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「完結済」「記録しか取り柄がない」と婚約破棄されたので、引き継ぎ書類だけ置いて静かに去りました  作者: 夢見叶
第1章 婚約破棄と72巻

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第6話 根気だけを条件にする人が、いる

 父からの二通目が届いたのは、夜明け前だった。


 封蝋を割る音がやけに大きく聞こえた。燭台の明かりが揺れて、羊皮紙の文字に影を落とす。手紙は短かった。父の手紙はいつも短い。言葉より圧の方が重い。


 ――戻ってきなさい。次の話を進める。


 それだけだった。


 次の話。その四文字が、胃の底に沈んでいく。わたくしは手紙をそっと机に置いた。次の婚約、という意味だと、理解している。理解した上で、今夜は眠れなかった。


 父は間違っていない。伯爵家の娘として、傷を受けた後に戻って次の縁談へ進むのは、正しい手順だ。


 でも。


 わたくしの指が、机の端に触れた。そこには折り畳んだ紙が一枚、昨夜から置いたままになっている。王都の新聞から切り抜いた、求人欄の一節。


 ヴァイスガルト辺境公爵領。古文書整理・書庫管理補佐。根気のある者、求む。


 もう何度読んだかわからない。文字の形まで憶えてしまった。


 太字になっている部分が、ひっかかっている。「根気のある者」という一文だけが、周りの活字より墨がわずかに濃い。刷り直したのか、後から書き足したのか。それとも、たまたまそこだけインクが乗りすぎただけなのか。


 理由は分からない。分からないのに、指が止まる。


 羊皮紙の繊維の凸凹を、爪の先でなぞる。この感触はどこかで知っている。書庫の索引札を揃えるときの、あの感触に似ている。背表紙を撫でるときの、落ち着く感じ。


 それが、答えだった。


 わたくしは父の手紙を畳んで、もう一度封の中に入れた。返事は書かない。書いたら、それが正式な記録になってしまう。


 代わりに、求人欄の切り抜きを懐にしまった。




 荷造りは一時間で終わった。


 王宮で5年間暮らした割には、荷物が少ない。着替えと、書庫用の手袋が3組と、羽根ペンの替えと、インク瓶と、索引帳。鞄に収めたら、口が閉まりきらなかった。羽根ペンの先端が、がさり、とはみ出している。


 ……少しはみ出しているが、許容範囲だ。移動中に羽軸が折れなければいい。


 わたくしは鞄の留め金を押さえながら、自室を一度だけ見回した。


 婚約期間中に殿下からいただいた贈り物は、一つも持っていかない。それはすでに決めていた。残していくことが意趣返しのつもりではない。ただ、必要がないのだ。わたくしに必要なのは手袋とインクと、それを使える場所だ。


 窓の外がようやく白み始めている。出発には少し早いが、それでいい。




 正門には、誰も来なかった。


 見送りを期待していたわけではない。ベルトラン管理官には昨日のうちに挨拶を済ませた。彼は「それは困る」と言いながら、背表紙の番号を唇の中で数えていた。最後に「……お気をつけて」とだけ言った。それで十分だ。


 馬車が一台、正門の前で待っていた。辺境公爵領への一般乗合馬車。8日かかる。


 馬車の御者に荷物を渡すとき、鞄から羽根ペンがするりと落ちた。石畳に着地して、幸い折れなかった。御者が拾い上げて、無言で返してくれる。わたくしは礼を言って、羽根ペンを鞄の中に押し込んだ。今度は留め金が閉まった。


 乗り込む前に、一度だけ振り返った。


 王宮の尖塔が、朝の光の中に立っている。5年分の記憶が、そこにある。条約交渉の夜明け前。誰も読めなかった帳簿を整理した冬。殿下に一度も名前を呼ばれなかった、数えきれない朝。


 どれも消せない。消えない。わたくしの魔法の性質上、一度記録したものは永遠にそこにある。


 それでいい、とようやく思えた。


 消えないから、重かった。でも消えないから、価値もある。5年間は無駄ではなかった。ただ、場所が違っただけだ。


「出発いたします」


 声に出したのは自分への確認だ。記録しておく必要があった。




 馬車が動き始めた。


 石畳の揺れが、骨に伝わってくる。懐の中で、切り抜きの紙がかさりと動く。


 わたくしは目を閉じて、頭の中の記録を整理した。72巻の引き継ぎ書類は渡した。書庫の管理は正式にベルトランに戻した。王宮への義務は全部果たした。


 残っているのは、あの赤い文字だけだ。


 背表紙の内側に並んでいた、更新期限の赤字。まだ30日以内のものが、いくつか残っていた。引き継ぎ書類に明記してある。ベルトランは確認した、と言っていた。でも彼が読めるかどうかと、処理できるかどうかは別の話だ。


 後任は、まだいない。


 馬車の窓の外で、王都の建物が後ろへ流れていく。


 ……それは、もうわたくしの管轄外だ。


 わたくしは窓の外を見るのをやめて、切り抜きの紙を取り出した。


 根気のある者、求む。


 太字の部分を指でなぞる。この濃さ、やはり普通ではない。他の活字と比べると、明らかに墨の乗りが違う。後から書き足した、または特別に強調した、という痕跡だ。


 誰が、何のために?


 分からない。証拠がない。


 でも。


「条件が根気だけなら」


 わたくしは小声で、馬車の中でひとりごちた。


「わたくしの得意分野です」


 5年間、誰も読まなかった文書を整理し続けた。誰も気づかなかった索引を作り続けた。怒鳴られても、侮られても、派手さのない魔法を黙って使い続けた。


 それを根気と呼ぶなら、わたくしには5年分の根気がある。


 戻りません。


 心の中でだけ、父の手紙に答えた。


 戻らない、とここに記録しました。


 馬車は王都の門を抜けた。道が広くなって、揺れが少し和らぐ。


 遠ざかる王都を背に、わたくしは正面を向いた。


 8日後、辺境についたら、まず書庫を見せてもらう。古文書の状態を確認する。索引があるかどうか調べる。なければ作る。期限の管理が必要なものがあれば、赤字で記す。


 やることは、いつもと変わらない。


 ただ場所が、変わるだけだ。


 そしてあの太字は。


 あの不自然なほど濃い「根気のある者」という4文字は。


 一体、誰が書き足したのだろう。


 馬車の揺れの中で、わたくしはその問いを、丁寧に記録した。答えが出るまで、消えないように。


読んでいただき、ありがとうございます。


よければブックマーク・評価・いいねなどしていただけるととても嬉しく思います。

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『名前を呼ばれない婚約者を捨てたら、筆跡で見つけた公爵様に溺愛されました』
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