三瀬川のほとりで
後日談。
※ネタバレ等含みますので必ず本編の後にお読みください。
「きれいな所ねえ。」
楽しげに呟いて、思い切り伸びをした。身体がとても軽く、気持ちいい。
見渡す限りの草原。遥か遠く、地平線の代わりにちらちらと揺れ動く水面が輝いて見える。あれは、海……いや、川だろう。空は見事な夕焼け。というより、黄昏と言った方が似合いそうな、どこか物寂しい雰囲気。そして足元の草がさやと揺れるほどの風も吹いていない。
そんな景色の中を歩く、高校生くらいの少女の姿があった。うなじで一つに結った長い髪が、彼女の動きに合わせて揺れる。ゆっくりと特に目的もないという足取りでぶらぶらと歩きながら、彼女は誰に言うともなく喋り続ける。
「初めて来たわ、こんな原っぱ。広々として、ピクニックにはいいんじゃないかしら。もっとも私は青空の方が好きだけど。それに、そよ風くらい吹いてほしいかな。ここは一体、何処なのかしらね。少なくとも東京じゃない、ううん、日本ですらなさそう。ひょっとして異世界? というよりむしろ……止めましょ。本当だったら怖いもの。」
ふふっと笑う。言葉とは裏腹に、軽口を叩くような口調も、口元に浮かぶ不敵な笑みも、何かを怖がっている人間のものとはかけ離れていた。
彼女の足はいつの間にかまっすぐに川へと向かっていた。迷いなど微塵もない、はっきりと目的を持った足取りに変わっている。程無くして彼女は、川のほとりで足を止めた。
「おかしいわねえ。ついさっきまで、あんなに遠くに見えていたのに。」
くすくすと笑いながらつぶやくと、目を細めて川の向こうを見つめる。
「全然向こう岸が見えないわ。ずいぶんと渡るのが大変そうなものなのね、三途の川ってやつは。」
「相変わらず胆の据わった女だな、お前。」
誰もいなかったはずの背後から呆れたような声がして、彼女は振り向く。そして、にっこりと笑った。
「やっぱりね。貴方にはここで会えると思っていたわ、光。」
光と呼ばれた男は、何も言わずただ肩を竦めた。
「貴方、どうして高校の制服を着ているの?」
「どうしてって、お前の格好に合わせただけだが。」
二人は高校の同級生。だから彼女にとって、高校の制服を身に着けた彼の姿は、自分自身の制服姿と同じほどによく見慣れたものであった。しかし彼は、彼女の知っている高校生の光と姿も声もまったく同じでありながら、明らかに何かが異なっていた。その身にまとう雰囲気は十七歳の青年のものとは思えない。というかそもそも人間とも思えない、大きな差とでも言うべきものを感じさせる。漆黒の髪が、風もないのに少しだけなびくように揺れる。その顔には何とも言えない複雑な笑みをたたえていた。
「八重。お前、何故そんな姿をしている?」
光の言葉に、八重と呼ばれた少女はきょとんとして自分の姿を確認するように水面を覗き込んだ。ブラウスにベストにチェックスカートという高校の制服一式、うなじで束ねた長い髪、愛用のメガネ、少々気が強く見られがちのきつい眉と目つき。紛れもなく十七歳の八重の姿だ。彼女は顔を上げて穏やかに光に微笑みを返す。
「何かおかしいかしら。」
「ああおかしいさ。ここに来たお前は、そんな姿じゃ……高校生などではないんだからな。」
八重はふっと笑った。
「そんなこと、言われなくたって分かってるわ。」
その言葉が終わらぬうちに、彼女の身に変化が訪れた。髪のツヤは褪せ、ほんの少し口元や目尻が下がって、いつの間にか服装まで変化する。もはやそこに立っているのは怖いもの知らずの少女ではない。勢いは無くとも強かな大人の女性だった。
これが、ここへ来た八重の本当の姿。
「なんであの姿だったのか……無意識に選んでしまったようだけど、やっぱり高校生の頃が一番印象的だったからじゃないかしら。色々なことがあったもの。」
八重は長い髪を弄びながら、懐かしむように目を細める。同時に、挑むような目つきで光を見据えているようでもあった。
「本当に、いろんなものがいたわ。もちろん貴方と出会った時でもあるって、忘れちゃいないわよ。他にも、自分を『死神』だっていう女の子や、その子に惚れた無鉄砲な男もいた。挙句の果てには『死神』が転校生になってうちのクラスに来て……。こんなの、忘れられる訳ないでしょう?」
「お前だけだ、そんな事を覚えているのは。」
楽しそうな八重に、光は声に呆れたような調子をにじませつつも淡々と応じる。
「お前以外の人間にとっては『死神』なんていなかったんだからな。」
「そうね。蓮くんにとってもあの子は死神のトワなんかじゃなく、永久子ちゃんだものね。蓮くんは、全部忘れたまま生きる事を選んだ。これが彼らなりの『幸せ』なのよ、きっと。」
八重は言う。どこか、自分自身に言い聞かせているようでもある。
「何だ、納得していないような口ぶりだな。」
「ええ。私だったら、自分の記憶が欠けていることに納得なんかできない。知らないまま、ぬるま湯のような幸せに身を任せるくらいなら、幸せを棄ててでも全てを知りたいわ。それが私よ。なまじ中途半端に知っているのって、気持ち悪くて耐えられない。」
八重はそう言うと、肩を竦めてみせる光を見据えた。
「彼らの『幸せ』の筋書きを作ったのは、貴方でしょう?」
「……さあな。」
「はぐらかしたって無駄よ。私を誰だと思っているの? 貴方をただの人間だと思った事なんて、一瞬たりとも無いわ。貴方は人間でも、霊でも、妖怪の類でも、トワちゃん達のような死神でもない。流石の私でもそこまでしか分からないけど……これだけは分かるわ。あの時、あんなことが出来た存在は、貴方以外になかった。」
そう一方的に断言し、彼女は言葉を切った。光も黙っていた。だまってじっと八重の目を見つめ、八重もその視線を受けて見つめ返す。見つめ合っているのか睨み合っているのか、暫しの間、文字通り物音ひとつない沈黙が続く。風の音さえない。
その静寂を破ったのは光だった。
「やはり、お前は思ったとおりの奴だな。あの頃から俺の事に気付いていたか。」
「当然じゃない。」
満足そうな笑みを浮かべ、八重はふふっと笑う。そして悪戯っぽく言った。
「だけどね、光。貴方だって、あの頃私がそう思っていたこと、見抜いていたでしょう? そんなとこだけ鈍いんだなんて言わせないわよ。」
「さあな、どうだか。」
再度すっとぼけ、視線を背ける光の返事をどう受け取ったのか、八重はただ一つ肩を竦めて空を仰いだ。
「それにしても、貴方が人ではないことを知っている私と結婚するなんて、貴方も思い切ったことするわね。」
「人間じゃないと分かっているような相手に嫁ぐ女に言われたかないね。」
珍しくやや気分を害した様子で、光が言い返す。二人は顔を見合わせ、同時にふっと笑った。
「お互い様、って事ね。私がもし貴方の正体を人に話したり、貴方自身を問い詰めたりしたらどうするつもりだったの?」
「お前はそんな事しない。そうだろう?」
「どうかしら。気紛れだもの、分からないわよ。ある日突然ぶちまけたかも。」
少し真剣な目で言う八重に、光は黙ったまま不敵に笑った。
八重は不意に悟った。光の言葉は、信頼やら確信といったものとはわけが違う、純然たる「事実」なのだと。たとえ未来のことであろうと、彼はそう「知っていた」のだ。人ではない彼の正体故のことなのだろう。
「今なら、聞いてもいいかしら。」
「俺の事をか?」
そう言われてしまうと、素直に頷くのはなんだか癪だ。
「違うわ。蓮くんと永久子ちゃんのことよ。彼らはこれからどうなるのかしらと思ったの。」
「そんなの、俺が知るもんか。」
あっさりと一蹴されて、八重は驚いた。てっきり、さっきはぐらかしたのは図星だからだと思っていたのだ。
「お前はさっき俺が筋書きを書いたと言ったが、そんな力があるわけないだろう。神様でもあるまいし。俺はただ、あの娘に真っ白な『時間』を与えて放り出しただけだ。運命も何も決まっちゃいない。もともと、人間に決められているのは運命などではなく、時間だけなんだからな。」
「……そういうものなの。神様じゃないって言う割に、詳しいのね。」
「門前の小僧でな。」
光は何故か忌々しげに吐き捨てる。八重がさらに何か言おうとするのを遮り、彼は彼女に手を差し伸べた。
「じゃ、そろそろ行くか。」
「行くって、どこへ? 川の向こう岸?」
八重が尋ねると、光はにやりと笑った。
「いいや。お前、一度死んだぐらいで俺から離れられると思うなよ。人間の命は短すぎる。俺が飽きるまで、もう少しくらいは付き合ってもらわねえとな。」
八重はあっけにとられて光を見つめてしまった。しかしすぐににやりと笑い返し、差し出された手を掴んだ。
「望むところよ。」
本編から十数年後の話でした。




