≪第十話≫ その2 No.11-Ⅱ
≪第十話≫ その2 No.11-Ⅱ
翌朝、少し小雨が降っていた。俊高に指示された様に四軍は其々の方面から、一斉に攻撃を開始し出した。これもまた俊高に指示されていた事であったが、狼煙用の乾燥蓬を煙幕代りに焚いて、更に太鼓・鐘・木撥などを叩いて敵の目をこちらが側に向けさせた。
荒田照美は、昨日から稲島方が天神山城周辺を取り囲んだのを見て、俊高の性分では白根城が落ちる前にこの城を落としに来るはずである事も一様読んでいた。
しかし、いくら戦の天才・希代の強者でも築城後400年間、一度も落城していないこの城を7日、10日で落とせるはずはないし、斎藤氏との密約で半月は耐えて欲しいとの願いもあったので、防備には力を入れた。
まして、俊高が心低、可愛がっている妹・三和がこちらの懐の中にいるのである。まだ若い俊高が三和を見殺しに出来るほど、非情になってはいないと確信していた。
小雨の朝、天神山城の天主にいた照美は、山下から聞こえて来る騒がしい軍勢の雄叫びと太鼓や鐘の音で目が覚めた。
「何事か!?」と床から跳ね起きたが、稲島軍の四方からの総攻撃と判り、いよいよ来たなと天守から周りを見渡した。
城に入る時、正室を実家の三条に子供らと帰らせたが、長い籠城戦となる事を見越し、若い側室二人と侍女たち数名と共にここ天守に籠っていた。また、いざとなれば命の駆引きとなる人質の三和も手足を縛ってここにおいた。
万が一一途な娘故、舌でも噛まれて自害されたらと案じ、猿轡もさせていた。さすがに三和自身も慕っていた和久・雅代夫婦が目の前で殺戮された衝撃は大きく、食も取らず、日中の殆んどを隅で横になっていた。
この越後の古城・天神山城は、弥彦連山の中にあって、海抜234mの山肌に堅固な要塞を築いたもので、史実によれば仁平3年(1153年)、源頼行が築城して小国氏と号し、天正10年(1582年)、直江兼続の弟・樋口与七実頼が小国氏の養子と成り、後に『大国』と改名して最期の城主となった。
慶長3年(1598年)主家の上杉家が会津若松に移封となり、445年間続いた城も廃城になった。
俊高は昨日の戦評定をおえた後、直ぐに疾風の透太を呼んだ。朱鷺の権坐が白根方面の偵察に関わっていたので、この戦は息子の透太が忍び衆をまとめていた。昨年の亀城攻防戦の折、大杉の天辺に印の小旗を掲げる役目であった石目が、敵の忍びに倒されていたので、今居る権坐の下忍は5人であった。権坐と鷹の目は、斎藤勢の監視で動き、透太・朱音・蛍火・銅丸の4人は昨夜から俊高の指示で天神山城本丸突入の準備をしていた。
俊高・高喜兄弟は、真島良高・笹川行充・他18人を伴い、福井砦を騎馬で真夜中に出立し、明け方には海沿いの間瀬を抜けて、多宝山の山道を進んでいた。各々が背中に枝木の束を背負い、腰には幾つもの油袋をぶら下げていた。
また肩には俊高が考案した矢先に練り油を仕込んだ弓を持ち、敵に見つからない様に、全身に小枝を巻いた。味方の総攻撃の前には、約束していた尾根に着き、透太達と合流出来た。
この朝、四方からの稲島軍攻撃が始まって、1刻(2時間)が過ぎていた。城方はこの城が容易に落ちぬ事を皆知っていたし、敵も中々攻め切れないでいると感じ始めた頃、西側の腰郭を担当していた信政率いる柿島・高野勢が一気に「ワーワー」と声を張り上げて400人近くが山を登り始めた。ここを突破されると本丸に直結するので、城側は驚いて味方の守りの数を補足した。
荒田照美も報告を受けて下に降りたが、半数以上が岩室の兵士達で斜に無に攻め懸る様子を観て、俊高の狙いがここかと思い、直ぐに本丸にいた50人の内、20人を寄こし、必死に守らせた。朝からの小雨で足場は悪かったので、敵も味方も足を滑らしながら戦っていた。




