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「完結済」「記録しか取り柄がない」と婚約破棄されたので、引き継ぎ書類だけ置いて静かに去りました  作者: 夢見叶
第2章 辺境書庫の迷宮とお茶

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第8話 税の帳簿が示す欠け

 領政庁の控えに足を踏み入れた瞬間、まず臭いが来た。


 黴と、埃と、古い羊皮紙が重なった空気。その奥に、何か甘いものが腐りかけたような匂いが混じっている。封蝋だ、と気づいたのは、机の上の山がただの書類の積み重ねではないと分かってからだった。


 帳簿が、床まで溢れていた。


「……何年分ですか」


 傍らのロイドが、静かに答えた。


「確認中です。現段階では、7年分と推測しております」


 控えを管理する担当者の顔が青い。三十代ほどの男で、手に持ったままの帳簿が小さく震えている。怠慢ではないのだろう、と私は判断した。怠慢なら顔は赤くなる。青いのは、自分でも手が付けられないと分かっている人間の顔だ。


「始めます」


 私は外套の留め具を外し、作業机の端に畳んで置いた。




 最初の1時間で、構造が見えた。


 問題は量ではない。順番だった。税の徴収記録と支払い記録が、年度ごとではなく担当者の交代ごとに束ねられている。前任者のやり方を引き継がず、それぞれが「自分のやりやすい順」で並べ替えた結果、3つの帳簿系統が縦横無尽に絡み合っている。数字は合っている。でも、どの数字がどの取引に対応するか、参照できない構造になっていた。


「参照札を作ります。年度・徴収区・担当者名の3軸で」


 いつの間にか隣に来ていたレオンハルト閣下が、私の手元を見ていた。


 声をかけてきたわけではない。ただ、机の前に立って、私が索引の骨格を羊皮紙に書き出すのを眺めていた。視線の圧はある。でもそれは値踏みではなかった。もっと静かな何かだった。


「数字は嘘をつけます」


 私は顔を上げずに言った。


「でも順番は嘘をつきません。どの帳簿が先に書かれ、どの帳簿が後から来たか、紙の黄ばみと封蝋の劣化の度合いを突き合わせれば、並べ直せます」


 閣下は何も言わなかった。


 私は続けた。


「欠落は3箇所です。4年前の徴収第2期、6年前の越冬備蓄分、それから直近の期。最後のひとつは意図的に省かれています。紙の束の端が、揃いすぎている」


 沈黙が、一拍伸びた。


「……そうか」


 それだけだった。でも、声の質が違った。




 廊下に出たのは、昼を少し回った頃だった。


 担当者に参照札の運用方法を伝え、欠落3箇所の原本照合を依頼して、私は控えの外に出た。手の甲にインクが滲んでいる。外套の袖で拭いかけて、止めた。どうせまた汚れる。


 廊下の角で、レオンハルト閣下が待っていた。


 待っていた、という表現が正しいかどうかは分からない。ただ、そこに立っていた。


 無言で、何かを差し出された。


 紋章が刻まれた、小さな金属の札だった。


「……これ、重いですね」


 思ったより重かった。片手に乗せると、ずしりと中心に重みが来る。


「軽く扱うな」


 閣下の声は低く、短かった。視線が一瞬だけ私の手元に落ちて、それからまっすぐ前を向いた。


 通行札だ、と気づいたのは少し遅れてからだった。城内の、施錠区画を含む全域への。


 これを渡される意味が分かった瞬間、胸の中で何かが静かに動いた。疑われている側ではなく、守られる側に置かれた、ということだ。臨時の外来者ではなく、領の流れに触れていい者として。


 言葉にするには大げさすぎる。でも、確かに何かが、動いた。




 書庫に戻ったのは夕方近かった。


 通行札があれば古棚の区画にも入れる。私は迷宮書庫の奥、目録に番号が振られていない棚の前に立った。虫害の匂いが強い。乾いた革と、何かが蒸れた甘さが混じっている。棚の一番下の段、横倒しになったままの一冊に手を伸ばした。


 表紙に番号がない。背表紙にも、整理の跡がない。


 誰かが、目録に載せなかった本だ。


 頁を開いた瞬間、小さな何かが膝の上に落ちた。


 反射的に手を伸ばす。


 封蝋の欠片だった。


 片手の爪ほどの大きさで、赤みがかった茶色。割れた断面が、刃物ではなく、剥がれるように折れた形をしている。古い封書から落ちた残滓だろう。よくあることだ。


 でも、私の指が止まったのは、紋様のせいだった。


 二重になっていた。


 外側の輪と、内側の輪。異なる印が重なるように刻まれている。片方は見覚えがあった。でも、もう片方は――


「セレスティーヌ様」


 背後からロイドの声がした。


「少し冷えてまいりました。お茶をお持ちしましたが……」一瞬の間があった。「ちなみに、税の帳簿も茶葉も、似た香りにすると安心する方もおられます。今日は蜂蜜を少し多めに」


 私はゆっくりと振り返らずに、欠片を小さな布に包んだ。


「……ありがとうございます」


 返事は真顔で来るのだろうと分かっていたので、私は笑いそうになった喉の奥を、一度だけ静かに鳴らした。


 封蝋の欠片は、手の中で思ったより重かった。




 記録帳を開き、今日の作業の末尾にひとつ書き加えた。


 「目録外の棚、虫害区画。頁の間より欠片1個、二重紋。保管。」


 それだけ書いて、羽根ペンを置いた。


 蜂蜜の香りが、湯気と一緒に漂ってくる。明日は参照札の検証と、欠落した帳簿原本の照合が待っている。


 でも今は、この欠片のことを考えていた。


 二重の紋が、何を意味するのかを。




 翌朝、書庫に早く来た。


 閣下が先にいた。


 湯気の向こうで、閣下の耳だけが、わずかに赤かった。


 怒り、ではない気がした。でも、違うとも言い切れない。そもそも私には、あの人の顔色を正確に読む方法がまだ分からない。


 だから私は記録帳を開いて、昨日の続きに集中することにした。


 蜂蜜の香りが、また少し強くなっていた。

読んでいただき、ありがとうございます。


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