プロローグ
その夜、残業を終えて会社を出たとき、街はいやに静かだった。
週末前の金曜だというのに人影はまばらで、風が乾いたビルの隙間を抜ける音だけが耳に残る。鞄の重さが肩に食い込み、「今日もよく働きました…お疲れさま」と心の中で棒読で自分に労いをかけた――その瞬間だ。
地面が、低く唸った。
最初は遠くの工事かと思ったが、すぐに違うと分かった。
舗道が波のようにうねり、電柱がぶるぶる震え、ビルがきしみを上げる。ガラスの破片がぱらぱら雨になって落ち、街灯の光がぐにゃりと歪んだ。
――やばい。
そう思うより早く、足元が裂けた。
アスファルトが音を立てて口を開け、俺はそのまま暗い割れ目へ滑り落ちる。手を伸ばしたが、掴めるものは何もない。視界が反転し、世界が黒に塗りつぶされた。
落下の風圧が頬を叩く――次の瞬間、すべてがふっと遠のいた。
……静かだ。
目は開いている、はず。けれど見えるのは完璧な暗闇。
呼吸は? 分からない。だけど苦しくない。不思議と、胸の奥があたたかい。
例えるなら、幼い頃、母の腕の中で寝落ちしたときの、あの包まれる感覚。いや、今これ、地震→落下→暗闇の三点セットなのに、落ち着いてる俺どうした。自分のメンタル、強化ガチャに当たったか?
状況を整理する。
俺は残業帰り→大地震→地面の亀裂に落下。はいここ。じゃあ今いるここは、その――裂け目の“中”? もしかしなくても、生き埋め? やめろ、そのワードはメンタルに悪い。
体を動かそうとする。……動かない。
いや、違う。腕も足も、感覚がない。代わりに“胴体”が長く続いていて、先端に“頭らしきもの”がある。何だこれ、人体の設計図を間違えたみたいな配置だ。
喉を鳴らしてみるが、声にならず、擦れた低い音が漏れただけ。ちょっと待って、俺のボイス機能どこいった。
このまま固まってても埒が明かない。わずかに体勢を――
ピキッ。
乾いた、小さな破裂音。すぐ近く、触れられそうな距離。
目の前の“壁”に、糸のような細い線が走っている。暗闇のくせに、その線だけはかすかに光を返した。今の、俺が動かしたから? 偶然? いや、もう一回だ。
ゆっくり、今度はさっきより意識して胴体をひねる。
パキ……ピキピキ。
連鎖する音。線が枝分かれし、蜘蛛の巣みたいな模様が広がっていく。外から、冷たい空気の匂いがわずかに流れ込んだ。
胸が高鳴る。――外だ。外がある。ここは壁の向こうで、俺はその内側にいる。
“いま”。
直感が背中を押す。頭を前にぐっと突き出した。
硬い何かが砕け、ひやりとした空気が顔に触れた。
光が、洪水みたいに押し寄せる。思わず目を細める――つもりが、うまくいかない。……まぶた、ない? まぶたを返してほしい。仕様ですかそうですか。
ずるり、と体が外へ滑り出る。冷たい石の床。湿った鉱物の匂い。遠くから、ぽたり、ぽたりと水滴の音。
天井と壁には薄緑の苔が張りついて、ほのかに光っていた。天然の非常灯。見た目は幻想的、湿気は現実的。
視界の端で、長い影がうねった。
反射的に身構える――が、それは俺自身だった。
地面に薄く溜まった水が、苔の光を受けて鏡みたいに揺れている。
そこに映ったのは、漆黒の鱗に白銀の粒を散らした長い胴体。
先端には小さな角のような突起が2つあり、二股の舌がちろりと覗く。
「……え、これ、俺?」
水面の中の“蛇”が、俺の動きに合わせて舌を出す。
疑う余地はなかった。俺は、蛇になっていたのだ。二股の舌がちろりと出て、空気の匂いを“味わう”感覚が脳に届く。
……蛇。
俺、蛇になってる。いやいやいや、就業形態だけじゃなく身体形態まで非正規にならなくてよくない?
外に放り出された事実と、己の姿が蛇という事実。
その二つが重なり、頭が一瞬、真っ白になった。
どれくらい呆けていたか分からない。ふと足元――いや胴元?――に目を落とすと、白い欠片が散らばっているのに気づいた。滑らかで、内側は半透明、ところどころ乳白色に光る。さっき俺が突き破って出てきた、“壁”の正体だ。
「これ、俺が出てきたやつ……ってことは、卵?」
言葉にしたつもりがシャーッと空気が抜けただけ。発声スキル、レベル1どころかゼロだな。
試しにその欠片を舌先で転がす。ひんやりしているのに、ほんのわずかに温もりが残っている。匂いは……悪くない。というか、ちょっと甘い?
理性が「食べ物じゃない」とブレーキを踏む。が、腹の奥――本能センサーがアクセルをガン踏みしてくる。
「……いやいや、マジで? これ食べ物なのか? ――まあ、本能に従って食っちゃえ!」
意を決し、欠片を口に含む。
コリッ。 軽い歯ざわり。噛むと、意外にも柔らかい。ミルク飴をうんと薄くしたような、かすかな甘さが舌に広がった。イメージしてた“石の味”とは真逆だ。健康食品かな? “カルシウム、足りてますか?”ってポスターが脳裏をよぎる。
飲み込んだ途端、胃の奥に小さな灯りがともる。
鱗の下を、微細な火花が駆けるみたいに温かさが走った――と、頭の中で澄んだ声が鳴る。
《魔力を獲得しました魔力が極小増加しました》
……え? 今の、ナレーション? 俺の脳内アナウンス?
「魔力」って、ゲームのあのMPのやつ? いやいや、蛇が魔法ってお前、ファンタジーの教科書でも読んだ?
混乱と好奇心が綱引きする中、俺は残りの殻を見つめた。
さっきまで“壁”だと思ってたやつを、自分で食べる。字面だけで事件だ。でも――
「一欠片食べただけで極小って事は全部食べたら…ここまで来たら完食だ。どうせならボーナス全部もらってやる」
呆れ半分、期待半分で、舌先で欠片を集め、次々とかじる。
パリ、コリ、パリ。食べるたび、体の芯がぽうっと明るくなる。
遠くの水滴の音が、だんだんクリアに聞こえてくる。光苔の明るさまで、わずかに強まった気がするのは気のせいか。
最後のひとかけらを嚙み砕いた瞬間、頭の中の“声”がはっきりと響いた。
《魔力が大幅に増加しました。》
はあ!? 大幅って……いや、期待はしてたけど初日から景気よすぎない?」
思わずツッコみつつ、俺は舌で床を軽くなぞった。
――石はただの石、苔は……うん、ただの苔っぽい。
「なるほど、何でもかんでも食えばパワーアップって訳じゃないのか。
さっきのは“特別ボーナス”ってやつか……よし、覚えとこう」声を出したつもりがやはり出たのはやっぱりシャー音。蛇の発声…学習コスト、高いな……。
体の内側を、温かい何かがゆっくり循環している。
これが“魔力”――なのかもしれない。
ただ、その正体も、どのくらいあるのかも、どう使えばいいのかも、まったく分からない。
自己確認をしていたそのとき、天井の苔がかすかに揺れ、
どこかで小さな物音がした。
――キュッ。
耳の代わりに皮膚感覚が拾った、高い鳴き声。
ネズミ? いや、たぶん“最初の相手”だ。
「サービス開始早々チュートリアル戦闘か。運営、手厚いじゃん」
冗談で自分を落ち着かせつつ、俺は長い胴を低く構え、二股の舌で空気を味わった。
腹の奥には、さっき殻を食べたときに得た“何か”が確かにある。
それが魔力なのか、ただのエネルギーなのか――答えはまだ出ない。
けれど、不思議と体は軽く、どこか頼もしかった。
「魔力は……十分。まぶたはない。だけど、生き残る準備はできている。」
蛇の口から出たのは、やっぱりシャーッという音だけ。
それでも俺の心は、確かに次へ進む覚悟を決めていた。