第7話 迷宮の入口で、羽根ペンを渡されて
城門をくぐった瞬間、石畳の冷たさが靴底から這い上がってきた。
「フォルセット様。お荷物の確認を」
先を歩く執事、ロイドが振り返る。声も動作も過不足がない。王宮の侍従とは違う質の有能さだ、とわたしは思った。領地の人間は、装飾ではなく機能で動いている。
荷は革鞄ひとつ。着替えと記録帳と、羽根ペンが3本。身辺を片付けた日から使えるものだけを手元に残してきたので、確認に5秒もかからなかった。
「問題ありません」
「では、書庫へご案内します。……その前に、一点だけ」
ロイドが立ち止まり、薄い紙を差し出した。通行証――城内の区画ごとに管理番号が振られている。王宮で見慣れた形式より、欄が多い。閲覧記録まで連動する設計だ。
「書庫の管理規定です。入室前に確認を」
目を通す。目録、鍵、閲覧記録簿。三点でしっかり管理されている。ただし、目録の更新日に斜線が引いてある箇所が多い。最後の記帳は――2年前。
背中に何かが走った。焦りに似た、でも少し違う感覚。書庫が、止まっている。
「案内をお願いします」
声が落ち着いているか確認してから、わたしは歩き出した。
書庫は城の最も古い棟にあった。
扉を開けた瞬間、紙と黴の混じった匂いが押し寄せる。嫌いではない。これは「放置された」匂いではなく、「量が多すぎた」匂いだ。整理の手が届かなかっただけで、本は傷んでいない。それだけで少し息が楽になる。
だが、次の瞬間に目に入ったものに、足が止まった。
通路の両側に積まれた書類の山。床まで届く棚は番号順どころか、大きさ順に積んである。背表紙が内側を向いているものが半数、題名が剥げているものが3割。そして棚の最奥、木枠だけになった区画に、誰かが諦めたように書類を押し込んだ形跡。
「……」
奥に人が立っていた。
長身。銀灰色の髪が灯りの下で静かに光っている。手は後ろに組まれ、こちらを見ているのかどうか、表情ではわからない。ただ、わたしが入ってきた時から動いていない。
辺境公爵、レオンハルト・フォン・ヴァイスガルト。
求人欄を見つけたのは3週間前だ。王都の新聞、隅の隅。太字の一語が目に入った。
――根気のある者。
炎華も要らない、華やかな魔法も要らない。根気だけ。そう書いてある求人に、わたしは羽根ペンを止めた。
彼は今も無言で、机を指差した。
机の上に書類の束が置いてある。乱雑ではなく、ただ、「誰も整理の仕方を知らなかった」積み方だ。王宮書庫でも見た光景だが、規模が違う。
わたしは革鞄を下ろし、手袋を外した。
ロイドが新しい書類束を抱えて机に近づいてくる。歩くたびに慎重に、一段一段確かめるように。よほど崩したくないらしい。
その書類の背表紙が、入口の棚と同じく向きが揃っていなかった。
わたしは声を出さず、手だけ伸ばした。ロイドの腕から受け取り、背表紙だけ前向きに直して机に置く。それだけ。
ロイドが目を丸くするのが視界の端に見えた。
レオンハルトの視線が、わずかに動いた気がした。
わたしは机の正面に立ち、書類を手に取った。年代順、区画順、人名順――どの軸でも整理しようとした跡がある。でも、途中でそれぞれが違う。引き継ぎのたびに軸が変わり、それぞれが「今の自分の整理」をしたから、全体がつながらない。
頭の中で、記録が走る。
番号の欠け、重複、空白。索引の骨格さえ作れば、あとは埋めていける。難しくはない。ただ、時間はかかる。
わたしは羽根ペンを取り出し、手元の紙に書き始めた。
「……何をしている」
初めて声が来た。低い。質問というより、確認の形をした言葉。
わたしは顔を上げた。
「分類の骨格です。今から書庫全体に番号を振る前に、軸を1本決めます」
「面接だと思っていたが」
「そうなんですか」
わたしは少し考えてから、続けた。
「でしたら、質問は1つだけです」
目を合わせる。深い紺の瞳が、わたしを見ている。値踏みではない、と思った。もう少し別の、時間をかけた色をしている。
「この書庫、止めたいんですか。動かしたいんですか」
沈黙が落ちた。
ロイドが息を呑む気配がした。
レオンハルトは3秒ほど黙っていた。その3秒で、わたしの背に汗が一筋流れた。失礼だったかもしれない。雇ってもらう前から診断を始めるのは、傲慢に映ったかもしれない。
でも、嘘はつけない。書庫がここまで崩れているなら、「動かしたい」かどうかを最初に聞かなければならない。止めたいなら、わたしがすることは記録だけだ。動かしたいなら、再設計が要る。
そのどちらかで、仕事の全部が変わる。
「……動かす」
短い答えだった。
わたしは頷いて、ペンを動かした。
小さな給仕室は書庫の奥にあった。棚の陰に隠れるように扉があって、入ると木の椅子が2脚と小卓だけ。窓もない。でも、そこに白い湯気が立っていた。
いつの間に、とわたしが考える前に、ロイドが無言で茶杯を置いた。
レオンハルトが向かいの椅子を引いて、座る。採用の言葉は何も言われなかった。雇用の書類も出てこない。ただ、お茶が出た。
温かかった。
わたしは思った。王宮でも辺境でも、お茶が出るということは、少なくとも「出ていってくれ」ではないということだ。
「……根気、だったな」
ぽつりと、彼が言った。
意味がわからなかった。でも、確認しなかった。なんとなく、聞いてはいけない気がした。
「採用の言葉はいりません」
わたしは茶杯に手を添えながら、続けた。
「机と鍵をください。結果で返します」
レオンハルトが、わずかに目を細めた。怒りではない。もっと静かな、奥の方の何かが動いたような顔だった。
返事はなかった。
でも、翌朝、机の上に鍵束が置いてあった。
夜、記録帳を開きながら、わたしは今日を整理した。
書庫の規模。軸の欠如。2年の空白。骨格さえ作れば動く。鍵の位置。目録の癖。
ペンが止まった。
「根気、だったな」という言葉が、もう一度頭の中を通り過ぎた。
求人欄の太字は、偶然ではないかもしれない。そう思ったけれど、今夜の記録帳にそれは書かなかった。確かめる前に書くのは、記録ではない。
翌朝、最初にするべきことはわかっていた。
税の帳簿が「読めない形」で積まれているという。最初に止まるのは、どこだろう。
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