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「完結済」「記録しか取り柄がない」と婚約破棄されたので、引き継ぎ書類だけ置いて静かに去りました  作者: 夢見叶
第3章 噂の刃、鍵穴の痕

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第15話  索引札が1枚、どこへ

 朝の鍵が、軽かった。


 扉を開ける前にいつも1度だけ鍵を握り直す。金属の冷たさと重さを指先で確かめる。昨日と今日の差分を、この30センチの鍵環が教えてくれる。音、引っかかり、わずかな温度差。異変は大抵、言葉より先に手に来る。


 今朝の鍵の重さは変わっていなかった。なのに、扉の前で手が止まった。


 何かが、違う。


 鍵を差し込み、回す。重い扉が静かに開く。いつもと同じ埃の匂い。灯りのつき方も同じ。閲覧台の椅子の配置も、昨日仕舞った場所にある。ただ1点――閲覧台の左端に固定してある索引箱の蓋が、わずかに、浮いている。


 留め具はかかっている。蓋も閉まっている。ただ、箱が軽い。


 留め具を外し、蓋を持ち上げた。


 索引札が並んでいる。50枚あるはずの索引が、1枚だけ、いない。


 指先で隣の札を押してみると、隙間が生まれた。隣の背に細かい鉛筆字がある。「第4分類・通商協定関連」。その前が抜けている。第4分類の「参照元一覧」だ。どの本がどの条文を根拠にしているか横断的に引けるように、わたくしが自分で書き起こした索引だった。


 台帳を開き、今日の日付と「索引札・第4分類参照元一覧・1枚欠落」と書いた。手が震えていないのを確かめてから、ペンを置いた。


 無いなら、無いことも記録する。


 それだけだった。




 書庫の通路で、レオンハルト様と顔を合わせたのは30分後だった。


 彼は報告を聞いている間、鍵環を片手に静かに保持したまま、揺らさなかった。揺らさないようにしている、という方が正確だろう。こういう時の彼は、言葉より手が先に動く。護衛を増やすかもしれない。また行動制限が増えるかもしれない。そう胸の中で身構えながら、事実だけを順番に並べた。昨日、彼に「城から出るな」と言われかけた時のことを、まだ少し引きずっているのだとわかっていた。善意が命令の形になる前に、事実だけで話し切ってしまいたい。


「書庫の索引箱には2種類の鍵があります。扉の本錠と、索引箱専用の小錠です。小錠の鍵はわたくしが管理しており、昨夜は閉錠のうえ机の引き出しに」

「昨夜の最終入室後、鍵に触れた者は」

「わたくしだけのはずです。ただ、複製を作る機会があったとすれば昨日の閲覧時間中です。接触できた人間を絞るには、出入り記録の突合が必要で」

「やれるか」

「すでに台帳は出してあります」


 彼が1秒だけ黙った。それから小さく、ゆっくりと息をついた。


「……動線を、追う」


 命令ではなかった。確認するような声だった。


「はい」




 記録机の前でロイドが出入り札を並べていた。普段の3倍ほど真剣な顔をしている。


「昨日の入室が14名、退室が同じく14名。差分はございません。閲覧区画への入室は5名、残り9名は閲覧台止まりです」

「5名それぞれの閲覧棚番号を照合してください。第4分類に接触した記録があれば優先で」


 承知いたしました、と頷いたロイドが、そこでこほんと咳払いをした。


「……恐れながら、セレス様。わたくしも今朝、索引の覚書を」


 差し出された紙を受け取る。几帳面な文字で「索引分類・覚書」とあった。項目が5つ。最初の3つはまともだった。第4項目に「お茶(ダージリン系)」、第5項目に「お茶(花茶系)」と書いてある。


 わたくしは紙を1秒見て、ロイドの前に無言で裏返した。


「……却下ですか」

「却下です。記録形式は後で教えます。今は突合を先に」


 ロイドが傷ついた顔をしたのはわかった。それでいい。後で直してもらえばいいだけだ。




 古棚の前に立つと、指が止まった。


 第4分類の棚。背表紙を左から順に目で追うと、1冊だけ傾いている。隣の本を支えにして自立していたのが、抜けた隣を失って斜めになっている。本は抜かれていない。ただ、傾いているだけだ。


 なのにその1冊の傾きが、声よりも雄弁だった。


 索引札があれば、この本を手に取る前にどの条文が関わるかを調べられる。どの争議と繋がり、どの協定が根拠になっているかも。逆に言えば、索引だけを抜けば――本を動かさなくても、参照の経路が消える。誰かが書庫に踏み込んだ形跡は残らない。なのに使い手だけが迷子になる。


 わたくしは傾いた1冊をそっとまっすぐに立てた。本の背表紙の、ざらついた革表紙が指に馴染む感触があった。5年間、同じ手触りの仕事をしてきた。索引は地図だ。地図を奪われた者は、目の前に答えがあっても開けない。


 欲しいのは本ではない。どの本が、どこに繋がっているかという読み方の順番だ。


 その順番を奪えば、同じ場所に戻れなくなる。怖いのは盗難ではなく、これだった。




 書庫の灯りが落ちる頃、レオンハルト様は入口近くの椅子から動かなかった。


 突合の結果は出ていた。昨日の5名のうち、第4分類に接触できた位置にいたのは3名。ただし接触を証明するものは今のところない。欠けた索引札の位置は台帳に「空欄」のまま残してある。埋めると後で比較できなくなる。


「空欄のまま、置くのか」

「はい。欠けた場所が証拠です。埋めたら消えます」


 彼が目を細めた。それから静かに口を開いた。


「欲しいのは本じゃない」


 呟くような声だった。


「……参照だ」

「はい」


 短い言葉が、書庫の空気に沈んでいった。


 彼が立ち上がる気配があった。鍵を手に取る音。


「明日、鍵穴を確認する。護衛長に立ち会わせる」


 命令ではなかった。確かめるような、問うような口調だった。


「……ご一緒します」


 1拍の間があった。


「ああ」


 たった1音だったが、重さが軽くなかった。


 台帳を閉じる前に、もう1行だけ書き足した。「参照索引は2重構造で再作成する」。


 盗まれた。それは事実だ。でも今日初めて、敵が何を欲しがっているかの輪郭が見えた。欲しいのは証拠の紙ではなく、証拠がどう繋がっているかの経路だ。


 消すことは考えていなかった。消したところで、噂は消えない。ならば経路ごと上書きすればいい――証拠の上に証拠を重ねて、噂より先に帳簿で勝つ。その発想が今日、静かに1つ増えた。


 灯りを消しながら、ふと思った。明日、鍵穴を確認した時に何が見つかるのか、と。


 翌朝の答えは、思っていたより早く来た。鍵を差し込もうとした指が止まった。鍵穴の縁に、薄い、引っ掻き傷に似た痕が残っている。偶然の傷ではない形で。


読んでいただき、ありがとうございます。


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『名前を呼ばれない婚約者を捨てたら、筆跡で見つけた公爵様に溺愛されました』
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