第50話 誓いを記録する最初の頁
机の上に、付箋がまだある。
議場の後片付けが終わり、ロイドが書類の束を抱えて先に廊下へ出た。裁定長の銀の鐘の余韻がとうに消えて、足音も人声も石の廊下に吸われていったのに、例外条項の束に挟まった付箋だけが、机の端にそのままある。「第7条第3項:上位命令による上書き不可」。声に出さなかった宣言と、もう1つ、まだ声にならなかった何かが、一緒にそこにある気がした。
レオン様が、扉の傍に立っていた。今日で何度目かわからない。口が何かの形に動いて、止まる。それを、わたくしはずっと横目で見ていた。
書庫に戻ってきたのは、夕刻近くだった。
喧騒が嘘のように静まっている。証拠束を広げた机も、帳面を積み上げた棚も、変わらずそこにある。紙の匂いが戻っていた。焦げた匂いは、もうほとんど消えている。数日前からずっと鼻の奥にあった焦げと灰の気配が、今夜は遠い。壁の燭台に灯りが1本ずつ点って、昨夜より静かで、温かい。
棚の前に立って、指先で背表紙を1冊ずつ確かめた。揃っている。抜けていない。燃やされなかった。それだけで、胸の奥がひっそりと落ち着いた。癖で触れかけた手が、今日はそのまま背表紙に留まった。引っ込めなくてよかった。
机に戻って、新しい綴じ帳を広げた。
白い頁だ。1字も書かれていない。今日までの全部が決着して、明日からの記録を始める、最初の1頁。インクをつける前に、ただ見た。裁定の記録でも、証拠の整理でも、今日の功績宣言の写しでもなく——もっと別の何かを書く場所になりそうな気がして、少し怖かった。でも、怖くても書かなければならないものは、ある。消えないように。残るように。
羽ペンを取って、インクをつけた。
最初の行に書き始めた文字が、1つだけで止まった。続きが出てこない。何を書くべきかわからないのではない。書こうとしたものが、今日の出来事でも、議場で名前を刻んでもらった瞬間でも、あの付箋の文字でもなく——もっと別の形になりそうで、止まった。
「……何を書いている」
低い声が来た。
顔を上げると、レオン様がいつのまにか机の傍に立っていた。銀灰の髪に灯りが触れている。深い紺の瞳が、綴じ帳の白い頁を見ていた。
「今日の記録です。……最初の行を、どう書くか迷っていました」
「迷うのか」
「迷います。記録は消えません。だから、最初の1行が大事で」
彼がわずかに息を吐いた。それから、椅子を引いた。わたくしの机の横に、音を立てずに腰を下ろした。外套の袖が、机の端でかすかに重なる距離。昨夜と、同じ距離だった。
灯りの温度が、2人の間にひっそりと留まっている。
羽ペンを帳面の縁に置いた。インクが、ゆっくり乾いていく。
「1つ、聞いていいですか」
声が出てから、続けていいか迷った。でも止める方法が見つからなかった。
「今日、何度か言いかけて止まっていましたよね。……何だったんですか」
沈黙が落ちた。4秒か、5秒か。
彼は帳面を見たまま、1度だけカップを直した。机に何もないのに。癖だ、とわかっていても、その仕草が今だけはひどく丁寧に見えた。言葉の代わりに手が動いている、その形が。
「……セレスティーヌ」
今度は続いた。
名前だけが、先に来た。飾りのない呼び方で、そのまま出た。今日の議場で呼ばれた時と同じ音で、でも声の温度がまったく違った。議場は公の声だった。今のは、それより低く、かすれていた。
「次は、君の朝を——俺にくれ」
帳面の白頁が、視界の端でぼやけた。
息が止まりかけた。言葉の意味を、頭が1度、正面から受け取りそこねた。もう1度、耳の中で繰り返した。次は。君の朝を。俺にくれ。
「次は」という言葉が、1番先に胸に刺さった。昨日でも、今日でもなく、次の朝から始まる、と言っている。先のことを、彼が口にした。付箋より先に、声になった。
帳面を、胸の前でそっと引き寄せた。
ずっと、記録は傷も残す、と思っていた。だから書くことが怖かった。名前を削られた時間も、道具のように扱われた日々も、全部ページに刻まれて消えない。消えないから、記録が怖かった。残るものは、重さを持つ。その重さを持ち続けることが、5年分の仕事だった。
でも今、この人が「次は」と言った言葉を受け取って、わかった。
幸福も、残せる。傷だけではなく、この夜の温度も。この声の、かすれた音も。全部ページに刻んで、消えないようにできる。
羽ペンを取った。手が、震えていなかった。
「承知いたしました」
声は、凪ではなかった。凪でも、震えでもない、別の音がした。自分でも、初めて聞く声の種類だった。
彼が、わずかに息を飲んだ。聞こえた。
「——では、ここに。消せないように、丁寧に」
綴じ帳の最初の頁に、書き始めた。日付。場所。それから——記録者の名前を書いた。セレスティーヌ・フォルセット。インクが紙に落ちていく。消えない。燃やされても、掻き落とされても、今この帳面に残る。
書き終えて、顔を上げた。
机の端に、封蝋の欠片が置いてある。議場の提示が終わったあとも、ずっとそこにあった。灯りを拾って、印がうっすら光っている。焼かれても残った印。掻き落とそうとした手が、逆に浮かび上がらせてしまった証。
手に取って、新しい綴じ帳の表紙の端に、そっと押し当てた。封の象徴として。消えない記録の、始まりの形として。
扉の開く音がした。
「お二人とも——」
ロイドが入ってきた。手に蜂蜜の小瓶と茶器のセットを持っている。机に近づいて、茶器を置こうとして、綴じ帳の表紙の端に目を留めた。
「新しい頁には蜂蜜染み厳禁です。念のため申し上げますと」
レオン様がカップの位置を静かに直した。蜂蜜が届かない場所へ。真顔で、すばやく。
わたくしは帳面から顔を上げて、笑った。
声に出した笑いは、いつぶりかも覚えていない。でも今、笑えた。深呼吸するより自然に、出てきた。
ロイドが胸に手を当てて、小さく息を吐いた。今度は堪えなかった。
「……よかった」
誰に向けた言葉かわからなかった。でも、3人に届いた気がした。
窓の外は夕焼けが終わりかけて、最初の星が出ていた。
次に記録するのは、国の歴史だろうか。それとも——2人の朝だろうか。
帳面の最初の頁が、まだ白く、続いていた。
読んでいただき、ありがとうございます。
よければブックマーク・評価・いいねなどしていただけるととても嬉しく思います。




