第2話 3日で綴じる72巻
背表紙の1番に、まだインクが乾いていない。
翌朝の書庫は、王宮の中でもとびきり寒い。石造りの壁が夜の冷気を吸い込んで、朝になっても吐き出さないままでいる。灯台に火を入れると、影が四方から伸びてきた。文書の山、棚の列、埃の積もった枠。5年間、毎朝この景色を見てきた。今日が最後から3日目になる。
「セレスティーヌ様、そのお仕事……本当に、3日で」
入り口近くにベルトランが立っていた。昨夜も遅くまで書庫にいたはずなのに、目の下が腫れていない。きっと眠れなかったのだろう。
「はい。3日で72巻、綴じます」
わたくしは羽根ペンを取り上げた。
「背表紙2番から、始めます」
彼が小さく「……それは困る」と呟いた。いつもの口癖だ。でも今日の声は、泣き声に限りなく近かった。
72巻。数字だけ聞けば途方もないように聞こえる。でも内訳はこうだ。外交条約の分類が12巻、財務帳簿の索引が9巻、議事録の体系が18巻、諸侯往復書簡の参照台帳が15巻、残りが補足索引と更新手順。合計72巻。誰でも、わたくしでなくても、この72巻さえあれば書庫は止まらない。
5年分の仕事を、3日で紙に移す。それだけのことだ。
午前の早い時間は、机の上が片付いていてはかどった。索引札を束で手元に引き寄せ、分類の柱立てから始める。記録魔法を使うと、頭の中に5年分の棚番号が地図のように広がる。どの棚の、どの段の、どの順番。指の先まで覚えている。ペンを走らせるのは、頭の地図を紙に写す作業だ。
ただの写し。だから地味だ。
殿下は昨日「地味な魔法だ」と言った。いつもそう言っていた。5年間、1度も変わらなかった。
ペンを止めずに考える。地味、というのは確かにそうだ。炎の花を咲かせる魔法のように、夜会の中心で拍手を受けることは、記録魔法にはできない。でも、100年前の条約をその場で探し出して外交危機を救った夏も、帳簿の2行を突き止めて国庫の穴を塞いだ秋も――どちらも「地味」の積み重ねだった。
わたくしは地味で結構だ。地味な一行が、国を支える。
「あの、セレスティーヌ様」
下働きの少女が紙束を抱えて近づいてきた。補助を申し出てくれた子で、真面目だが書庫に入って日が浅い。腕の中の束がよろけ、上の数枚が落ちかけた。
わたくしは手を伸ばして、落ちる前に受け取った。それから背表紙の番号を確認して、元の順に戻してから渡した。
「……ありがとうございます」
少女が頭を下げた。わたくしは頷いて、また机に向かった。特別なことをしたつもりはなかった。ただ、順番が崩れると後で探せなくなる。それだけだ。
午後になると、書庫の日差しが奥まで入ってきた。
参照台帳の15巻分を書き終えて、背表紙に封蝋を押した時、ベルトランがそっと近づいてきた。いつの間にか、彼も机の端に座って羊皮紙を抱えていた。何かを整理しようとして、手が動いていない。
「……後任の件、殿下に再度具申を」
「それは、ベルトランの仕事です」
わたくしは顔を上げなかった。
「わたくしの仕事は72巻を仕上げること。その後はここを去ること。それだけです」
「ですが……」
「ここから先は、管轄外です」
静かに、しかしはっきりと言った。
「……今までは、わたくしが勝手に拾っていただけ」
ベルトランが息を呑んだ。羊皮紙の束が、かさりと揺れた。
わたくし自身も、少し驚いている。声が、思ったより凪だった。でも嘘でもなかった。本当にそうなのだ。書庫が崩壊しかけていた5年前、誰も頼んでいないのに棚の前に立ったのはわたくしだ。後任が決まらなくても、引き継ぎ書が不完全でも、気がついたら手が動いていた。そういう5年間だった。
それが今日で終わる。
「泣く理由は……」
口をついて出た言葉を、少し止めた。それから続けた。
「5年前に、書庫に置いてきました」
ベルトランが顔を上げた。わたくしは机に向き直った。
ペンを走らせながら、5年前の最初の夜を思い出した。積み上げられた文書の前に立って、どこから始めればいいかわからなくて。でも棚の前に立ち続けて、1枚目の索引札を作った時の感覚は今でも正確に残っている。記録魔法のせいで、感情も消えない。
愛してほしかった。認めてほしかった。地味でいい。ただ、見ていてほしかった。
そういう気持ちを、棚の間に挟んで、5年かけて押しつぶしてきた。
燃えるより、積み重なる方が、いい仕事ができる。そう決めたのはいつだったか、もう思い出せない。でも決めたことだけは、今もはっきりと覚えている。
夕方近くになって、ベルトランが立ち上がった。足音が入り口の方へ向かい、一度止まった。
「……不躾をお聞きします」
振り向かなかった。でも手は止めた。
「もし、後任が見つかったとして。……もし引き留められたとして、それでも」
「戻りません」
即答した。
沈黙が続いた。ベルトランがまた足音を立てて出て行く前に、また止まった。彼が棚番号を数える声が、小さく聞こえてきた。1、2、3、5――また4を飛ばした。深い息が続いて、やがて足音が遠ざかった。
一人になった書庫で、わたくしは索引札をゆっくりと揃えた。指の腹が紙の端に触れた時、赤い文字が目に入った。
「更新期限:30日」。
何枚も、何枚も。棚の奥にも、机の脇にも、揃って並んでいる。まだわたくしの手の中にある、今日の分だけで11枚。明日の分を合わせれば、30日以内に期限が切れる文書が――
わたくしは数えるのをやめた。
数えると、手が止まってしまう。
灯台の火が揺れた。外から風が入ってきたのだろう。影が一瞬伸びて、棚の文字が揺らいだ。背表紙の1番。2番。3番。まだ乾いていないインクが、今夜のうちに乾く。
72巻綴じれば、わたくしはここを去る。
では、これだけ並んだ赤字の期限は――誰の、手に渡るのだろう。
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