1話 シスターズ・フット
スレイ・イニゲスには九歳も齢の離れた姉がいる。
リディスと名付けられた彼女は、決して容姿に優れていたわけではなかったが、その要領の良さと母親譲りの明朗な性格を気に入られ、街の領主が息子の婚約者にと屋敷へ招くこととなる。
リディスは今年で二十五歳。世間からすれば多少婚期に遅れていたのだが、それには事情があった。
彼女が十三歳の時、母親とは死別したが、軍人で要職についているらしい父親は自宅に帰ってこようとはしなかった。
彼女は、まだ四歳という幼い弟と二人きりで生きていかねばならなくなったのだ。
(私がスレイを守らなきゃ。父親には、絶対に頼らない)
病に伏せる母親を長く目の前にしてきたのだから、リディスがそう決意することも仕方がないと言える。
だが子供たちだけで生きていけるほど、世間は甘くない。
リディスはスレイの小さな手を引き、煙のように消えてなくなった温もりを探しては、胸を撫でていく寂しさをぐっと耐えた。
幸いにも、なにかと世話を焼いていた叔父がそのまま二人を引き取り、面倒を見てくれることにはなったが、叔父は独り身とはいえ子ども二人を養うにはそれなりの金が必要になる。
「なぁに。俺だってそれなりに稼ぎはある。子どもが可愛げもなく、心配なんかすんじゃねぇよ」
叔父のアグルはそういって笑うのだが、リディスにとっては心苦しさが募った。
少しでも足しになればと、叔父に頼み込んで仕事を紹介してもらい、街の食堂で給仕見習いの仕事をもらったのだった。
まずはイモの皮むきや皿洗い、昼の開店前の準備といった雑用だったが、懸命に取り組んだ。スレイの成長を近くで見守りたいからと、許可をもらって仕事場に連れていくこともあった。
給仕の仕事を一緒に行う少女たちは他にもいたが、リディスはそのなかでも最年少で、食堂を切り盛りする中年夫婦をはじめとして、スレイともども可愛がられた。
「ほんとに偉いねぇ、リディスちゃんは。お母さんのことは残念だったけど、お父さんのように立派な人が父親だと、子どもも立派に育つのかねぇ」
ことあるごとにかけられる褒め言葉に、内心ムッとしながらも、リディスは「ありがとうございます」と頭を下げた。
この頃になると、英雄ともて囃される父親のニュース映像を見る機会が増えた。
黒霧と共に出現し、人類に牙を剥くビーストという謎の巨大生物。戦闘機も戦車も凌駕する力を見せつけるバケモノを、父親自身が開発したというドールズを操り、撃退したという。
髭を生やした偉そうなおじさんと握手を交わし、美人なニュース記者からマイクを向けられて、にこやかに答えてみせるその姿に、正直腹が立って仕方がなかった。
(お母さんはずっと寂しそうだった。咳が止まらなくて眠れずにいる夜も、ベッドから体を起こして窓の向こうを見てる時も、ずっと……)
「お父さんは、世のなかが良くなるように頑張って仕事をしてくれてるんだから。そりゃあ、もう少し家族のことも構ってほしいけど、あまり嫌いにならないであげてね。お父さん、昔からアレもコレもできるような、器用な人じゃなかったの」
(そう言ってお母さんは微笑んで、まだ何も分かってなさそうなスレイの赤毛の頭と、私の頭を撫でてくれたけど。それでも、私はあの人が嫌いだ。どうしてお母さんばかり、辛い思いをしなきゃいけないの)
それよりも強く印象に残ったのは、ニュース映像が伝えるビーストの恐怖だった。
戦場からは程遠い街だから、実際に見たことがあるわけではない。
それでも、紫色の甲殻を纏って四枚の翼で羽ばたく姿や、戦車を簡単に蹴散らしてしまう様は心に深い恐怖心を植え付けるに十分だ。
あんなものと父親が戦っている。他の軍人と同じく、いつ戦死の報せが届けられるともしれないという事実に、背筋が凍った。
父親がそうなるかもしれない。それ以上に恐れたのは、スレイがどうやらその父親に憧れを抱いているということ。
父親を見習って、自分も軍人になる。ドールズに乗り、あのバケモノと戦う。
言い出すまではないにしろ、十歳になったスレイはアグルに教わって、機械いじりに精を出すようになった。
アグルは訳あって軍を退役したようだが、元々はドールズの原型となった、オペレーション・トラクターと呼ばれる特殊機械の開発に携わっていたと聞く。スレイも父親の血を受け継いだのか、手先が器用でアグルも技術を教え込むのが楽しいらしい。
アグルの愛弟子として充実した日々を過ごすところに水を差すようだが、軍人だけにはなってほしくない。そう伝えるリディスに、スレイは「分かってる」と頷いたが、口先だけだということはすぐに分かった。
それから、あっという間に月日が流れる。
成長したリディスは食堂経営に必要な人材となっていた。店主夫婦をよく助け、給仕見習いを含めた人員の取りまとめ役となり、調理の補助だけでなく、メニューによっては仕込みから仕上げまで任されるほどだ。
器量良しの嫁欲しさに縁談が持ちかけられることも多かったが、リディスはその悉くを断っていた。成長したとはいえ、スレイはまだまだ子ども。一人前となるその日まで私が守らなくてはと、そればかり考えていたからだ。
しかしそれが原因で、スレイと口論になる回数も増えた。
あれこれと世話を焼いてあげることが、彼にとっては煩わしいらしい。
「もうやめてくれよ姉ちゃん! 俺だって、もう十四になったんだ。いつまでも子供じゃないんからさ!」
そう言ってさっさとアグルの家を出て、仕事の現場へと向かっていく背中を、リディスは呆然と見送るしかできなかった。
スレイを思えばこそなのに。どうしてわかってくれないんだろう。
不満とも寂しいともまた違う、妙に胸にひっかかるような感情に、リディスは立ち尽くすしかできなかった。
(一人前に、してあげたいだけなのに……)
スレイが一人前となる線引きをどこに置くか。リディスは深く考えてはいなかった。
昔からの誓いを果たそうと懸命に走ってきたこともあったし、母親の遺言を守ってきたからでもあったが、なによりもスレイを子ども扱いしていたのもまた、リディス本人だったのである。
彼女自身がそれを自覚したのは、仕事に関しては妥協しないアグルが、スレイが担当した作業を認めたからだった。
「いい仕事をしたな。これなら、一人前と名乗っても良いだろう」
飛び跳ねて喜ぶ姿はまだ子供のようだが、スレイはしっかりと成長している。いつまでも、手を引かれているだけの幼子ではない。
(私の方が、あの子に依存していたのかもしれない……)
ふ、と心に浮かんだその考えは、妙に胸に落ち着いた。同時に、自分自身はどうだ、と疑問を抱く。
(私はしっかりと成長できているだろうか。あの子に負けないくらい、恥ずかしくないくらいに)
任される仕事は増えていたし、責任も増している。そういう意味では、成長したのかもしれないが、自分自身の内側、心の方ははたしてどうか。
両親に代わって、スレイを立派に育て上げる。そればかり考えていることを理由にしてはいないだろうか。
——大切にしている人が自分の為に無理をするなんて、お母さんには耐えられない。お父さんは、全部わかったうえで、それでも家族の為に家を出たのよ。
リディスだって、スレイが自分の為に無理をするのは嫌でしょう? もし、それとは反対に、スレイから見た時に、自分のせいでお姉ちゃんが無理してると思ったら……きっと、そんなことしないでって、怒るんじゃないかしら——。
遠くから、懐かしい母親の声が聞こえた気がした。
(……いつまでも、心配させるお姉ちゃんじゃ、いられないものね)
それからまた少し月日が経ち、リディスは領主の息子との婚姻が決まる。
次期領主として悩む彼の言葉を聞き、励まし続けた結果であり、最初は渋い顔をしていた領主も、相手が英雄グレッサ・イニゲスの娘だと知ってからは満面の笑みで迎え入れたのだった。
アグルの家を出て、領主の妻としての姿を学ぶべく領主の屋敷で生活を始めたリディスとスレイは、違う時間を歩み始めていた。少なくとも、リディスの方はそう感じていた。
顔を見る機会もめっきり減ってしまったことを嘆かないわけがなかったが、領主や夫となるその息子の話から時々聞かれる、機械関係のなんでも屋としてのスレイの話が、彼女にとって大きな喜びとなっていた。
家族が元気でいる報せ。
勿論、これから新しく作り上げていく家庭を蔑ろにするつもりはないし、夫もかけがえのない存在だ。
だがそれでも、スレイだけは程度が違う。いつまでも続いてほしいと祈らずにはいられないものなのだ。
(……あの人も、そうだったのかしら)
十八年ものあいだ姿を見せない父親の姿が思い出され、屋敷の自室に設えられた、大きな窓枠に手をかける。窓の向こう側に広がる空には夕闇が迫っていた。
街のほぼ中央に建てられているから、住人の喧騒はここまで聞こえてくる。風に乗って聞こえる活気は、いつもなら耳障りにも感じるのだが今日は少し違って、意識の外側に置かれたかのようにぼんやりとしている。
「……お父さんも、同じだった?」
つい口に出てしまった『お父さん』という言葉に驚いて口元を両手で押さえながら、父親の姿に紐づく苦い思いが湧いてこないことを、リディスはさらに驚いていた。
(……式くらい、呼んであげようかな。忙しくて無理かもしれないけど)
ふふ、と嬉しさを隠しきれない子供のような自分の笑い声が、急なサイレンの音に掻き消される。
何事だろうと慌てて廊下に出ると、迎えに来てくれたらしい未来の夫と鉢合った。
「一大事だ。軍が仕留め損ねたビーストが一匹、迷い込んだらしい。もうすぐ街にやってくる! 住民を避難させないと……!」
リディスは頷き、夫の背に続いて廊下を駆け抜けていく。
(……無事にまた会えると信じてるからね、スレイ)




