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「連載版」「記録しか取り柄がない」と婚約破棄されたので、引き継ぎ書類だけ置いて静かに去りました  作者: 夢見叶
第3章 噂の刃、鍵穴の痕

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第18話  鍵穴の封印痕が告げる相手

 鍵穴に、傷があった。


  昨日はなかった。いや、正確には――昨日は気にしなかった、のかもしれない。だが今朝の早朝光の下で見れば、縁の右端に細い擦り跡が、まるで定規で引いたように一本だけ走っている。偶然で付く傷ではない。鍵を差すときのぶれ、うっかりの打ち傷、錆の剥落――どれとも違う、均一な線だった。


「……セレスティーヌ嬢」


  背後でレオンハルト様の低い声がした。いつから立っていたのか。早朝の書庫前は私以外に誰もいないはずだったのに、音もなく近づく人だと今更思う。


「鍵を見ている。何かあるか」

「あります」


  振り返らずに答えた。指先を鍵穴の縁に近づけ、傷の形をもう一度なぞる。触れてはいけない気がして、寸前で止めた。


「これは……"鍵を挿し直した"跡ではありません」


 ようやく振り向くと、彼はすでに私の手元より少し上、扉の木枠を見ていた。視線がひとつ下がって、鍵穴を捉える。一瞬だけ、銀灰色の前髪の奥で眉が動いた。


「……なるほど」


 それだけ言って、彼は短く息を吐いた。




  写し取らなければならない、と思った。


  机に羊皮紙を広げ、細い炭筆を一本持つ。鍵穴の縁の形をそのままに、傷の位置と角度を図として落とし込む作業は、魔法とは関係がない。ただの手作業だ。手が震えないように、息を長く吐いてから炭筆を走らせる。


 傷は2か所。縁の右端に1本、そして錠の奥、内側の筒口に薄い擦れが1本。外側の1本は鍵を"当てながら探した"跡、内側の1本は"合わせながら動かした"跡――そう読める。つまり、この鍵穴を開けた誰かは、最初から合鍵を持っていたわけではない。鍵の形を"解析した"のだ。


「……誰かが、"読む前"に触れましたね」


 声に出したのは、自分に言い聞かせるためだった。レオンハルト様は机の脇に立ち、私が写し取る手元を静かに見ていた。否定しなかった。


 王都仕様の工具で使われる解析痕は、辺境の鍵師が残すものとは角度が違う、と以前読んだ文献にあった。この傷の入り方はまさしくその形だった。証拠にはならない。だが、記録には残せる。


「図が取れたら、台帳に写しを貼ります」


  彼は何も言わなかったが、机の前の椅子を少しだけ私の方へ引いた。隣に座る気はないが、少しでも灯りを近づけようとしたのだと、ひと呼吸おいて気づいた。




 廊下に出ると、ロイドが出入り札の束を抱えて立っていた。


「フォルセット様。鍵の保管手順を今日中に見直したいと思います」


 声はいつも通り落ち着いているのに、両手の指先だけが固く束を抱えていた。


「……蜂蜜は」


 何の脈絡もない言葉だったので、私は一瞬だけ動きを止めた。ロイドが自分で何かを言いかけたと気づいたのか、眉を微かに寄せる。


「今じゃない」


 背後からレオンハルト様の声が来た。ロイドが背筋を伸ばす。私は羊皮紙の端を折りながら、今じゃないという台詞はもう2回目だと思った。


「出入り札と鍵の管理は別帳にします」とロイドが続けた。「鍵の使用者と時刻を記録簿に連動させれば、誰がいつ触れたかが翌日には追えます」

「やってください」


 私が言うと彼は深く頭を下げ、廊下を引き返した。あの真面目さは本物だと思う。蜂蜜の話は後で聞いてあげよう、と思ったが声に出さなかった。




 書庫の古棚の通路は細い。二人で並ぶには少し狭く、一方が退かなければ通れない。


 でも今は、どちらも動かなかった。


  レオンハルト様が通路の奥の棚を見ながら、何かを考えていた。私は彼の横顔の少し後ろに立ち、索引箱の位置を確認する素振りをしながら、実際にはほとんど何も見ていなかった。


「……俺が」


 声が聞こえた。低く、ほとんど呟きに近い。


  続きがなかった。彼は棚の一点を見たまま、少しだけ口を開けて、何かを選んでいるようだった。言葉のひとつひとつを手に取って重さを量り、どれも重すぎると判断しているような、そういう沈黙だった。


 わたくしは待った。


  書庫の沈黙には慣れている。むしろここでは、沈黙は言葉より誠実なことがある。


 彼が何を言おうとしているのか、分からないわけではなかった。前の話で言いかけて止まったこと、その続きが今ここに来ていることも。でも急かすことはしなかった。急かして出てきた言葉は、後で本人が後悔する。わたくしはそれを一番よく知っている。


「……そうか」


  結局それだけで、彼は棚から視線を外した。ため息ともとれない、静かな吐息だった。




  夜の書庫の灯りは、少ない方がよく考えられる気がする。


  卓上の蝋燭1本、それだけ残して対面に座った。レオンハルト様の顔は半分だけ光の中に入っていた。


「条件を出してもいいですか」


  彼の片眉が動いた。否定ではない。


「守っていただけるなら、喜んで守られます。ただ――命令じゃなくて、手順にしてください」


  声は凪いでいた。昨日よりも今日の方が、少しだけ落ち着いて言える気がした。


「鍵の管理、出入り記録、閲覧の照合。全部、わたくしが形にします。形があれば、守ることが命令じゃなくなります。一緒に作ったものは、鎖じゃない。……わかりますか」


 彼はすぐには答えなかった。指先がカップの縁に触れ、位置をわずかに直した。また直した。3回目を手が動きかけたとき、彼はその手をそのまま机に置いた。


「……残せるか」


  短い問いだった。


「残します。全部」


 それだけ言うと、彼は静かに頷いた。長い沈黙のあとで、もう一度だけ頷いた。2回目の方が、本物に近い気がした。


  これは合意だ、とわたくしは思った。命令でも服従でもなく、2人で同じ台帳に名前を書くような、そういう種類の合意。


 蝋燭の火が揺れた。風のない夜なのに、なぜか揺れた。




 翌朝、閲覧記録簿を開いて手が止まった。


 ページをめくる。もう1枚、もう1枚。


 2週間分が、綺麗に、ない。

読んでいただき、ありがとうございます。


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