2ー15 小一郎の妻ヨシ その二
同じ織田家中の家臣で蜂須賀殿は中々の剣豪とお聞きしましたが、藤吉郎殿の差配を受けながらあちらこちらに跳び回っているご様子で、与一郎の剣術指南のお願いは難しそうです。
止むを得ず、小一郎殿の配下で剣術のできそうな小助殿に、指導をお願いましたなら、何と半月で小助殿が匙を投げてしまわれたのです。
与一郎に才が無いというのではありません。
逆に小助殿が立ち合いをしても敵わぬほどに剣術の才があるので、小助殿曰く、これ以上の指導は無理じゃというのです。
何と学問に才があるかと思いきや、剣術にも才がありそうなのです。
我が子ながらほんに良い才能に恵まれていると思えますが、母としては未だ普請中の城下町にあってできることは余り御座いません。
陰からそっと見守るのが親でございましょうから、私もできるだけ与一郎の成長を見守りましょう。
その様にしているうちに、二人目の子を身ごもってしまいました。
戦働きの所為で、逢瀬が中々無かった夫婦でございますが、今浜に与一郎を連れて来て、毎夜夫婦の営みをしているのでございますから、子ができても当たり前のことでしょう。
でも、そのことに真っ先に気づいたのは何と与一郎なのです。
「カカ様、おなかにやや子ができたようにございます。
お身体を厭いなされませ。」
僅かに数えで10歳の与一郎がそんなことを言うのです。
言われてみれば、確かに月のものが少し遅れていますね。
それから二月ほどすると悪阻が始まり、私にもようやくやや子ができたと得心できました。
よく、姑辺りが嫁女の体調の変化に気づき、妊娠を知ると言いますが、与一郎も私の何かに感じてやや子ができたのを教えてくれたのでしょうが、それにしても不思議な子です。
最近では色々な食材や調味料を手に入れて来るのです。
その際に言うのは決まって、これらを食べると滋養になりますとか、滅多に手に入らないソウユと味噌にございますから、是非料理に使ってくださいなどと言うのです。
味噌自体は行商で売りに来る者が居ますので、我が家にも壺に入れてありますが、ソウユなるものはございません。
そうして与一郎曰く、与一郎が手に入れた味噌については、行商で売りに来る味噌よりも塩分が低く抑えられて居る分、身体に良いものなそうです。
戦働きで小一郎殿が弁当代わりに握り飯を持って行くような場合には、家に置いてある塩辛い味噌の方を握り飯にまぶしたりした方が塩気が有って宜しいが、家で毎日食べる汁もの等には与一郎が持って来た味噌を使った方が味が良くなるそうな。
与一郎が持って来たこの味噌とソウユは、見事な青色の焼き物の壺に入れられておるもので、しっかりとした蓋がついておるものでございました。
この蓋がまた見事な細工物で、少し捻って閉めるのでございますが、ソウユの黒い液体の入った壺が、万が一、倒れても漏れないようになっているのでございます。
また、味噌はそんなに簡単にこぼれるようなものではございませんが、余り長い時間空気にさらされていると味が変わるそうな。
そのために蓋で密封できるような壺がよいのだそうです。
このソウユと味噌については、与一郎は、何方から戴き、また、その使い方を誰から教わったのでございましょうか?
実家でもこのような味噌とソウユで味付けをしたことが有りませんけれど、実際に使ってみると実に美味しいものができあがり、食も捗るのです。
更には、悪阻で私が辛い時には、白い素焼きの湯飲みに入れた茶のようなものを私に勧めるのです。
色は薄い茶に似ていますけれど味は全く違うものですよ。
何というか後味がすっきりした果実の汁のような飲み物でございます。
この飲み物を飲むと不思議に悪阻が収まり、食欲も増すのでございます。
そうして、あるいはこの飲み物のお陰なのでしょうか、私の肌艶が随分と良くなりましたね。
そうそう、私と与一郎がこの今浜に参りましてからほぼ一年が経った頃合いに、待望の我が家が、今浜、いえ、・・・。
藤吉郎殿が『今浜』から『長浜』へと呼び名を変えたのでございますなぁ
その長浜城の城下町に家臣の屋敷が立ち並び始め、その中の大きな屋敷の一つに私達も済むようになったのでございます。
そうして、この時期に、藤吉郎殿と小一郎殿には随分と沢山の家臣が増えました。
確かに小一郎殿は、12万石の領地を治める大将格の藤吉郎殿の側近の家臣であって、八千石余りの家禄を食む身ですから、相応の家臣も持たねばなりません。
そのお陰もあるのでしょうか、私の周りにも小者や女衆など多数が増えました。
私は、それら屋敷に住まいする者を奥で管理する立場になったのでございます。
岐阜の長屋暮らしとは随分と周囲の環境が変わりましたが、小一郎殿が出世するならば、私もそれについて行かねばなりませぬ。
小一郎殿の跡目は、我が子で有って欲しいのですけれど、武家の習いで側室などを設けることもあるやに聞いております。
この戦国の世では、武家の家には男子が多ければ多いほど良いという風潮がありますから、正妻は取り敢えず私としても、小一郎殿がいずれ側室を迎えることになっても受忍しなければなりませんねぇ。
そうして時折与一郎が持ってくるソウユや味噌は、いつの間にか木下家秘伝のタレとなって、郎党や女衆にも知られて行くのですが、屋敷の外への持ち出しは厳禁とされています。
与一郎も他の方から譲り受けているのでございましょうから、木下家秘伝とするのはおかしいような気がするのですけれど、事実としてこの長浜では我が家の味噌やソウユは全く見かけないのでございます。
いったい、どこから仕入れているものやら、ほんに不思議な子です。
因みにこの秘伝のタレであるソウユや味噌を真似して作ろうとしても同じものは作れないようでございます。
場合により人死にを出すと脅されては誰も真似をしたり、外に持ち出そうとは思わないはずです。
こうして我が家の秘伝のタレは、長らくその秘密が守られました。
◇◇◇◇
今浜のお城が完成してからのことでございますが、義姉の寧々様や、ナカお義母様が岐阜から迎え入れられ、同時に藤吉郎殿所縁の縁者なども多数長浜に来たものですから、藤吉郎殿と小一郎殿の周囲はとても賑やかになってまいりましたね。
そんな中でも与一郎はすくすくと育っていますよ。
与一郎の弟小次郎も、天正4年6月に生まれて元気に育っています。
与一郎とは十歳も離れた弟ですけれど、まぎれもなく兄弟ですし、与一郎が良くあやしてくれるんです。
どんなにぐずっていても、与一郎があやすと途端に機嫌がよくなるんですから、小次郎はおにいちゃん子なのですね。
そうそう、天正三年卯月末の頃でしたか、与一郎が小一郎殿に願い出て、近在の子供たちのたまり場として、長浜のお城から一里ほど南にある手つかずの小山をお借りしたいと申し出て、藤吉郎殿まで上伸して認められたそうで、最近は専らそこまで通って何事かしているそうな。
一応、与一郎が外出する際には小者の一人を与一郎の周囲には付けていますけれど、その者の報告では、田村山北東部の原生林を囲って、その中に掘っ立て小屋を作り、子供達のたまり場にしているようなのです。
囲いの入り口には、「長浜蒼龍隊」との看板が立てられており、囲いの中は蒼龍隊の縄張りだと主張しているようでもあるそうな。
12歳の遊びたがり盛りですからね。
おそらくは似たような年齢の子供を集めて与一郎がガキ大将役をしているのかも知れません。
小者の報告では放置していても大丈夫という事でしたので、そのままにしております。




