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戦国タイムトンネル  作者: サクラ近衛将監
第四章 新たな役割

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4―7 岡崎城にて その三

 徳姫様付の側女であるハルに続いて、イソ、リク、カエデ、ユキの四人から事情聴取を行ったが、いずれも伝聞の伝聞に依るものらしく、『一体誰がその場を見たのだ。』と追及すると、彼女たちにはわからないという。

 では、それが真実かどうかわからないままに徳姫様にお話ししたのかと問うと、皆が一様に黙り込んでしゅんとしてしまった。


 彼女たちの間では、都雀(みやこすずめ)ではないけれど、噂話を集めたり、広めたりすることが娯楽やストレス解消になっているらしく、幼い頃から面倒を見ている徳姫もその仲間と考えている節がある。

 奥勤め(おくづとめ)は、ある意味で格式張った単調な生活が延々と続くので、溜(た)まったフラストレーションを発散する場が、井戸端会議ならぬ噂の交換なのであった。


 これ以上は、この側女たちに聞いても埒(らち)が明かないと判断して、その日は早めに事情聴取を終えた。

 明日の午前中は、築山殿(瀬名殿)に話を聞き、午後には信康殿に事情を聴く予定なのだが、今夜は、先に築山殿の側女たちを秘密裏に探っておくことにする。


 そうして明日の夜は、信康殿の側近と側女たちの番やな。

 多少の問題はあれど、彼らの記憶を探ることが一番わかりやすい。


 そうして、その段階でなお不明なことが有れば、於大の方(おだいのかた)とその側近を調べることにする。

 今一つ、無いとは思うのだが、秀忠の生母についても密かに調べる必要があるかも知れないと思っている。


 信康が失脚して一番得をしそうなのが、秀忠であるからだ。

 とは云え、秀忠は、この年の卯月に生まれたばかりであり、秀忠が背後にいるわけも無いのだが、その生母もしくはその取り巻きの者であれば、信康を引きずり降ろそうとする企てがあってもおかしくは無い。


 正直なところ、余り考えたくはないのだが、戦国時代の下克上(げこくじょう)と云うのは、往々にしてそんな企みもありがちなのや。


 ◇◇◇◇


 その日の夜間の作業で特に目新しいことは無かったものの、やはり、築山殿の側女たちは、岡崎城に住む於大の方の側女達、及び、徳姫の側女達とは確執(かくしつ)が有るようや。

 別に築山殿が不遇に扱われているわけでは無いようなのやが、やはり家康に遠ざけられている正妻というイメージが何となく彼我に有るようやな。


 そんなイメージが付きまとう以上、岡崎城に住む者の築山殿に対する扱いもぞんざいになりやすい。

 そうした負の感情があちらこちらに巣くっているのが、築山殿の側女達の感情なのや。


 一方で、側女達の脳裏に有る記憶からは、築山殿が武田方と通牒した事実は全く無い。

 ところで、築山殿の住まいは、岡崎城から半里ほどの城外の別宅とされている。


 何故に家康の正妻である彼女が岡崎城に住んでいないかと言えば、築山殿が家康の元に戻ることができた際には、既に家康の生母である於大の方様が岡崎城にその息子達と共に入っていたからなのである。

 姑(しゅうとめ)と嫁が同じ城で一緒に暮らしても何ら可笑しくは無かったのであろうが、そこに家康の意図や感情が入っていたのかも知れない。


 於大の方も、岡崎に来るまではある意味で織田方の人質となっていたようなものだし、一方の築山殿(瀬名)も今川方に人質として取り込まれていた。

 その双方が、出会った時に化学反応のごとき過激な対立が生じても困るので、岡崎の城外の近傍に家康が別邸を建てて築山殿を住まわせるようにしたとされているようだ。


 普通ならば、正妻の元へ足しげく家康が通っても可笑しくはないのやろうが、家康は築山殿をむしろ遠ざけたとも言える。

 甚だ心もとない歴史資料によれば、武田の攻撃があり得る浜松城に妻子を置くのは危険だから、築山殿と信康を岡崎の地に住まわせ、家康自らは最前線の浜松城に居たということになっている。


 しかしながら、家康は側室の西郷局(さいごうのつぼね)(通称:於愛の方)を少なくとも1年前の天正6年には、浜松城に招き入れていたはずである。

 浜松城が妻子を置けない危ない場所であるならば、この西郷局と生まれたばかりの秀忠も同様に岡崎に移転させねばならないのに、それをしなかったということは、時局が違って武田が再度侵略してくる可能性は極めて低いと見ていたからに違いない。


 家康は天正7年の時点で数えで38歳、満年齢では37歳だから男盛りなのだろうな。

 だが、築山殿は家康よりも年上なのだ。


 それに信康も数えで20歳、通常この時代の女性はこの年になれば閨(ねや)を共にしないのが普通だ。

 従って、信康の側にいたとしても可笑しくはないし、そもそも西郷局が産んだ長松(後の秀忠)については、秀康のように認知を拒否していない。


 ン?

 生まれたばかりで或いは知らない?


 いやいや、恐らくは知っていたはずだ。

 女同士の情報力は男が知らないところで動いている。


 いずれにしろ、家康は、西郷局を迎えたその時点では、信康(当然に徳姫様も)と築山殿を浜松城に呼び寄せることもできたに違いないのだが、敢えてそれをしなかったのだ。

 やはり、少なくとも築山殿を傍に置こうという意思が無かったのだろうと思われる。


 その心情を察して家康の家臣或いは後世の徳川家の家臣達が、神君家康公の障(さわ)りにならない様、様々な手で小細工を弄(ろう)した結果が、文献として後の世に残っている可能性が高いな。

 前にも独り言で言ったように思うが、家康さんよ、政略結婚であれ何であれ、子供まで為した正妻ならば、ちゃんと最後まで面倒を見ろよ。


 仮に家康の本音が、自分の毛嫌いする築山殿を遠ざけるのが目的であったとしたなら、ますます、家康が嫌いになりそうや。


 ◇◇◇◇


 翌日は、朝から築山殿の御宅にお邪魔する。

 時折は築山殿も岡崎城を訪ねるようやが、頻繁では無いようやな。


 自分のお子である信康がいるのやから、気安く訪ねても良い筈なのやが、彼女も家康に嫌われているという負の意識を持っているならば、そのことを持って評判の宜しくなさそうな岡崎城にはあまり顔を出したくはないのかもしれない。

 だが、少なくとも徳姫の側女や岡崎城の城勤めの男たちからはそのような蔑(さげす)みの感情は見当たらないのだ。


 まぁ、今のところ、於大の方様の側女や側近連中の意識は確認していないんだが、周囲の者は意外と築山殿を悪くは見ていない可能性が高いと思われる。

 初めてお会いした築山殿は、小太りの色白の女性であった。


 自らは大した仕事もしていないのやろうから、身体も肥満することにはなるのかもしれないが、この時代では珍しい。

 食べ物は一汁一菜(いちじゅういっさい)が基本やから、それほど脂肪がたまることも無い筈なんやが、あるいは駿府での贅沢な生活を続けているのかも・・・。


 さて、今日の築山殿と秀康殿の調べには遠慮会釈なく俺の異能力を使わせてもらう。

 会話の最中にも相手の意識をあら捜しして、真実を暴き出すしか無いんだ。


 俺の滞在もさほど長引かせるわけには行かないからな。

 信長さんも待っているやろうけれど、蒼龍隊も俺がこれほど長いこと不在にしていると、中には不安を感じている者も多い筈や。


 それなりにしっかりしている奴もいるけれど、やはり十代の少年少女という言葉が似つかわしいから、精神的にはしっかりしたモノに頼らざるを得ないところが有る。

 その対象が俺になっているのは、仕方がないことや。


 側女がついて居るにもかかわらず、俺はのっけから色々な私事を遠慮会釈なく問いただす。

 その裏では築山殿の意識を探り、記憶を探った。


 結果として築山殿が武田と通じている証拠は全く無かった。

 また、浜松で家康の男子が生まれたことも承知しており、既に認知もしていた。


 以前は、嫉妬に狂って秀康を認知しないという暴挙に出たが、流石にアラフォーになって心境が変わったということのようだ。

 今の築山殿の気持ちの中には、徳川家のためにという意識が強いのである。


 では、徳姫との一件はどうなのか?

 徳姫とは、余り会話の記憶が無いようだが、覚えているものの中に、彼女に嫌味を言ったような事実はなさそうやな。


 この段階でも、もう一度徳姫にも会う必要があるとは感じているのやが、徳姫はどうも僻(ひが)み根性が強いのではないのやろか?

 側女のあらぬ噂に載せられて、余計にその僻みが拗(こじ)れたような気がする。


 もう一つ、築山殿と家康との関係では、特段彼女が家康に遠ざけられているという感情は持っていないようだ。

 築山殿が駿府から岡崎に来たのは永禄5年(1562年)の事であり、その際は未だ20歳を過ぎたあたりではあったし、二年以上も家康と別れ々々になっていたことで、家康ともそのなりに交接は為している。


 が、やがて家康が政務や軍務で忙しくなると、次第に家康の心が離れて行くのを気付いていた。

 そうして、天正二年に於義丸(おぎまる)(後の秀康)が生まれた際には過剰反応を示したのである。


 その時点では正妻の権限として特段の違和感も無かったようやが、信康の家臣に謀反の疑いがかけられるに及んで、御家大事の気持ちが急速に芽生えた様だ。

 そのためにも信康に嫡男が居ないのは不味いと考え、側室を盛んに進めた経緯は事実としてある。


 無論、於義丸の件は自分も覚えているから、実際に側室を迎える際には徳姫にも事前に了承を貰うつもりであった。

 やから、事前に一言徳姫に自分の意向を告げていれば、あるいは徳姫からの十二か条の訴状は無かったのかもしれないね。


 まぁ、一番重要なのは武田とつながっていたかどうかの問題であり、その点が無かったのが一番の収穫やで。

 既に築山殿の近習及び側女達は、調査済みや。



 今夜は、信康の近習や側女についても調べるつもりや。

 俺は、午の刻(うまのこく)(12時ころ?)には築山殿の邸を出て、岡崎城に戻った。


 さてこれから、信康殿と会うわけなんやが、恐らくは信康にかけられた武田と通じているとされる嫌疑も事実無根の可能性が非常に高い。

 但し、信康と徳姫は織田と徳川の鎹(かすがい)であり、この関係がうまく行かないとなれば、後々に悪影響を及ぼしかねない。


 特に、信長さんは周囲を敵で囲まれている状況やからね。

 現時点である程度は、緩和できたと言っても、まだまだ天下布武の道のりは遠い。


 俺が信長さんにずっと協力するかどうかは今のところ未知数やな。

 敵にはなるつもりは無いんやが、日本を離れるつもりが満々やからね。


 それが、織田家隆盛の最中やったら、織田家にとっては大いなる痛手になるやろうな。

 トト様とカカ様にとっても痛手になるかもしれんが、日の本を出たにしても、知己(ちき)の者にはそれなりの配慮はするつもりやで。


 ところで、俺の予想では、日の沈まぬ帝国がそろそろ敵情視察に来るはずなんやけど、意外と遅いねぇ。

 マニラの判断では動けず、インドまで伝令が走っているのであれば、まぁ、1年はかかるやろうけれど、それでもそろそろ、宣教師辺りが俺にも接触して来るのやないかとみているんやが・・・。


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