3ー18 周辺の情勢 その一
俺が青龍隊を率いて、大阪本願寺を二日で陥落させたのは天正七年正月半ばのことやった。
ここらで、天正六年から七年にかけて、俺を含む織田家、いや、日ノ本の現状と周囲の情勢を確認しておこうか。
既に、歴史は俺の動きで変わっている。
備前以西の地域をほぼ制していた毛利の動きについては、三木城が降伏した後に、秀吉叔父貴の要請により、毛利軍に包囲された上月城の救援のために蒼龍隊が出動し、後方の備中高松城に居た毛利輝元を襲撃、輝元は天井が崩落して大怪我を負ったのや。
元の史実ではそんな出来事は無く、天正6年7月には、上月城が陥落していたはずや。
元より輝元を暗殺するつもりは無く、毛利軍の総指揮官がビビればよいだけの襲撃だったのやが、俺の想定よりも被害が大きくなってしまったのや。
まぁ、この辺は、戦争なんやから止むを得ないやろな。
上月城を包囲していた毛利軍は、この報せを聞いて、急遽、吉川、小早川の両将が軍の半数を率いて戦線を離脱、備中高松に戻ったわけやな。
その隙に乗じて蒼龍隊の遠距離射撃で、上月城を囲む毛利軍の指揮官を狙い撃ちし、最終的に毛利軍の撤退を促したわけや。
そうして、その後に、俺が単独で鞆(健司の世界で言えば福山市鞆町にあたる)に居た足利義昭を暗殺したことが、その後の毛利軍の動きに大きな制約を課すことになったんや。
毛利輝元は、そもそも将軍義昭の要請を受けて、大阪本願寺の救援の乗り出したんや。
上杉・武田をして信長包囲網に参加するように要請するとともに、播磨における徹底抵戦工作と大阪本願寺への物資供給を請け負ったのや。
この作戦発動に際しては、織田軍と戦をするか否かについて、家臣団とも随分協議の上で、最終的に織田軍と戦うことを決めて、軍勢を東進したわけやねん。
然しながら、旗頭とすべき足利将軍が亡くなっては、その大義名分が立たなくなる。
因みに、義昭が京都を追放された時点で、朝廷を庇護する天下人の役割を果たせなくなったことから、実質的には将軍の権威は失ってはいたんやで。
但し、朝廷から征夷大将軍を解任されていなかったため、名目的には未だその権威があるものと推測されていたのやな。
義昭の子は居た者の、幼少であり、京から追放される際に織田家の人質として差し出した義尋(当時二歳)は、義昭が亡くなった天正6年にはわずかに7歳や。
一説には、ほかにも、義昭の子として義喬、義在、秀行、重成などの名があげられているんやが、証拠となる記録が定かではないし、歴史に埋もれてしまっていたから、到底、足利幕府を再興させるような力はなかったのやろな。
いずれにせよ、毛利輝元が織田と戦を構えるための頼りとしていた足利義昭が居なくなっては、大義が立たないのである。
更には、救援しようとしていた大阪本願寺も織田軍に攻略されてしまったので、毛利軍は当てが外れた上に、守勢に回ることとなったのだ。
毛利輝元も足利義昭が存命中は、上洛を考えていたような気配があるんやが、武田が衰退し、越後の勇であった上杉謙信も天正6年にトイレで推定脳溢血で死んでいたから、上杉との共闘も望み薄となってしまい、輝元自身は、徐々に織田家と和睦をする方向にシフトしようとしていたようや。
何せ毛利軍の中堅どころであった将兵が上月城の包囲戦で多数失われていたのやから、毛利にとっては大きな痛手やったんや。
一方、甲斐の武田勝頼は、天正3年に長篠の戦いで敗北して多数の有能な将兵を失ってから、一時期の勢いを完全に失っていた。
この後、勝頼も守勢に回り、多くの家臣団の寝返りに遭って、最終的には天正10年3月に天目山に至る途中の田野で自害して果てている。
一方、駿河の今川は、桶狭間の合戦で義元が打ち取られた後、今川氏真が家督を継いだものの、徳川軍と武田軍から攻められて、最終的には武田領と徳川寮に分割され、駿河の名家であった今川氏は戦国大名から退いたんや。
今川氏真は、後に徳川家康の庇護を受け、徳川時代の高家として子孫を残している。
天正6年(1578年)当時、相模の国を治めていた北条氏は、氏政の代であるが、天正八年、氏政の隠居に伴い氏家の代になった。
氏家は織田家と同盟を結びながら、勝頼と何度か戦ったものの決着はつかず、織田軍により武田家が滅亡(天正10年)させられてから、攻略軍の将である滝川一益が関東守護を自称して北条を圧迫したようやな。
この時点で織田軍と全面的には対峙したくない氏家は、何とか自重して機会を窺っていたんやが、天正十年、信長が本能寺の変で倒れると、滝川一益と一戦を交えることになる。
従って、機会が有れば、氏家は同盟関係にあった織田家を裏切るということやな。
天正6年(1578年)の九州は、大友氏・島津氏・龍造寺氏の3大勢力が覇を競っていた。
特にこの年は、島津氏が北上の足がかりを築いた転換期にあたり、天正6年11月、日向国(前世の宮崎県)の高城川原周辺で起きた大友宗麟と島津義久の合戦で島津が大勝し、大友氏は衰退し、島津と竜造寺が飛躍することになるんや。
天正6年(1578年)の四国は、土佐の長宗我部元親が四国統一に向けて急速に勢力を拡大し、阿波・讃岐へと本格的な侵攻を開始した年でもある。
翌天正7年には、長宗我部元親が勢力を拡大し、阿波と讃岐を次々と手中に収め、四国制覇へと突き進んでいたんやが、このことが織田軍の四国征伐の動機にもなる。
天正6年(1578年)の東北地方は、事実上の盟主であった越後の上杉謙信が急死したことで「御館の乱」が勃発し、北奥羽の勢力図が大きく変動した。
上杉氏の支援を失った勢力や、空白を突いて拡大を図る勢力が各地で入り乱れることになったんや。
伊達輝宗は上杉景勝と結び、蘆名盛氏は上杉景虎を支持するなど、南奥羽の大名たちも二分されて御館の乱に介入し、越後と東北の国境付近で緊張状態が生まれたんや。
出羽では、前年に起きた「天正最上の乱」を制した最上義光が当主として本格的な統治と領国拡大に乗り出した。
天正6年には、伊達輝宗の支援を受けた上山満兼(上山城主)が最上領に侵攻したが、義光はこれを防ぎ、徐々に出羽の統一を進めて行ったんや。
会津の蘆名氏は、名将・蘆名盛氏のもとで最盛期を迎えていたようやな。
しかしながら、上杉謙信の死によって、これまでの地域同盟のバランスが崩れ、新たな対応を迫られることになったんや。
後に「独眼竜」として名を馳せる伊達政宗が元服(天正5年)を迎え、群雄割拠する東北の戦国大名達が大きく動き出した激動の年でもあるんやで。
一方日ノ本から離れて、海外に目を向けると、天正六年から七年の東南アジアは、ヨーロッパ勢力による香辛料貿易の独占とそれに伴う各地での激しい抵抗が起きた時代やった。
ポルトガルは、反乱の所為で、モルッカ諸島のテルナテ島を追われてティドーレ島に拠点を移し、スペインがフィリピンでの拠点を拡大してブルネイと衝突した時代やった。
1571年(元亀二年)にマニラを征服したスペインが、その勢力を拡大中やったな。
1578年(天正六年)には、ブルネイへ遠征軍を送り込み、カリマンタン島北部でブルネイ王国と交戦したんや。
マレー半島では、ポルトガルが占領するマラッカに対して、ジョホール王国などが度々攻撃し、海上交易の覇権を巡る小競り合いが盛んに起きていたようや。
タイのアユタヤ王朝は、長年、ビルマのタウングー王朝の侵略を受けていたんやが、この時期にタウングー王朝が清朝から攻撃を受けていて、一時的な侵略の脅威が和らいだことから、アユタヤ王国は勢力を立て直して周辺国との交易を活発化させていた。
ベトナムでは、北部の黎朝(実権は鄭氏)と南部の阮氏が対立する抗争の時代で、北部では科挙制度などを通じて儒教的中央集権化が進められていたようやな。
そうして、欧州列強の動きはどうやったのか?
1578年当時のポルトガルは、大航海時代による黄金期やったが、同年、モロッコの「アルカセル・キビールの戦い」での国王セバスティアンⅠ世の戦死(行方不明)によって後継者が断絶、国家存亡の危機に直面していたんや。
一応、血縁である、大叔父の枢機卿エンリケが即位(エンリケ1世)したんやが、元々高齢やったからすぐに崩御してもうた。
これにより、スペイン国王フェリペ2世(ポルトガル名:フェリペ1世)が継承権を主張して、1580年にポルトガル王位を継承したんや。
ここから約60年間、ポルトガルは実質的にスペインに併合されたのや。
先の話は置いといて、ポルトガルはアジア(ゴア、マラッカ、マカオなど)からアフリカ、南米に至る広大な植民地を支配していたんや。
ポルトガルは南蛮貿易を通じて鉄砲やキリスト教(イエズス会)を日本に伝えたりして、活発な交易をおこなっていたんや。
このためこの時期に堺などで見られた西洋人の多くは、ポルトガル人やったはずやな。
一方で、この1578年は、1世紀以上にわたりポルトガルが世界を引っ張て来た大航海時代の終焉を告げ、スペイン支配の引き金となった年のようやな。




