第19話 二週間で止まった書庫、何が消えた
城門の前で、ロイドの手が止まった。
王都の封蝋を受け取った瞬間、白い手袋が赤い蝋を一ミリも傷つけまいとして、わずかに震えた。丁寧にもほどがある。
「割ったら……記録されますね」
わたくしは小声でそれだけ言った。ロイドが直立不動になった。封蝋は無事だった。
応接室に通されたのは、老眼鏡をかけた小柄な男だった。胸に書状を抱え、声がかすれている。ベルトランと名乗った。かつての王宮書庫管理官。その肩書きが、言葉より先に重さだけ届いた。
「……二週間、止まりました」
掠れた声が絨毯に落ちた。わたくしは淹れたての茶に手をつけず、書状の端を確認した。「更新期限:30日」の赤字が右下に小さく入っている。そこだけ、他の文字より二回り大きかった。
「止まった、というのは」
レオンハルト殿下が席に着くより先に、わたくしは口を開いた。
「閲覧記録が途絶えたのですか。申請処理が止まったのですか。それとも貸出台帳の記帳が、ですか」
「……す、すべてです。誰も、入れない状態に」
ベルトランが書状を抱え直した。その手が、震えている。
「72巻は、照合されましたか」
「それが……読める者が……いないのです」
応接室が、一瞬しんとした。
わたくしは索引札の小箱の蓋を指先でそっと閉じた。3年かけて体系を組み、ひと冬かけて更新手順を整えた。72巻分を、指先が冷えきる夜に仕上げた。その全部が今、王都の棚に並んでいる。封を破られたことも、ページを繰られたことも、ない。
「……研修は」
聞くべきではないと思った。それでも声が出た。
「受領印の、ない形で……」
語尾が飲み込まれた。
受領印がない。研修が行われなかったのではない。研修そのものが、記録されていないということだ。存在しない扱いで、72巻は棚に並んでいた。
怒りは声にならなかった。声にならないまま、指先に降りてきた。索引札の小箱の角を、一度だけ押さえた。息が、少しだけ整う。
「困るのは、誰ですか」
一音も落とさずに言った。
「国ですか。殿下ですか。それとも、あなたの席ですか」
ベルトランが目を瞬かせた。口を開いて、また閉じた。殿下は何も言わなかった。ただカップを机に置く音がして、位置を直す音がして、また元の場所に戻る音がした。
辺境書庫に案内したのは、それから間もなくのことだった。棚の配置と閲覧記録簿の実例を一度で見せる。記帳のたびに日付と照合番号が走るよう組んだ魔法の仕組みを、指先でなぞりながら説明した。ベルトランは棚の前で動かなかった。
「……これが、止まる理由がない」
「ええ。記録が動いている間は、止まりません」
ただし使う人間がいれば、という条件を、わたくしは飲み込んだ。
「……すまなかった」
老眼鏡が棚の陰で光の方を向いた。それだけで十分だった。
「誓約の件も……」
ベルトランがそう言いかけ、黙った。
先を促さなかった。「誓約の件」の続きには、まだ何かある。形のない何かが言葉の縁に引っかかって、落ちなかった。受け取るだけ受け取って、索引の隅に静かに留めておく。
夜の廊下で、レオンハルト殿下に呼び止められた。
「客人は保護する。しばらく、動きを制限するつもりだ」
殿下の声は低く、迷いがない。わたくしは石壁を見たまま、短く息をついた。
保護、という言葉が少しだけ重かった。守る、という言葉が、やさしいままで鎖に聞こえることがある。それを殿下が意図しているとは思わない。思わない、のに。
「……わかりました」
それだけ答えた。声が、震えなかった。
部屋に戻り、索引札の小箱を引き出した。空欄のままの欄が、いくつも並んでいる。その1枚の端に、今日も赤い字を見つけた。「更新期限:30日」。
ベルトランが抱えてきた書状の「別紙」の欄には、参照番号のはずの数字が一桁だけ、空白のままだった。見間違いかと思ってもう一度確かめた。やはり、そこだけ空いている。
72巻が棚の上で封を閉じている。誓約の言いかけが宙に浮いている。空欄が、また増えた。
王都は、何を消したのだろう。
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