第10話 頁の欠けと、言葉の欠け
その朝、書庫に最初にいたのは、わたしではなかった。
石畳の廊下を進んで扉を引いた瞬間、灯りが既に入っていた。窓際の一本だけ、揺れていた。
「……閣下?」
振り返ったレオンハルト公爵の顔に、驚きの色はなかった。まるで、来ることが分かっていたかのように、棚の前に立っていた。銀灰色の髪が、朝の光の手前で少しだけ白んで見えた。
「早い」
「閣下の方が早いです」
「……そうか」
それだけで会話が終わり、彼は棚に視線を戻した。わたしは手提げを卓に置いて、記録帳を広げる。昨夜続きにしておいた目録の、欠落確認の頁。
沈黙が、妙に温かかった。
それが不思議で、わたしは少し困った。
「朝の方が……」
彼が口を開いたのは、わたしが3行目の確認を終えたときだった。声が低くて、独り言のようだった。
「何ですか」
振り返ると、彼の耳の先が赤い。9話の蜂蜜の件以来、そうなることは知っていた。でも今日は、蜂蜜は出ていない。
「……静かだからだ」
言い逃げ、という言葉が頭に浮かんだ。でも続きを問い返す気にはなれなかった。なれなかった、というより――問い返したら、何かが崩れる気がした。
わたしは記録帳に目を落として、4行目を書いた。手が少し、揺れた。
目録外の本は、奥棚の3列目にまとめて積まれていた。
「重い」とわたしが言うより先に、彼が隣に来て下の束を持ち上げた。
「鍵、使いますか」と問うと、彼は黙って帯革から鍵束を外してわたしに渡した。金属の冷たさが指に伝わる。10個ほどの鍵が、触れ合って音を立てた。
「奥の棚、管理者権限の鍵がなければ開かない」
「分かりました。……どれですか」
彼の指が伸びて、1番端の鍵の頭を押さえた。それだけで教えてくれた。言葉ではなく、指先で。
わたしは頷いて、鍵束を握り直した。冷たさが、少しだけ温かくなっていた。
作業机の上に、目録外の本を7冊並べた。
虫害の痕は明らかだった。革表紙の端が食われ、内頁の角が茶色くなっている。でも、それだけではなかった。
「閣下」
声が、少し硬くなった。
「何だ」
「頁が無いのではありません」
6冊目を開いたとき、確信した。虫害で消えた跡と、手で破いた跡は、違う。虫食いは端から溶けるように消える。でもこの欠けは、折り目が鋭い。意図的に、誰かが引き剥がした痕だ。
「……無くされたみたいです」
彼の顎の線が、少し固くなるのが分かった。
「確認できるか」
「この剥がれ方を記録します。照合すれば、時期の目安は出ます」
わたしが記録帳に書き始めると、彼が机の端から封蝋の欠片を取り出した。目録に載っていなかった本から落ちた、あの二重印の欠片だ。布に包んで保管されていたことは知っていた。でも今、彼はその布の端を、ほんの一瞬、指で押さえた。
押さえて、何も言わなかった。
わたしも何も言わなかった。
ただ、その指の止まり方が気になって、記録の手が一字、乱れた。
照合を続けようとしたとき、廊下から足音がした。
「セレスティーヌ様」
ロイドが扉の前に立っていた。いつもの落ち着いた顔で、でも少しだけ声のトーンが下がっていた。
「閣下より、本日以降は書庫の奥棚調査に際して、同席者を設けるようにと」
わたしは記録帳を閉じた。
「護衛、ということですか」
「安全の確認です」
ロイドが正直な人だということは、この数日で分かっていた。だから、今の答えが全部ではないことも分かった。
安全の確認。護衛。同席。
その言葉が、胸の奥でひとつの形になった瞬間、息が詰まった。
――また、縛られる。
その言葉が頭に浮かんで、わたしはすぐに打ち消そうとした。閣下の意図は分かっている。奥棚は暗い。頁が無くされているなら、この書庫に何かが潜んでいる可能性もある。それは正しい判断だ。
でも、正しいことと、体が納得することは、別だった。
「……承知いたしました」
声は出た。平らに出た。
ロイドが一礼して廊下に戻る。わたしは扉が閉まるまで見ていて、それから奥棚の方向を向いた。
背表紙が、並んでいた。
指を伸ばして、1冊の背を撫でた。革の凹凸。経年の固さ。いつも通りの感触が、少しだけ息を戻してくれた。
縛られるのではない。
守られているのだ。
そう言い聞かせながら、呼吸を整えた。でも完全には納得できなかった。
記録帳に戻ったとき、レオンハルトはまだ机の横に立っていた。
わたしが座り直すと、彼はカップを一つ卓に置いた。いつの間に用意していたのか、湯気が立っている。
「ありがとうございます」
彼は答えなかった。代わりに、空になった自分のカップをそっと机の端に置いた。
置いて、少しずれたのか、直した。
また少しずれたと思ったのか、もう一度直した。
3回目に直したとき、わたしは気づいた。カップは最初から、正確な位置に置かれていた。
彼はただ、何かをしていないといけない手を、持て余していた。
わたしは視線を記録帳に戻して、今日の欠落の記録を続けた。
頁の欠けを、言葉にして埋めていく。
でも言葉にできないことは、記録帳には入れられない。
朝の方が、と彼が言いかけた言葉の続き。
布の端に指を止めた、その意味。
3回直されたカップが示すもの。
全部、記録しないまま、わたしはペンを動かし続けた。
そのとき、彼が口を開いた。
「……セレスティーヌ」
名前だった。
役職でも、敬称でも、指示でもなく、わたしの名前だった。
息が、止まった。
「閣下」
「今日は、ここまでにしろ」
それだけだった。
それだけのはずだったのに、わたしは少しの間、次の言葉が出なかった。
彼は視線を棚に向けていた。耳が、また赤かった。
わたしは記録帳を閉じた。
今日分かったこと――頁は虫害ではなく、意図的に取られた。欠片の二重印は、誰かが隠したかった証拠に繋がるかもしれない。護衛の同席は、明日から始まる。
全部、書いた。
書けなかったことは、1つだけだった。
彼は今日、初めてわたしを、役職ではなく――
続きを飲み込んで、わたしは記録帳を棚に戻した。
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