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「完結済」「記録しか取り柄がない」と婚約破棄されたので、引き継ぎ書類だけ置いて静かに去りました  作者: 夢見叶
第2章 辺境書庫の迷宮とお茶

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第11話 初めての「名前」

 玄関ホールに踏み込んだ瞬間、今日が普通ではない日だと気づいた。


 扉の手前でロイドが待っていたからではない。彼の後ろに書庫係の男が2人並び、それぞれの手に分類帳と羽根ペンを持っていたからでもない。ロイドの口から出た一言が、問題だった。


「本日付けで、閣下より書庫運用の手続きに関するご確認がございます。……セレスティーヌ様もご同席を」


 様、という言葉が浮いた。


 昨日まで「書庫係の方」か、悪いときは「例の方」だった。今朝初めて、名前が付いた。


 それだけのことが胸の底に刺さって、私は一拍おいて「承知いたしました」とだけ返した。感情を凪がせた顔は、6年の王宮勤めが作り上げてくれた鎧で、今日も役に立った。




 執務室の前の廊下は、昼前でも薄暗い。


 書庫係の2人が閲覧規定の確認書を広げ、ロイドが項目を読み上げた。鍵の預かり先、閲覧記録簿の保管場所、目録外の本への対応手順——どれも私が着任してから自分で整えたものだった。確認というより、記録として残すための手続きだと分かった。


「……以上の変更について、ヴァイスガルト閣下よりご承認の確認を」


 ロイドが顔を上げた先に、レオンハルト閣下が壁に背を預けて立っていた。


 いつそこに来たのか分からない。扉に鍵を差す音も、足音も聞こえなかった。彼は腕を組んだまま確認書に目を落とし、無言でうなずいた。


「記録係への権限付与、通行札の正式登録——承認した」


 書庫係の1人がペンを走らせた。ロイドが次の項目を読もうとして、閣下が静かにそれを遮った。


「……呼称も記録しろ」


 一瞬、廊下が止まった気がした。


 ロイドが書類に視線を落とし、「書庫正規担当、セレスティーヌ・フォルセットと——」と書き始める。その隣で閣下の視線が動いて、私に向いた。


「セレスティーヌ」


 声が変わった。


 役職でも「記録係」でも「例の方」でもなかった。ただ、名前だった。


 息の仕方を忘れた。そんな気がした。




 書庫係が片付けに入り、ロイドが「正式呼称の更新でよろしいですか」と真顔で確認した。閣下は軽く咳払いをして、「……そうだ」とだけ言った。ロイドが「かしこまりました」と頭を下げる横で、私は廊下の壁に視線を向けた。目の前の石積みを数えなければ、顔に何かが出る気がした。




 書庫に戻ってから、私はまず背表紙の列を確認した。


 特に問題があったわけではない。並びはきちんとしていた。それでも指先を背表紙の端に当てて、一列なぞると、ようやく呼吸が均等に戻った。


 道具扱いをされた記憶の中では、誰も私の名前を呼ばなかった。「書庫係」か「彼女」か、もしくは「魔法の方」だった。名前を呼ぶことは、相手を人として見るということだと——そんなことを考えたのはいつぶりだろうか。


「……固まっているな」


 振り向くと、閣下が棚の端に立っていた。いつの間に来たのか、今日は2度目だった。


「固まっていません。確認中です」


「同じだ」


 反論できなかった。


 閣下は棚に近づいて、私の隣に並んだ。正確には少し後ろ、でも声が届く距離だった。私は索引札を1枚直す振りをして、視線を本の背に戻した。


「……呼び方を変えただけです」


 声に出したのは自分でも驚いた。言い訳でも感謝でも抗議でもない、ただの確認みたいな言い方になってしまった。


 沈黙が2秒続いた。


「違う」


 低い声だった。


「……扱いを変えた」


 今度は背表紙を数えるだけでは足りなかった。私は索引札を両手で持って、その角を揃える作業に集中した。指先が少し震えていたが、気づかれていないと信じることにした。




 閣下は長くいなかった。


 「根気がある者は、逃げない」


 棚の前を離れるときにそう言った。理由は言わなかった。なぜその言葉が今出てきたのか、私には分からなかった。ただ、言い方がいつもの「事実を述べる」とは違って聞こえた。何かを確かめるような、あるいは自分に言い聞かせるような間があった。


 背中が扉に向かっていくのを見て、私は「……はい」とだけ答えた。


 返事が届いたかどうか、確認できなかった。




 午後の作業は順調に進んだ。


 目録外の棚の3列目まで分類札を切り終えて、欠落した頁の記録を更新した。封蝋の欠片は布に包んで記録帳の端に挟んである。二重の紋のことは、まだ正式な報告書には書いていない。証拠と呼べる段階ではないと判断したからだ。


 書くべきものと書かない方がいいものの区別は、王宮書庫で6年かけて覚えた。


 今は書かない。でも忘れない。


 記録帳を閉じるとき、ページの端に小さく「蜂蜜:多め」と書き足した。今日の分の記録だった。




 玄関ホールに人の声が響いたのは、日が傾き始めた頃だった。


 書庫の通路を歩いていた私の足が、自然に止まった。


 ロイドの声だった。低く、抑えた声で何かを確認している。相手の声は聞こえない。届いてきたのは足音と、紙が擦れる音と——


 ロイドが廊下に現れた。手に封書を持っていた。王都の紋章が押された封蝋が、夕方の灯りに光った。


「セレスティーヌ様。……ご確認いただけますか」


 差し出された封書を受け取って、私は封蝋を見た。


 指が止まった。


 封蝋に、細い線が入っていた。割れ目だった。封を切った線ではない。誰かが一度剥がして、貼り直した跡だった。


 ロイドはそれ以上何も言わなかった。


 私も何も言わなかった。


 ただ、封書を両手で持ち直した。王都の紋章の下で、割れ目だけがやけに丁寧に見えた。


読んでいただき、ありがとうございます。


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『名前を呼ばれない婚約者を捨てたら、筆跡で見つけた公爵様に溺愛されました』
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