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灰被りの勇者と封印されし聖女~疫病神の英雄譚~  作者: 樋渡乃 すみか
一章:かくして疫病神は灰を被る
26/67

024 強者と弱者



 ラルカを乗せたアーディは、足の怪我が嘘のように駆けていく。草むらを飛び越えて樹林の間に消えるのを見届けてから、八雲はようやく振り返った。

 薄暗闇のなか、爛々と揺れる赤の眼光。木々を裂いて現れたのは、オークなどよりもずっと大きい、漆黒の巨躯。

 その犬歯は片方の角をなくしたアーディを貫いていて、その手には細くしなやかな脚が握られていた。堂々たる捕食者の歩みを見て、八雲は生唾を飲み込む。


 あらゆる生物を食らおうとする獰猛な熊の魔物、シャーベロア。

 特徴的な鋭爪はアーディの肉体をやすやすと切り裂いていた。

 見ればそこら中に臓腑が散らばっていて、目を塞ぎたくなるような惨状が広がっている。独特の死臭と鉄の臭いは鼻腔を狂わせそうなほどだ。


 シャーベロアは、アーディの身体を放ると、手に持っていた脚をおやつのようにボリボリと噛み砕いていく。その咀嚼音は、下手すれば自身がそうなる情景を八雲の脳裏に思い起こさせるには充分すぎた。

 目の前の熊は、八雲を注視していた。大方、武器も持たずに対峙している雑魚が不思議で仕方ないのだろう。


「グルゥァ……?」


 だがシャーベロアは何か思い出したように一瞬硬直した。

 黒い鼻先をひくひくと動かして、何かの匂いを嗅いでいる。またしても硬直。


 八雲はその動作の節々を注意深く観察していた。少しの動きでも見逃せば致命的な状況に陥ってしまうに違いない。それから、あのときのオークのように何か癖はないものかと。


「グァゥウ……」


 シャーベロアはとうとう八雲へと視線を移す。しかし八雲はふと違和感を覚えた。

 かの熊はよく見ると八雲に興味を抱いてはいなかった。その眼球は、ただ一点、先ほど小鹿が倒れていた場所を見つめている。


 ──そういうことかよ……!


 ようやく熊の意図に気がついた八雲は悔しげに歯噛みした。


 シャーベロアはおそらくアーディの味を気に入ったのだ。

 そして親を食ってしまったから、次は子供を食おうと言う算段。そこに至るまでには八雲のような雑魚は無視しても差し支えない。


 ──動け動け動け動け動け動け……ッ!


 八雲の考えは的中していた。巨体をのそりと動かして、シャーベロアは四足で歩き始める。もはやその視界には八雲など入っていない。入っていたとしても、せいぜい路傍の石程度。


 荒い鼻息。そよぐ風に運ばれた死臭。近づいてくる巨躯。けたたましく鳴る警鐘。頂上に近づく恐怖。どうやっても抗えないと叫ぶ理性。衝動的に逃げ出そうとする本能。立ち向かえと言う心。嘲笑うかのように震える膝。


 ──時間を稼ぐんだ……! あいつらが無事に逃げ切れる時間を!


 シャーベロアが一瞥をくれる。


「ぁ……」


 血走った赤い眼。底冷えするほどの威圧感。剥き出しになった犬歯は鮮血に彩られている。口の端から滴る血液と涎。食べるに値するかを見定めるような眼差し。


 ──死ぬ。


 全身が、凍った。


「……ッ!」


 拳を握りしめるだけで、身体が動かせなかった。

 シャーベロアの瞳に見つめられた瞬間より、八雲は今までに経験したこともない死の恐怖に囚われていた。心が折れかけた。

 ただ無味乾燥の、“死”という事実を受け入れていた。


 ──え?


 全身の毛穴と言う毛穴から、脂汗か冷や汗かを噴き出し、まるで水を被ったように服が肌に貼りついている。あのとき動いていれば今頃は汗ではなく真っ赤な鮮血を噴出させていたに違いない。


「う、あ……っ」


 おそるおそる振り返ると、シャーベロアは豪胆な足取りで歩を進めている。

 その先に狙っているのは、少女と小鹿。

 だがきっと、あの調子であれば二人はもうじき村に着いているはずだ。そうなれば、きっとテグスやギリアンなどの強者が熊ごとき葬ってくれる。


 ──俺じゃ、ダメだ。


 そう。強者を超えるのは強者なのだ。それがこの世界の理であり、すべてなのだ。

 強者が弱者を護る世界。弱者はただ護られるだけの存在。弱肉強食と言う、厳しく残酷な世界においては、八雲はただ傍観することしかできない。


 ──ダメ、なんだ。


 武器もないのに刃向えるはずがない。それに、弱者が強者に刃向っても無駄死にするだけ。己の命を無為に散らして、人生を無駄に終わらせるだけなのだ。

 八雲はそう思った、思い込もうとした。


 それで、いいのだろうか。


 だが身の内にいる己が再び問うてくる。それが真実なのか、と。そこに転がっている死体は何のために戦ったのだ、と。


 八雲は、見た。


「ぅぐっ」


 無残にも散ってしまった一つの命を、しかと目に収めた。胴体は食い散らかされ、四肢はもがれている。そして、ごく自然に転がっている、親鹿の頭。瞳からは生気が失われており、口からは舌がだらりと伸びきっている。


 命を無為に散らした結果。

 人生を無駄に終わらせた結果。

 弱者が強者に立ちはだかった結果。


「ぐぅぅ……ッ!!」


 八雲のなかで、己が呟いた。


 それは、本当に無為だったか。その人生は無駄であったのか。──違うだろう。この牝鹿は、子供を護るために命を犠牲としたのではないか。それはまったく、無為でも、無駄でもない。事実、子鹿の命は繋がれたのだ。それを無為だ、無駄だのと形容するのは間違っている。そしてお前は何を都合のいい想像をしているのだ。あの子鹿がラルカを乗せて今頃は村に着いている? なぜそう思える。あの子鹿は怪我をしていたのだ、途中で歩けなくなってもおかしくはないはずだ。想像してみろ、あの少女たちが無残にも殺され、食される様を。親鹿が繋ぎとめた二つの命を、お前が無駄にする様を。


「なに、してんだよ……」


 ──瞼の裏の暗幕に、惨劇が鮮明に映し出される。

 泣き叫ぶ少女、逃げ惑う子鹿。子鹿は四肢をもがれて食され、助けを求めた少女がただ目障りだと言う理由で食い殺される情景。

 すべてが終わってしまったあと、赤黒い血液がまるで底なし沼のように、駆け寄った八雲の足を沈ませていく。

 血に浮く、食べ残された子鹿の角。八雲を真っ直ぐに見つめる、光のない少女の瞳──


「なん、でだよ……なに、ふるえてんだよ……」


 己が再び責めたてる。

 何をしている? 武器は弱者が残したではないか。弱者が唯一持っていた武器は、すぐそこにあるではないか。それを取るか取らないかはお前次第。すべてはお前次第なのだ。


「止まれよ、止まれ……ってんだよ」


 拳を握りしめる。爪が皮膚に食い込み、血がどくどくと流れ出す。それこそ自分を殺してしまいたくなるほどの激しい怒りを覚えていた。


 ──動け。


 握りしめた拳を自らの脚へ。感じるたしかな痛みとともに、どうしようもなかった震えは治まった。


「何をしてやがる、服部八雲ッ!」


 服の袖を引き裂き、八雲は残された()にそれを巻き付けた。そうして、地面に突き立っていたそれを一気に引き抜く。

 八雲は腹を据えた。


「ぉぉおおおお──ッ!」


 怒声を張り上げて草原を駆る。グングン速度が増していって、まるで風に後押しされているかのようだ。


 ──ここで引けんのかよ、俺は。


 シャーベロアが振り向く。その赤い眼光はおそろしく冷たい。一度は死の恐怖に魅せられたか、二度目の恐怖は味わなかった。


「ゴァァアア──!」


 八雲が敵になったのだと悟った瞬間、熊は威嚇の咆哮を轟かせる。鋭い爪が瞬時に伸びて、すべてを蹂躙すると言う宣言に思える。


「引けるわけっ、ないだろうが!」


 ビリビリと肌が痺れるのも気にせず、八雲は一直線に駆けていく。


 おそろしかった。あの情景が浮かび上がったとき、底冷えするような恐ろしさに襲われた。護ろうとしていた者の死は、自分が死ぬことよりもひどく怖いものだった。

 だから八雲は、その未来を是としない。自らの命をもってでも、その未来を拒絶してみせる。


 勝ち負けがダメかどうかを決めるのではない。立ち上がれるかどうか、そこで人の真価が問われるのだ。


 ──怖い。……けど、それがなんだ!


 全速力のままに八雲は刺突を仕掛ける。狙いすまされた切っ先はシャーベロアの一振りにあっけなく弾かれた。

 人を超越した膂力に押し負けて吹き飛びそうになる。それだけの力の差があることを痛感したが、そんなものは今関係ない。


「ガァァアアア!!」


 シャーベロアは二撃目へと移行、もう片方の鋭爪で八雲の身体を切り裂こうとする。


 ──くそっ!


 八雲はバックステップ。同時に片手を刀の腹に添える。次の瞬間、猛烈な力が超えられない差となって刀を打った。


「ぐぅう……ッ」


 八雲の身体は軽石のごとく飛ばされ、無様に地を転がる。


 回る風景。耳朶を叩く轟音。揺さぶられる脳漿。何度も地に打ち付けられる苦痛。圧倒的な力の差への恐怖。──それでも。


 痛みを無視して立ち上がる。震える身体をいなすように、屹立(きつりつ)する強者をねめつける。剥き出しになった犬歯が、鋭く煌めいた。


「やれるもんならやってみろ」


 刀を向けてシャーベロアを挑発する。心なしか、シャーベロアの蟀谷(こめかみ)あたりに青筋が浮いている気がした。


「グルァァアアアアッ!」


 熊は激昂の雄叫びを上げると、ロケットスタート。


 ──速いッ!!


 その速さはオークの比ではなく、あっという間に八雲との距離を零に近づける。

 かの存在感は、八雲という矮小な存在をさらにちっぽけにさせる、それほどのものがあった。


「くっ!」


 予想以上の速さに圧倒されつつも、突進の軌道上から逃れるように走り、シャーベロアと接触しようかというところで跳躍し刀を手放す。

 地に転がりつつ衝撃を緩和し、ふたたび起き上がった。刀を拾うと、視線をシャーベロアの進んだ方へ。


 バキバキと木々が砕け折れ、その残響は森全体が揺らいだと錯覚するほどだ。

 姿が見えなくなったが、破砕音が途絶えたことであの巨体が制止したと悟る。

 

「理不尽すぎるだろうが……」


 巨体が見えないうちに、八雲は思考を巡らせていく。

 たとえ愚策しか思いつけなかったとしても、考えることもなく犬死するなんて、まったく御免こうむる。

 図書館にて文献を読み漁っていたころにはもちろんシャーベロアについての記述も目に焼き付けていた。


 鋭爪熊(シャーベロア)。体長は成人男性二人分を悠に超え、その四肢は強靭にして、秘めた底力は森の魔物を掃討しつくすほど。


 唯一できることと言えば、熊の攻撃を全力で回避しつつ、そこに何かしらの策を弄することだけだ。

 しかし罠と言っても、八雲にはその経験がない。クルトにいろいろと聞いたことがあるが、そのどれも実践に移したことはない。


 ──どうすれば……。


 自らの非力さを痛感する。

 ギリアンに剣の指南を受けたが、怪力を持つ魔物相手に通用するかと問われれば、さすがに無理があるとしか言えない。

 これがオークなどの魔物だったならばまだしも、敵は森の怪物と称される魔物だ。


 そうこうしているうちに、視界の奥、暗闇のなかを再び紅の光が揺れ動く。八雲はその動きに集中、目を凝らして動向を窺う。

 熊は、ゆったりと、しかし重々しい足取りで姿を現した。

 黒毛に付着した木の葉を振り払うこともなく、八雲を睨みつけている。グルル、と喉を鳴らして威嚇する様は、いかにも森の支配者である。


 ──考える暇もくれない、か。


 八雲はこの時点で安全な回避の可能性を捨て去った。

 そして、刀を両手で構える。カウンターを目的とした型。抜き身の刀身を敵目がけて構え、重心を落とし、肩から力を抜く。


 弱者なりの、強者との戦い方。スピードに合わせられないなら合わせなければいい。隙がないのなら作ればいい。一撃しかないのなら、その一撃に全力を籠めればいい。


 左足を半歩後ろへ。右足はそのままに。

 深く息を吸い込み、全身の細胞すべてに酸素を行き届かせる。

 ズシ、ズシ、草むらを踏みしめる足音と敵意を示す唸り声が耳に入る。

 視界の中央を占めるは黒の巨躯。紅に染まる瞳は、もとより血が凝集しているのかと思えるほど。


「ここで死ぬわけにはいかないんだが」


 ふと、思い出す。それは走馬灯のように一瞬で脳裏を流れ行き、しかし時間を濃縮したのだという錯覚があった。

 八雲には破れぬ意志がある。確実に生きるためならきっとここで逃げ出せばいいのだろう。

 ──だが、

 

「ここで引くわけにもいかないんだよ!!」


 眼前の支配者は、じりじりと距離を詰めてくる。すべての細胞が危険だと絶叫している。


 八雲は、集中した。


 熊が走る。

 四足すべてを駆使しての、全力の速度。


 迫るにつれてその体が巨大になっていく。

 自身の存在感の矮小さ、かの支配者の存在感の大きさ、そして彼我の力量の差が八雲目掛けて攻めてきたようだった。


 ──大丈夫。


 ついに、シャーベロアの巨躯が八雲の許に達した。


「グルゥァアア──」


 八雲は動きを視認するよりも前に行動した。元より下げていた左足をさらに下げ、身体を九十度回転。

 予測していたとおり、八雲の身体があった場所に凶刃が突き立った。地面が抉れ、しかしそれは深く爪が食い込んだということ。 


 自然、


「グルァア!?」


 一瞬の隙。ともすればシャーベロアの反射によって自身が裂かれていたかもしれぬ状況を突いて造りだした、値千金の一瞬。

 そこに、すべてを賭ける。


「貰った──」


 無防備となった熊の右腕。一本、いただこう。

 漆黒の刀身を添え──、八雲は全身の力を籠めた。


「ガッ、」


 シャーベロアの筋肉は、まるで鋼のごとき強靭さで、普通の打撃などであれば通用しない。それは安物の刃でも同じことである。単なる鉄剣だったならば容易く折れていたことだろう。

 しかし八雲の握るそれ、想いを乗せた刀身は違った。


「ォォオオオオオッ!!」


 なにより、その感触。引く際の感触が、まるでなかった。

 あまりにも容易く、黒刃は敵の肉を引き裂いていく。八雲はひとたび瞠目すると、そのまま全体重を乗せつつ刀を引き去った。


「グガァァァアア────!?」


 絶叫が響き渡り、鮮血が宙を舞う。落ちるは、木の幹を思わせる力強い巨腕。

 しかし、シャーベロアもただ斬られるだけでは終わらない。瞳に憤怒を宿したかと思うと、残る左腕を力任せに振るった。

 森の支配者たる魔物の、憤激を乗せた一撃。決して速かったわけではないが、それでも充分な威力があると見えた。


 ──なッ!?


 声を出す間もなく、八雲は咄嗟に身を翻す。だが、退避が遅れた。

 シャーベロアからすれば意趣返しとも言えたろう。なにせ、八雲の退避が遅れたのは両腕なのである。


 次の瞬間には、


「~~~~ッ!!」


 熱。

 猛る火炎に侵されたかのように、両腕が凄まじい熱を持っていた。

 次いで、視覚を通して、信じられぬ、信じたくない情報が書き込まれる。


 ──おい……!


 シャーベロアは動かない。振り切った左の鋭爪が地面に食いこんでしまったせいで動けないのだ。そしてかの黒い巨躯の前に、異物がある。

 それは、深紅に彩られていた。黒と赤をちょうどの比率で混ぜたような、深い紅色。


「ぇ、あ……」


 漆黒の刀を持つ二本の腕が、目の前で鮮血を浴びていた。斜陽を跳ね返す刀身の輝きに、鮮血が絡みついている。肘から先がないのだ。腕が、ない。いや、ある。目の前にはある。だが、ない。繋がって、いない。

 それは、つまり。


 一瞬で、知覚する。


「がッ、……ァああああああ──ッ!!」


 ただひとつの情報が脳裏を埋め、脊髄に染み渡り、全身を毒していく。痛い。痛い、痛い……痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い、と。


 涙を流し、みっともなく喚く。だがそれも、当然のことと言えた。脚を潰されたときよりかは、鋭い刃物に切り裂かれた今の方がまだ痛みは少ないだろう。

 だが、あのときと違って、八雲は目にしてしまったのだ。血を噴き出す己の肘を、あっけなく舞う己の両腕を、それらの残酷なシーンを見届けてしまったのだ。


 嗅覚には鉄の、己の鮮血の匂いがある。聴覚には、脳を揺さぶる己の絶叫がある。触覚には、腕がないという感覚がある。味覚には、噴き出した血の嫌な味がある。そして視覚には、落ちゆく己の両腕、深紅に彩られてしまった身体の一部がある。

 五感で知覚してしまった激痛が、八雲のすべてを覆い尽くす。


「うッ、ぁ……」


 吐き気。込み上げるものを喉元で押し返す。

 脳を焼き尽くすほどの苦痛に、八雲は恐慌状態に陥りそうになった。だがかろうじて、それを回避。

 八雲はまず、迫り来る死から逃れようとした。


「ガァァア!!」


 鋭爪熊(シャーベロア)は、鋭い犬歯で八雲を穿たんとする。憎悪の込められた視線を向けられた八雲は、しかし何も感ずることなく、生存本能のままに動いた。


 後ろへ倒れ込みながら、シャーベロアの下顎を蹴り上げる。


「~~ッ!」


 もちろん効くはずもなく、ただ八雲の右足が嫌な音を立てるのみに終わった。だがそれでも、効果はあった。

 シャーベロアは最後まで抵抗を続ける八雲を、完全に敵とみなしていた。放置しておけば、自力で助かる(すべ)を持たない八雲は時間とともに死んでいたはずだ。


「グルゥァア……!」


 しかしシャーベロアは、それをしなかった。八雲を殺してから先を行くことに決めたのだろう。二つの命を繋ぐために時間を稼ぐ、という八雲の意志は、図らずとも達成されたのである。


 右の足首は、先の蹴りによって使い物にならなくなっていた。

 それでも八雲は、ふらりと立ち上がる。ことごとくを蹂躙すると言われている獣は、憮然として青年を観察していた。


 八雲は、激痛の荒波のなか、不思議になった。


 なぜこうして立っているのだろうか。どうして立たねばならないのだろうか。寝転んでしまえば楽なのに。

 目の前の獣は、非力さゆえに倒せない。あるいは聖也や麗華であったならば、余裕を持って始末できただろう。


 けれど自分には、彼らのような力がないのだ。


 魔法。人が魔物に対抗するための唯一の手段とも言えるそれが、八雲にはどうしてか使えない。そもそも魔力が感知できないのであればどうしようもなかった。


 八雲は願う。

 ──もし世界に神がいたのならば、どうか力を貸してはくれないか、と。

 あらゆる状況を打開できるだけの力さえくれれば、その代償はいくらでも払おう。たとえ身を切り売りすることが力の代償だとしても、護るべき者の命と比べれば安い。

 すべてを投げ打ってでも護りたいのだ。あのときの両親のように、人を包み込める暖かさと強さが欲しいのだ。


 八雲は呪う。

 ──もし世界に神がいたのならば、そいつはどれだけ残酷なのだろう、と。

 力を与えてくれていたのならば、八雲は誰も傷つけずに済んだ。背負わされてきた不幸の一部を取り除いてくれれば、多くの人を傷つけずに済んだ。


 願っても与えられぬ運命にあるのかもしれない。願うことすら許されないのかもしれない。だがそれでも願わずには、呪わずにはいられない。だって力さえあれば、だれかを護れるのだから。


「グルゥウ……」


 見せつけられた牙と爪には、圧倒的な“力”があった。

 どうしてラルカは危険な目に遭わねばならなかったのだろう。どうして愛華は恐ろしい想いを味わわねばならなかったのだろう。


 その答えはあっさりと出た。八雲の顔に、哀しみ、寂しさ、怒り、虚しさをないまぜにした複雑な感情が表れる。

 泣き笑い。まるで、道化(ピエロ)のようだった。


「ああ、そうか」


 答えに行きついてしまった八雲は、ほかならぬ己自身に、消せぬ呪いをかけた。


「俺のせいで、みんなが傷つくんだ」


 あらゆる不幸は、自分のせいだったに違いない。文字どおり疫病神だったのだ。たとえその確率が天文学的なものであったにしても関係ない。


 ──きっと、俺のせい。


 八雲がそう結論付けると同時、観察に飽きたのかシャーベロアは凶刃を解き放つ。五本の爪が、八雲の身体を裂かんとする。

 腕を失ったことによる猛烈な痛みが脳を蝕むが、もはや八雲は痛みなどどうでもよかった。もう死ぬと、そう思ったら痛いと感じるのも馬鹿らしかった。


 目を瞑ろうとした、そのときだ。


「そんなわけないだろ、この馬鹿」


 言葉が切り込んできた。

 視界に入ったのは、くすんだ金色。背負うは、煌びやかな装飾もない、無骨な大剣。その男は、八雲に向けて一言、


「もう大丈夫だ」


 大きな魔力が迸る。魔力の感知できない八雲でも、彼の雰囲気ががらりと変わったことで魔力の動きを察せた。

 シャーベロアは妨害されたことに怒って、標的を八雲から男へと変える。男はふてぶてしく笑うと、身の丈ほどある大剣を構えた。

 彼の勇者然とした恰好を見て安心した八雲は、いよいよ意識を失いかける。倒れ込みそうになった八雲の身体を支えたのは、柔らかな暖かさだった。


「今、治すわね」


 どこかで聞いたようなセリフ。朦朧とする意識、くらむ視界のなかに見つけたのは、美しい微笑。

 八雲は声も出せず、弛緩した身体は地に臥せた。


 落ちゆく意識の中、見えたのは、一閃に熊が葬り去られる光景──、

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