと睨み付けた。

 八雲はそんな雰囲気を、意に介さない振りをして通り抜けた。


 ドアに手を掛ける。


「早く出ていけばいいのに」

「最初から来なけりゃいいんだ」


 女子生徒の忌々しそうな声が聞こえる。男子生徒の舌打ちが教室に木霊した。


 ――やっぱ、こんなもんか。


 悲観と言うよりそれは、諦観だった。その感覚は、伸ばした手をあえなく下ろす瞬間に似ていた。

 欲しいものにはいつも手が届かない。だから、諦める。それが八雲の生き方であり、八雲のできる唯一の解決法だった。


 しかし八雲の胸に、ふつふつと苛立ちが込み上げてきた。麗華の気遣いを捨てるような態度を取った自分自身へのものだ。

 

 八雲は思い切り、ドアを引き――しかし開けられなかった。


「は?」


 何度ドアを引いても開かない。スライド式のドアは、どうやっても開かなかった。


「どうなってる」


 開かない。もう一度全力でドアを引いてみるも、動きすらしない。

 蹴ろうとも、殴ろうとも、ドアに変化はなかった。ただ八雲の拳や足に、しっかりとした痛みと熱を残すのみだ。


「お、服部何してんの? うるさくて眠気吹っ飛んじゃうんだけど」

「開かないんだよ……!」

「なんだ開かないのかー……パントマイム上手いなと思っちゃったじゃん」

「本当に開かないんだ!」


 それを聴いて、(だる)そうに流し目を向けていた生徒が立ち上がった。

 眉を隠すほどの前髪とその下の眠そうな目は見る者にだらしない印象を与えるだろう。容姿は整っているが、寝ぐせや恰好やらで台無しだ。


「へー……あ、俺トイレ行きたい」


 黒木場(くろきば)眞白(ましろ)。いつもだらけていて何を考えているのかわからない、掴みどころのない男だ。


「ほらー。せーので行くよ、せーの」


 八雲は黒木場に合わせてドアを引く。渾身の力を籠めたが、やはりドアが開くことはなかった。


「おー……本当に開かない」


 黒木場は平時と同じく暢気な調子だ。そのせいで八雲の苛立ちも募っていく。しかしどうすることもできないのが現状だった。


 そのうち周囲の生徒は胡乱な眼差しを八雲と黒木場に注ぐ。何してるんだ、早く出て行けよ、とでも言いたげだ。

 だがそんな目を向けられても、困るのは八雲の方だった。八雲とて早く出ていきたいというのに、それができないのだから。


「なんで開かねーんだろ?」


 いつしか教室は暗がりに包まれた。蛍光灯が消えたとかそういう問題ではなく、室内は、まるですべてのものが寝静まったような暗闇を、ただそこに存在させているのだ。


 何の前触れもなく訪れた黒暗に、複数の生徒が驚愕にうろたえる。しかしそんな狂騒の中で、一際高い、絹を裂くような悲鳴が響いた。


「なにっ!?」


 悲鳴を上げた女子生徒の前には、幾何学模様の蒼い円があった。小さいころに見たアニメに出てくるような紋様だ。

 その紋様は、六芒星や五芒星、さまざまな図式を複合させたかのようであり、また、幼い子供が落書きをしたかのようにも見えた。

 魔法陣。それは、今までに見たことがないほど綺麗だった。八雲はこの瞬間、蒼い魔法陣に魅せられていた。

 

 他の生徒たちも、しばらくその蒼い紋様に見惚れていた。悲鳴を上げた女子生徒も、いつしか魔法陣への恐怖を捨てて魅入っている。まるで、この教室だけが時間を止めたようだった。異常を異常と認識することもできないままに。

 

 十秒か、それとも五分か。

 シャッターに切り抜かれた写真のごとく、時間と空間は変化を表さない。


「なに……これ……」


 うっとりとした声で、女子生徒は魔法陣に手を伸ばす。すると魔法陣は、あたかもそれを待っていたかのごとく、急速に回転を始めた。

 幾何学模様の蒼い円が宙空に鮮やかな燐光を漂わせる。


「やっ――」


 まるで異物を吸い込もうとするような魔法陣に、女子生徒は怯えて、咄嗟に手を引こうとした。

 そして手は引かれた。――魔法陣の方へと。


 八雲はその光景を信じられない顔で静観していた。

 引かれたのではない。魔法陣が一瞬で距離を詰めたのだ。蒼の残滓が宙に残ったかと思うと、それは突然女子生徒の目前にまで迫っていた。


 近くにいた男子生徒が、女子生徒を救おうと手を差し出した。女子生徒は必死に、泣き出しそうな顔で、声にならない悲鳴を上げて、


 

 消失。

 欠片を残すことなく、女子生徒は魔法陣とともに教室から消え去った。


「――――っ!?」


 八雲は言葉を失った。何の原理かも分からないが、目の前で人が消え去ったのだ。しかも自分も知っているクラスメイトが、だ。


「な、なんなんだよこれ!?」


 男子生徒が怒りとも驚きとも取れるような野太い声を出して、教室から逃れようとする。


 それが、トリガーとなった。


「助けてぇ――!」

「早く逃げろ! どけよ!」

「ふざけんな! さっさと開けろよ! くそっ!」


 我先に、と生徒たちが蜘蛛の子を散らすように逃げ出そうとする。その混乱の最中、八雲は突き飛ばされて、教室の中央で尻餅をついた。


「服部くん、大丈夫!?」

「あ、ああ大丈夫だ。それより、早くここから逃げ出すぞ」


 麗華の手を握って立ち上がった八雲は、周囲の状況に顔を険しくさせた。

 

 窓から出ようとする者、前方と後方のドアを蹴破ろうとする者。さまざまな方法で教室からの脱出を図るも、一向に脱出口は見当たらない。

 窓を割ろうとしても、傷一つつかないのだ。それはドアも同じで、八雲を突き飛ばした中田が何度蹴りを入れようが、びくともしない。


 

 今の教室内は、まるで阿鼻叫喚の地獄絵図だ。しかし教室内は、だんだんと静かになっていく。数が減っていっているのだ。

 魔法陣は一人、また一人と生徒たちを飲み込んでいき、とうとう生徒たちは、恐怖からか悲鳴を上げることすらできなくなった。


「はやく逃げて!」

「八雲くん!」


 麗華と愛華の声に振り返る。彼女らもまた、蒼い光に照らされていた。そして、消える。いつの間にか、教室には八雲以外の生徒が見当たらなくなった。


「なんだよ、これもまた、俺のせいなのか……!」


 八雲は唇を噛んで、先の中田の発言を繰り返した。あまりに突飛で、奇異な現象が目の前で起こった。残されたのは自分一人。自分のせいだと認めるしかないのだろうか。


「……ふざけんな」


 自棄になって、八雲は窓ガラスに拳を叩きつけた。痛みはあるも、窓ガラスはビクともしない。椅子を投げつける。普通は割れるはずのガラスは、微塵も傷がつかない。


「またいつもの悪夢なんだろ。早く醒めろよ! なあ……、頼むから」


 ついに、八雲は膝をついた。

 夢だ。そう、信じたかった。しかしこれは、現実だ。紛れもない現実であり、他の生徒たちが消えたのは事実。


「せめて、せめて俺も消してくれ。残さないでくれ……。一人に、しないでくれ」


 目尻に涙が溜まる。視界がぼやけて、世界が滲む。

 黒板があって、チョークがあって、教卓があって、人数分の机と椅子があって、聖也たちがいる。そんな日常はもう、見ることができないのか。

 眼前にある黒板やチョークや教壇、机と椅子はもう誰にも使われないのだろう。すべてが終わっているのだ。八雲たちの日常はすでに崩壊してしまった。


 涙が頬を伝う。俯いていると、唐突に紅い光が視界を覆った。眩しさに目がくらんで、八雲は手で光を遮ろうとするも、光は手を透過した。


「なんだよ……これ」


 手が、ない。光が手を透過したのではなく、もともと遮る手が消えていたのだ。

 八雲が顔を上げると、そこには紅い魔法陣が浮かんでいた。幾何学模様が回転し始め、光はさらに強くなる。

 

『ごめんなさい――』

 

 女性の凛とした声が聞こえたとき、八雲の視界は、沸々とした紅に覆われた。

 



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