ⅩⅡ ‘幸せ’
だいぶ涼しくなった風が吹き込んでくる窓際。陽子と歩美は、いつものようにお喋りに花を咲かせていた。
そこに入って来た、一学年上の二人の男子生徒。
「おっす、陽子ちゃん。楽しそうだね。」
「あ、爽太先輩! と、光先輩。」
声をかけられた陽子は顔を上げ、なんだか嬉しそうに二人の名を呼ぶ。二人が近付いていくと、陽子は当然のように爽太の腕に抱きついた。
「迎えに来てくれたの?」
「ああ、まあね。」
爽太は答えて、陽子の黒髪をくしゃっと撫でた。幸せそうに笑う。歩美はそれを眺め、ポツリと呟いた。
「いいなあ陽子。羨ましい。」
「そんなん言うなら歩美も誰かと付き合えばいいのに。その気になれば相手くらいすぐ見付かるでしょ。」
ちょうどその時そこを通りかかった由依が、歩美の言葉を聞きつけて言った。すごいセリフだが、口調は明らかに冗談のもの。続けて光が口を挟もうとしたが、歩美が首を横に振るのを見て口を閉じた。
「その気になればって、誰でもいい訳ないじゃない。」
不機嫌そうに、そしてどこか悲しそうに言う歩美。陽子が楽しそうに茶々を入れる。
「そうよねー。歩美、ずっと前から大本命はちゃんといるもん。ね。」
「陽子!」
歩美はとたんに真っ赤になって叫んだ。光だけは興味津々で尋ねる。
「へぇ、誰?」
「知ってるよ、うちのお兄ちゃんでしょ。」
呆れたような口調で由依が代わりに答える。押し黙って俯いた歩美の顔の赤さがそれを肯定していた。由依は、兄の顔を思い浮かべつつ軽く肩をすくめた。まったく、早苗といい歩美といい、あんなののどこがいいのかしら。由依にとって兄・蓮は、悪くないとは思うけど魅力なんて全く感じられない。まあ兄弟なんてそんなものかも知れないけど。
俯いていた歩美は、溜め息とともに吐き出すように呟いた。
「……無理だもん。蓮先輩、転校生と付き合ってるって噂だし。」
その噂なら、みんな知っていた。蓮たちのクラスに一人の女子生徒が転校してきて、もう二週間以上になるだろうか。夏休みもとうに終わった半端な時期だったこともあって、当初はかなり話題になった。今はもう本人も周囲もだいぶ馴染んできたが、そんな矢先にこの噂。普段からそういう浮いた噂の多い光と違って、蓮にこの手のゴシップは珍しい。
「転校生、永久子って言ったっけ。けっこう美人だよな。」
隣のクラスの爽太も、当然かなり詳しく知っている。陽子がむっとして彼の頬をつまんだ。
「爽太先輩、その女と話したことあるの?」
「ないよ。何だ、ヤキモチか?」
「そうじゃないけど……」
「心配すんな。俺にとっては陽子が一番かわいいよ。」
そんなバカップルの会話は無視して、光はとびっきりのスマイルで歩美の方にぐいと身を乗り出した。
「それなら俺と付き合えば? 歩美ちゃん。」
歩美は一瞬唖然としたが、三つ編みを揺らしてぷいとそっぽを向いた。
「お断りします。いっぱいいるガールフレンドの一人なんて、嫌ですもん。」
「見事にフラれたな。」
爽太がからかうように笑いかける。光が歩美にアタックするのはこれで何度目だろう。光は、わざとらしく陽子の肩を抱く爽太を恨むような目で見て、低く舌打ちする。
「ちっ、蓮も爽太もなんで俺よりモテるんだよー」
そんな光だってモテない訳ではない。軽くて女好きのように見えて、意外と誠実だし傷付けるような事は絶対にしない。ただ、どの女性にでも当り障りなく優しいから誤解されるだけだ。
談笑が続く中、一人だけ席の脇に立っていた由依は、ふと窓の外に見知った姿を見つけた。
(あ……、お兄ちゃん?)
校庭をゆっくり歩いて横切っていく蓮の後姿。彼が足を止めて振り返ると、それに一人の女子生徒が駆け寄った。蓮は優しく彼女の肩を抱く。そんな光景に、由依は一人、複雑な笑みをもらした。
「永久子、早く来いよ!」
「待ってよ、蓮。」
蓮は手を伸ばし、彼女の肩を抱いて引き寄せた。まだ新しい高校の制服に身を包んだ永久子の、真っ直ぐで艶やかな長い黒髪を、風が優しく揺らす。彼女は周囲の視線を感じて、少し顔を赤らめて俯いた。
「ねえ、蓮。ありがとう。」
「何だよ、急に。」
照れ隠しのように笑う彼を、はにかんで見つめた。
「改めて言いたかったの。あたしの命を助けてくれた事と、今こうして記憶のないあたしに優しくしてくれてる事に。本当に、感謝してる。」
「礼なんて言うなって。」
蓮は足も止めず、前を向いたまま笑う。よりいっそう、永久子の肩を強く抱き寄せた。
「君を助けたときの事……正直言って、何があったのかも、自分が何したのかもよく覚えてないんだ。でも、俺が自分の意思でそうしたってことは覚えてる。君に、助けてくれって頼まれた訳じゃない。」
「どうして……?」
永久子は背の高い蓮を見上げる。その笑顔に嘘がないことは、一目で分かった。けど、尋ねずにはいられなかった。
「どうして助けてくれたの? あたし、あの時より前のことを何も覚えてないからよく分からないけど、あたし達は知り合いでも何でもなかったんでしょ?」
「理由がなきゃ、危険な目に遭ってる人を助けちゃいけないのかよ。」
蓮は笑って、一瞬だけ言葉に詰まった永久子の髪をくしゃっと撫でた。
「でも、その所為であなたまで危ない目に……」
「それにな、俺たちは見ず知らずって訳じゃなかったんだぜ?」
言い返す永久子を強い調子で遮って言う。その言葉にきょとんとした彼女に笑いかけて、蓮は続けた。
「俺もちょいちょい記憶欠けてるからなぁ、はっきりとは言えないんだけど。俺は確かに、あの時より前に君に会ってるんだ。一度や二度じゃない。そして、その頃から、俺は君に惚れていた。」
「どうしてそう言い切れるの? はっきり覚えてないのに。」
「覚えてるんだよ。頭じゃなくて、心が。」
冷静に考えれば恥ずかしいようなセリフでそう断言して、永久子の顔を真っ直ぐに見つめる。彼女の顔に重なるようにして、蓮の脳裏に、一人の少女のイメージが浮かんだ。永久子と同じ長い黒髪。色白で整った、冷たいほど無表情な顔。いつも黒い服。そして、白い……。しかしはっきりと形を結ぶ前にイメージは掻き消え、もとの永久子の顔に戻る。見つめ合う格好だった蓮と永久子は急に恥ずかしくなって互いに目を逸らし、再び並んで歩き出した。
しばしの沈黙の後、蓮が独り言のように小さく呟いた。
「俺は今度こそお前を守るよ、トワ。たとえ、誰を敵にまわしたって。」
「あたしだって、あなたを守るわ。あたし、あなたに死んでほしくないの。」
呼応するように、永久子の口からもそんな言葉がこぼれる。
ちょうどその時、二人とすれ違った女子生徒がいた。彼女ははっとして足を止め、呼び止めた。
「蓮くん!」
「何? 八重。」
振り向いた蓮の、何も考えていないような穏やかな微笑み。自分が今何か言ったことにも気付いていないのではないか。八重をまだあまり知らない永久子は、少しだけ蓮の陰に隠れるように身を寄せた。やはり彼女も、何も気付いていない――。八重はすっかり何も言う気をなくして、ただ首を横に振った。去っていく二人を無言で見送る。小さく肩をすくめて立ち去ろうとすると、
そこに、白い翼と大鎌を持った、小柄な黒い天使の姿があった。
「あなたは……」
八重は何か言いかけて、彼女の目に寂しそうな色が浮かんでいるのを見て一度言葉を切った。
「……何か、知っているのね。トワちゃんのこと。」
無言で頷いた娘は、少し躊躇ってから口を開いた。
「あの子に、私たちの仲間だった時の記憶はない。私たちは感情に流されたら‘仕事’が出来なくなるから。あの子は人間として、限りある命として、ここで生きていくしかない。」
「……そう。」
八重はそれ以上何も言わなかった。知ったところで、二人に何が出来よう筈もない。娘は続けた。
「彼の方は……ただちょっとあの子や私に関する記憶が曖昧になっているだけ。一部はいつか思い出すかも知れないし、一生このままかも知れない。でも、これは本人次第。」
彼女は、言葉を切って八重を見た。まるで意見を求めるように。八重は、ゆっくりと、半ば独り言のように呟いた。
「全部忘れて、ただの人として生きる事が、本当に幸せなのかしらね。」
「私には分からない。きっと誰にも。知らないことは辛いかも知れないし、知ったらもっと辛いかも知れない。でも、たとえ真実を知った方が幸せだとしても、全ての真実を知らない私たちには何も出来ない。」
天使の答えに八重は少し微笑み、そっか、と呟いた。そして彼女をまっすぐ見つめ、親しげな、友人に言うような口調で尋ねた。
「あなたは、寂しくないの? トワちゃんと喋れなくなって。」
天使は驚いたように八重の顔を見る。そして、初めて少しだけ微笑んで答えた。
「人間的な言い方をすれば、そうね。」
Fin.