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第1話 プロローグ

 午前3時。コンビニの冷蔵庫から立ち上る冷気が、油と漂白剤の混ざった空気を切り裂くように流れた。


 高田悠也たかだゆうやは無言で棚に商品を詰めながら、背中の汗がシャツに張りつく感触に顔をしかめた。冷房は壊れている。いや、正確には「壊れていることになっている」。オーナーが電気代をケチって、設定温度を29度に固定しているのだ。


 「高田くんさぁ、補充の順番守ってよ。先にアイスって言ったよね?」


 背後からぬるい声が降ってきた。パート歴10年のベテラン主婦こと吉田が、腕を組んで仁王立ちしている。


 「……すみません」


 蚊の鳴くような声で謝ると、吉田は満足げに鼻を鳴らし、レジに戻っていった。悠也は棚にしゃがみ込み、アイスの段ボールに手を突っ込む。溶けかけのチョコモナカが、冷たさよりも粘つく湿気をまとって指先に触れた。


 「なんなんだよ、もう……」


 呟きは誰にも届かない。監視カメラの死角でそっとため息を吐く。背後では店内BGMが、明るく「今日も一日、お疲れ様でした」と繰り返している。皮肉でしかない。


 夜勤のバイトは、始めてもう3年になる。


 高卒で就職した配送会社は、1年で辞めた。朝から晩までダンボールを運び、罵声を浴び、3分間でカップラーメンをすすってまた車に乗る生活。向いてないとか、そんなレベルじゃなかった。生きてる実感がなかった。


 コンビニのバイトは「まだマシ」に思えた。座れるし、空調もあるし、客と会話なんてほとんどない。楽して金がもらえる。最初はそう思ってた。


 でも、気がつけば1年。2年。そして3年。手取りは月12万ちょっと。ボロアパートの家賃とスマホ代を引けば、何も残らない。


 実家に帰る選択肢もない。母親とは連絡を絶っていた。毎回電話のたびに「いつ就職するの」「資格は取らないの」と詰められる。そんな声を聞くだけで、胃がキリキリと痛むのだ。


 午前5時、新聞配達の男が「いつもありがとね」と言いながら店の前に現れた。無表情でうなずき、悠也はレジに戻る。外は少し明るくなってきている。空がほんのりと青く染まり始めていた。


 ふとスマホを取り出し、ロッカーの陰でXを開いた。

 流れてきたのは、若い男が高層マンションの一室で札束を広げて笑っている動画だった。


 《学歴も就職も興味なかった。“動かす側”に回っただけ》


 あふれ返る札束。ブランドの時計、スニーカー、薄いMacBook。

 背景には、東京の夜景がキラキラと映っていた。


 悠也は一瞬だけ、スマホを見つめる指を止めた。


 「……なにこれ、うさんくさ」


 そう呟いてから、もう一度動画を再生した。今度は無音で。

 コメント欄には「詐欺乙」「でもマジで稼げてるのは事実」といった言葉が並んでいる。


 その中にひとつだけ、気になるリプがあった。


 >「やるかやらないかだけ。俺はこれを初めて3ヶ月でバイト辞めた。」


 悠也は目を細めた。

 どこか胸の奥に、小さな火が灯った気がした。

 それは希望なのか、妬みなのか、それすらわからない。


 「高田くーん! トイレ掃除やったー?」


 また吉田の声だ。現実に引き戻され、悠也はロッカーにスマホを突っ込む。


 「はい、今行きます」


 すっかり温くなったアイスコーヒーを一口すすり、悠也はモップを手に取った。


 夜が終わる。何も変わらないまま、新しい朝が来る。でも心のどこかで、何かがわずかに、軋んでいた。

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