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「完結済」「記録しか取り柄がない」と婚約破棄されたので、引き継ぎ書類だけ置いて静かに去りました  作者: 夢見叶
第2章 辺境書庫の迷宮とお茶

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第9話 湯気の向こうで耳が赤いわけ

 蜂蜜が、また増えていた。


 書庫の小卓に置かれた白磁の壺の口を見た瞬間、わたしはそう判断した。昨日より明らかに多い。底から3センチほどだったものが、今朝は5センチになっている。誰かが夜のうちに足した。あるいは、誰かが「足せ」と言った。


 ロイドが書庫の入口で帳面を確認している。わたしは声をかけた。


「蜂蜜の量を、どなたが決めていますか」


 執事の手が一瞬だけ止まった。


「わたくしが担当しております」


「毎朝変わっていますね。昨日より増えました」


「最適な量を模索中です」


「……誰かに指示されていますか」


 3秒の間があった。ロイドは帳面を胸に抱え直した。


「かしこまりました、は省略してよろしいですか」


 それは答えではなかった。だがわたしも、それ以上は追わなかった。事実だけを確認する。記録帳の余白に、「蜂蜜:昨日の約1.5倍」と書き留めた。説明は入れない。数字だけが正直だ。


 これで来領4日目の朝だった。




 30分後、レオンハルト閣下が書庫に入ってきた。


 足音が重くはない。静かに、でも確かに存在する音だ。わたしは索引札の整理を続けながら、背後の気配を確認した。閣下は直接こちらに来ることはしない。必ず古棚の方を回り、それから小卓の近くを通る。4日間、同じ順番だった。


 今日も同じだった。


 古棚で足が止まる。何かを確認する気配。それから、ゆっくりとした足音。


 小卓のそばで、音が消えた。


 気配だけがあった。長い。


 わたしはカップを持ち上げ、お茶を一口飲んだ。甘かった。思った以上に甘かった。うっかり表情が動きそうになって、わたしはそれを顎の力で止めた。感情を顔に出さない習慣は、王宮にいた頃から叩き込まれている。


「……」


 閣下は何も言わなかった。小卓の前で止まったまま、気配だけがあった。


 怒っているのか、とわたしはまた考えた。来領1日目からそう思っている。視線の圧がある。言葉が少ない。感情が読めない。


 振り返った。


 閣下が、窓の外を向いた。一瞬だった。わたしが顔を上げる気配を感じた瞬間に、視線を逸らした。


 耳が赤かった。


 銀灰色の髪の端から覗く耳が、かすかに赤くなっていた。


 わたしは動作を止めた。索引札を持ったまま、1秒、それを見た。


 怒り、ではない。


 4日間、この圧を怒りだと分類していた。値踏みか、監視か、どちらにしても向けられた目の冷たさを、そう処理してきた。だが赤い耳は、そのどちらとも合わなかった。感情の計算が、一つ、はずれた音を立てた。


「怒っているのですか」


 声が出ていた。確認のつもりだった。


「……違う。気にするな」


 窓の外を向いたまま、低い声だった。


「気にするな、と言われましても」


 わたしは索引札を机に置いた。


「記録します」


「……何を」


「怒りではない、という事実を」


 閣下の背中が、少し動いた。何か言いかけたように見えた。


「……俺の顔色まで記録するな」


「記録は視認可能な事実に基づきます」


「やめろ」


「承知いたしました」


 わたしは記録帳を閉じた。書くべき内容が確定していなかったからだ。怒りではないは事実だとして、では何なのか。それが決まらないと、記録が不完全になる。


 閣下が、小卓のカップを一度だけ動かした。わずかに、位置を直した。


 胸の奥で何かが揺れた。凪いでいたはずのものが、一瞬だけ、波打った。


 波がおさまるまで、わたしは索引札を揃えた。揃えることに意味はない。ただ手を動かすと、呼吸が整う。




 午後、鍵の整理に付き合ってほしいと閣下から言われた。命令ではなく、ひどく短い申し出の形だった。書庫の通路の奥、目録外の区画だという。


 鍵束は重かった。持ち上げると、金属の音が静かな通路に響いた。1本ずつ確認すると、28本あった。鍵穴の形から対応棚を類推できるものは23本。残り5本は、目録の現時点のどの区画にも合わない。


「この5本の対応先が、お分かりですか」


 閣下は5本を取り出し、しばらく眺めた後「分からない」と言った。


「棚ごと廃棄されたか、前任の管理者が把握していなかったか、どちらかだ」


「では、目録に対応先不明(28本中5本)として登録します」


 閣下がわずかに眉を動かした。


「残すのか」


「存在するものは、不明であっても記録します。消すと、後で困ります」


 静かな間があった。


「……そうしろ」


 わたしは記録帳を開き、番号を振り、5本の形状を写した。後で誰かが照合できるように、鍵穴の歯形も書き写した。


 目録を閉じようとしたとき、前の頁が開いた。前任の担当者が作った区画一覧だ。そこに、空白があった。


 行が1行、白く抜けていた。


 書き損じではない。前後の行との紙の触り心地が違う。指の腹で確認すると、薄く線の跡が残っている。消したのではなく、最初から書かなかった。あるいは書いてから、切り取った。


「閣下」


 閣下が隣に来た。距離が近かった。外套に、枯れた紙の匂いがした。古書の匂いと少し似ている。


「10頁目の3行目です。前後と紙の質が違います。書き漏らしではなく、意図的な空白に見えます」


 閣下が目録を受け取り、光に透かした。


 無言だった。


 この無言が、朝のものと違った。戸惑いでも照れでもない。何かを確認するときの静けさだった。答えを探しているのではなく、すでに知っている人間の静けさに近い。


「記録しておけ」


「理由も、書きますか」


「……理由は、まだ分からない」


「承知いたしました。理由未特定として記録します」


 閣下が目録を戻した。わたしは「空白:理由未特定。10頁目3行目。紙質に異同あり」と書いた。分からないことは分からないと残す。それだけでいい。




 夕方、わたしは小机に灯りをつけて記録帳を広げた。


 今日の記録を順番に書いていく。蜂蜜の量。鍵28本の内訳。目録の空白。閣下の耳の色は書かなかった。視認可能な事実ではあるが、記録の目的に照らして、今は保留にした。


 ロイドが新しい茶葉の袋を持ってきた。


「本日の茶葉でございます。昨日と変えてみました」


 カップに注いで、一口飲んだ。


「……昨日と同じ香りです」


「そうでしょうか」


 真顔だった。一切疑っていない目だった。全力でそう思っている目だった。わたしはロイドを一度見て、記録帳に戻った。


「ありがとうございます」


 余白の小さなスペースに、「蜂蜜:多め」とだけ書いた。茶葉については書かなかった。


 ロイドが部屋を出ていく。足音が遠ざかって、書庫が静かになった。


 目録の空白のことを考えた。不明な鍵5本のことを考えた。


 それから、廊下で見た束のことを思い出した。


 2日前、閣下が封書の束を受け取る場面に偶然居合わせた。ロイドが両手で抱えて差し出した束の、一番上の封に、赤い文字が見えた気がした。日付か、数字か、期限を示す何かのように見えた。


 閣下は封を切らなかった。束を受け取り、机の端に置いた。「読む順番を決める」と言った。それだけ言った。


 赤い文字が、頭の中に残っている。


 空白の目録、不明の鍵、封を切らない束。それぞれが繋がるかどうか、まだわからない。でも、何かが欠けているのは確かだった。欠けたものが偶然なのか、そうでないのかも。


 灯りが揺れた。


 「朝の方が――」


 今日の朝、声が背後でした。振り返ったら、閣下はすでに窓の外を向いていた。何を言いかけたのか、続きが聞こえなかった。


 仕事の話だろうか。書庫の効率の話か。あるいは、もっと別の何かか。


 胸の奥の凪が、また一度だけ揺れた。


 今度は、少し長かった。


 揃えられない感情を、わたしは索引札の束を手に取って静めた。明日の朝、もう一度あの5本の鍵を確認しようと決めながら、続きの言葉を、誰かがいつか言ってくれることを、凪の底のどこかで、まだ待っていた。


読んでいただき、ありがとうございます。


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