Ⅵ 死神
‘その時’はあまりにも突然襲い掛かってきた。
時計にちらちらと目をやりながら、何かを待っている様子の蓮。ポケットに手を突っ込んで、塀に軽く寄りかかる。と、そこに早苗が走ってやって来た。軽く息を弾ませて、でも楽しそうに顔を輝かせている。
「ごめん! 待った?」
「いや、全然。」
蓮はそう答えつつ彼女に優しく笑いかけて、手を繋いで歩き出す。しかし早苗の荒い息がなかなか治まらないのを見て足を止めた。
「大丈夫か? 少し休もう。」
「平気。ただ、ちょっと走ったか……ら……」
早苗は無理やり笑顔を見せるが、呼吸は治まるどころかどんどん荒くなっていく。蓮がさらに休憩を勧めようと口を開きかけた途端、早苗の体がガクッと崩れた。
「早苗!?」
蓮は叫び、慌てて彼女を抱きとめた。早苗の顔は蒼白で、蓮の脳裏を死神の影がよぎる。
(嘘だ……!)
泣きそうな思いで、彼女の名を何度も何度も叫んだ。
「早苗っ! しっかりしてくれ、早苗!!」
彼女の体の震えが伝わってくる。パニックで頭が真っ白になりながらも、蓮は震える手で携帯を取り出した。ボタンを押しながら祈るように早苗の名を呼び続ける。無意識のうちに、あの名前が口をついて出た。
「やめてくれよ、トワ……!」
壁も天井もシーツも、全てが真っ白な病室。なかなか慣れることの出来ない独特の匂いが鼻をつく。綺麗な空が見えるだろう大きな窓には今はブラインドが降りていて、室内はよけい薄暗く感じる。
部屋の中心にあるベッドに横たわる少女の姿は、その白い空間の中でなお白く見えた。いつも明るく輝いていた瞳は固く閉ざされている。その傍らに、背中を丸めて座る蓮の姿。
病室のドアがバッと開いても、少年はぴくりとも動かなかった。
「お兄ちゃんっ!」
駆け込んできた少女が叫ぶ。その声を妹のものと認めて、やっと蓮はゆっくりと振り向いた。その兄の顔を見て、由依は思わず足を止める。ぼんやりと虚ろな目。その目は、由依の方を向いていても、彼女を見てはいなかった。由依はベッドの方にゆっくり歩み寄りながら、かすれ声で言う。
「早苗が、倒れたって聞いて……」
蓮は解っているのかいないのか、ひどく緩慢な動作で頷いた。そのまま早苗に視線を戻す。由依はちょっと唇を噛んだ。お兄ちゃんは、いつもいつも早苗のことしか見てない――こんな時でもそんな事を思ってしまう自分が、ひどく冷血な人間に思えて。
由依は黙ったまま自分の鞄を早苗や蓮の荷物と並べて置いた。背中を丸めた後姿がなんだか痛々しくて、兄の肩にそっと手を触れる。カノジョが出来て嫉妬してしまうくらい、大好きな兄。由依は泣きそうだった。
「ちょっと、休んだら? ずっと早苗についてたんでしょ。参っちゃいそうな顔して……」
その手が不意に振り払われた。蓮は相変わらず深く俯いたままだ。
「……俺が」
彼は聞き取れるか聞き取れないか、蚊の鳴くような声で呟いた。
「俺がもっと早く気付いてやらなきゃいけなかった。気付いてやれなかった! 一番、早苗の近くにいたのに……。」
「お兄ちゃんの所為じゃないよ。」
「俺の所為なんだ。気遣ってやんなきゃいけないって分かってたのに、俺は……。早苗も、最近は、病気の事なんか忘れさせるくらい元気で……」
蓮の言葉に、由依は声を絞り出すようにして答えた。
「無理、してたんだよ。お兄ちゃん心配させないように。」
その言葉に、蓮は顔を上げて初めて由依を見た。そして意外そうに目を見張る。由依は辛そうに顔をゆがめて、今にも泣き出しそうだった。
「この間も、発作起こしたの。私達と一緒にいる時。その時だって、無理して笑って見せたりして……。」
妹の言葉に、蓮は早苗の手を握ったまま腰を浮かせた。
「どうして……どうして言ってくれなかったんだ。」
「早苗に頼まれたのよ、誰にも言わないでって。特に、お兄ちゃんに。あんな真剣な目で頼まれて、約束破ることなんて出来ない。」
由依の目から、小さなしずくが2つこぼれた。蓮は目を見開いたまま再び椅子に沈み込む。
「そんな……」
うつむいて、握った早苗の手に額を押し付けるように顔を覆う。その時、蓮は自分の手の中で早苗の小さな手がぴくりと動いたように感じた。がばっと顔を上げ、思わず立ち上がる。
「早苗!」
早苗がゆっくりと目を開けたのだ。ぼんやりとした目で天井を見上げ、蓮の声にそちらを見た。
「あたし……蓮くん?」
由依もそれに気付き、慌てたように駆け寄ってきた。友人の顔を覗き込んで、ホッとして泣き笑いのような表情を浮かべた。
「早苗! よかったあ。」
「由依ちゃん?」
身を起こそうともがく早苗を、蓮が優しく止める。由依は身を起こしてドアの方へと駆け出す。
「あ、私、先生呼んでくるよ。」
蓮がそれに頷くより早く、由依は走って病室の外に姿を消した。それと入れ違いに、するりと室内に滑り込んだ黒い影。蓮はそれに全く気付くことなく、早苗に話し掛ける。
「早苗、大丈夫か。苦しかったりしないか?」
「平気……ね、蓮くん、」
「ん?」
弱々しい早苗の声。聞き返した蓮に、彼女はなんだか泣きそうな顔で言った。
「ごめんね……。デートの約束、駄目になっちゃったね。」
ちょっと身構えていた蓮は何を言われたのか分からず、一瞬ぽかんとした。それから少し気が抜けたように息をつく。
「なんだ、そんなこと……。今はそんな場合じゃねーだろ。それに、デートなんて後でいつでも出来る。」
「ごめん……無理かも、しれない。」
かすれた早苗の言葉に、連は思わず絶句した。無理? そんな莫迦な。
「あたしの体の事は、あたしが一番よく分かってる。もう、あたし……」
「早苗! 駄目だ! そんな事言わないでくれ!」
まただんだん荒くなってくる呼吸と共に途切れ途切れに続く早苗の言葉を、連は半泣き声で遮った。ぎゅっと強く彼女の手を握る。
「蓮くん……。」
「絶対治すんじゃなかったのか! 治して、一緒にどこにでも行こうって、俺が連れてってやるって、約束したじゃないか!」
蓮の目から、とめどなく涙が溢れていた。早苗も初めて見る、彼の涙。早苗の顔も、泣きそうに歪んだ。
「ほんとに、ごめん。約束、守れなくて……」
泣きながら、ただただ首を横に振る蓮。早苗は、ちょっとだけ幸せだった。こんなに泣くほど、自分のことを大切に思ってくれていたんだと改めて知って。そっと、彼の大きなあたたかい手を握り返した。
ふと、その滲んだ視界に黒い姿が映って、早苗は瞬きする。黒い髪、白い翼……想像してたのとは少し違うけれど、彼女はにっこりと笑いかけた。
「あなたは……天使さん、かな……?」
「えっ、」
蓮が驚いたように顔を上げて、早苗の視線の先を見るように振り向く。そして、息をのんだ。
「トワ?」
トワはそれに答えることなく、手にした大鎌を振り上げる。今にも途切れそうにか細い早苗の声が言った。
「あたしを、迎えに来たんでしょう? いいよ、連れてってよ。」
「早苗!?」
振り向いた蓮に、早苗は穏やかに微笑みかける。
「蓮くん、ごめんね。ありがと……」
トワが鎌を振り下ろすと同時に、早苗の目がゆっくりと閉ざされた。
「さ……なえ?」
蓮の手の中にあった早苗の白い小さい冷たい手が、ぱたりと力なく落ちる。
「早苗!? 早苗! 早苗っ!」
黒い天使は一言も何も言わぬまま、背を向けて立ち去った。医師たちを連れた由依が駆け戻ってくるまで、泣き叫ぶ蓮の声だけが病室に響いていた。