第5話 「好きだった」を飲み込む
72巻目の受領印を押す直前に、インク壺が倒れかけた。
ベルトランの手が揺れたのだ。羽根ペンを持ち直した拍子に肘が台に当たり、黒い瓶がくるりと半回転して縁まで来た。わたくしは反射的に手を伸ばして、台の上の羊皮紙の束を横に動かした。インク壺が縁から落ちる前に止まって、そのまま静止した。
「……失礼いたしました」
ベルトランが青い顔で呟いた。わたくしは束の位置を元に戻した。紙は無事だ。それで十分だ。
「大丈夫です。押してください」
彼の手が、今度はゆっくりと受領印を押した。赤い印章が、72巻目の表紙右下に、きちんと収まった。
72巻、完成した。
頭の中で、ただそれだけを確認した。感慨というには静かすぎる。ただ、5年分が今この瞬間に紙の形で机の上に揃った、という事実だけが、わたくしの頭の中を通過した。
ベルトランが受領書に署名を入れる間、わたくしは1巻から72巻まで、背表紙の番号を順番に目で確かめた。欠番はない。抜けもない。ここに記したすべての索引と手順は、わたくしでなくても引ける。そのために3日間、書いた。
「……お疲れさまでございました」
彼が顔を上げずに言った。声が、かすかに震えていた。棚番号を数える気配が始まって、すぐに止まった。数えても落ち着かないのだと、ようやく気づいたのかもしれない。
「ありがとうございます、ベルトラン」
そう答えながら、引き出しに手を伸ばした。今朝から懐に入れておいた紙が、そこにある。辺境公爵領の求人の切り抜き。3日間、ずっと手元に置いていた。
応募欄の空白は、まだ空のままだ。
今夜、書く。
そう決めて、受領書を手に取った時だった。
「……セレスティーヌ」
書庫の入り口の方から、聞き覚えのある声がした。
わたくしは顔を上げた。
オーギュスト殿下が、扉の手前に立っていた。廷臣も侍従も連れていない。一人で、回廊の陰から半歩だけ入ったところで、こちらを見ている。
ベルトランが息を呑む気配がした。それから素早く立ち上がって、入り口から遠い棚の列の方へ、静かに退いた。
「殿下」
わたくしは一礼した。声に、感情が乗らないことを確認してから続けた。
「御用がございましたら、侍従局を通していただけますか。書庫は現在、引き継ぎ作業の最終段階にございます」
「君に直接話したかった」
殿下が一歩、前に出た。昼の光が高窓から入って、顔の半分を明るくした。いつもより少し顔色が悪い。眠れていないのかもしれない。
「……君がいないと、困る」
静かに言った言葉だった。
廷臣たちの前で言ったあの日の軽い声音とは違った。今の声には、何か本物に近いものが混じっていた。だからこそ、余計によくわかった。
困る、という言葉の中身を、わたくしは5秒で解析した。
書庫が止まる。索引が使えない。条約の確認ができない。財務の照合が遅れる。それが困る、ということだ。机の上で整理された72冊が、3日で机から消えることが困る。それが、今この言葉の意味だ。
わたくしが困る、ではない。
「困る、ですか」
声が、思ったより穏やかに出た。
「……では、わたくしの名前を呼んでください」
殿下の目が、少し揺れた。
「今、呼んだだろう」
「セレスティーヌ、とお呼びになりました」
わたくしは一歩、前に出た。
「5年間、殿下がわたくしを名前でお呼びになったのは、何回でしょうか。記録魔法で数えると、今日を含めて11回です。そのうち9回は、書類の所在をお尋ねになる文脈でした。残りの2回のうち1回は今日。もう1回は、3年前の書庫の棚が崩れた時に、反射でお呼びになったものです」
言い終えて、自分でも少し驚いた。言うつもりではなかった。ただ、口から出た。
殿下が言い淀んだ。視線が泳ぐ。袖口を、手が握る。知っている癖だ。5年間で覚えた。理解が追いつかない時に出る。
「……君は、怒っているのか」
「いいえ」
即答した。本当にそうだから。
「怒ってはいません。ただ、確認しています」
数字は嘘をつかない。11回、そのうち9回は書類の文脈。記録魔法は正直だ。わたくしが見たもの、聞いたものを、一字一句、感情を込めずに残す。感情だけが、残す側の問題だ。
「君に、いてほしい」
殿下がもう一歩、前に出た。今度の声には、3日前の謁見の間よりもはっきりとした、何かが乗っていた。困る、とは少し違う何かが。
わたくしの胸の中で、何かが動いた。
5年間、それを待っていた。今日のような言葉を。この声音を。本物に近い何かを。
だから、だ。
わたくしは、ちゃんとわかってしまった。今の言葉の内側に何があるかを。「いてほしい」の続きに、「書庫を動かしてほしい」「索引を守ってほしい」「国が止まらないようにしてほしい」が並んでいることを。
揺れた。一瞬だけ、本当に揺れた。
でも。
揺れたその瞬間に、頭の中で72巻の背表紙が1番から順番に並んだ。1、2、3、4……72。すべてここにある。わたくしが3日かけて紙に移した5年分が、この机の上に揃っている。
「殿下がいてほしいのは、わたくしではございません」
声は、思った通りに凪だった。
「書庫が動くことを、いてほしいとおっしゃっています。それは72巻でお返しします。今日をもって、わたくしの仕事は終わりです」
殿下が、何かを言いかけた。口が開いて、閉じた。また開いた。でも言葉は来なかった。
わたくしは一礼した。
「……お幸せに」
喉の奥で、あと一言が止まった。
好きだった、という言葉が、そこにあった。5年分の、本物だった気持ちが。地味な魔法でも、認めてほしかった。名前で呼んでほしかった。隣に立てるくらいには、見ていてほしかった。
それを、折り畳んだ。
一度だけ、丁寧に。紙を折るように。
「――それだけは、嘘にしません」
声に出たのは、そこまでだった。
殿下が、何も言わなかった。
わたくしは受領書を手に取り、72巻を脇に抱えた。書庫の扉を背に、回廊へ出た。殿下の気配が、扉の前で止まったまま動かないのがわかった。振り返らなかった。
廊下に出ると、風が強かった。石の冷たさが足元から上がってくる。
引き出しの中の紙を思った。応募欄の空白。「根気のある者、求む」という太字の一文。誰かがわざわざ書き足した、あの文字。
懐に手を当てた。切り抜きが、そこにある。
今夜、名前を書く。
喉の奥で止めた言葉は、二度と言わない。でも今夜書く名前は、次のどこかへ続く。
それで、十分だ。
足音だけが、回廊に響いた。
読んでいただき、ありがとうございます。
よければブックマーク・評価・いいねなどしていただけるととても嬉しく思います。




