【第9話】過去と敵
第九話です。お読みいただきありがとうございます。
今回から、敵がぐっと近くなります。
これまで「鬼」は、どこか遠い災厄でした。
倒すべき相手。線の向こう側にいる存在。
でも今回、その線が崩れます。
向かい合った鬼の顔に、翔一は見覚えがあった。
南海も、友紀も、知っていた。
——同じ中学にいた。同じ教室で笑っていた。同じように怒られていた。
敵は、最初から怪物だったわけじゃない。
そのことに気づいてしまった時、彼らはどう戦うのか。
「知ったからこそ、見過ごせない」
理解と、許しは違う。
同情と、見逃しは違う。
そのギリギリの線で、十彩獣団が初めて「十人で」立ちます。
それでは、第九話「過去と敵」、どうぞ。
その鬼の顔を、翔一は知っていた。
黒と深紅の鬼気をまとった剣士。黄緑の光を弾けさせる、もう一体。
敵だ。間違いなく、敵だ。
——なのに、翔一の口は、戦う前から別の言葉を探していた。
「……矢地。お前、矢地遥だろ」
夕暮れの赤が、壊れた交差路のひびに沈んでいた。
人気の消えた商業エリアは、もう街の顔をしていない。
歪んだシャッター。砕けたガラス。
風に鳴る看板だけが、かろうじてここが人の場所だったことを覚えている。
どこかで空き缶が転がった。
乾いた音が、やけに遠くまで響く。
その音すら、翔一の耳には届いていなかった。
彼の目は、黄緑の鬼の奥——そこに沈んだ昔の名前だけを見ていた。
慎悟は、ひとつ息を吸う。
十人は、自然に三層へ分かれていた。
前に慎悟、健太、翔一。
その後ろに友紀、蓮、綾実。
さらに後方で、南海、歩美、翼、伊織が陵矢と桜茄を守る。
出来たばかりの陣形だった。
それでも妙にしっくりきた。
誰が前に立つか。
誰が崩れを止めるか。
誰が背を預かり、誰が未来を残すか。
それが噛み合った瞬間、ただの集まりは隊になる。
牙蓮が、巨大な刀を肩に担いだまま笑った。
「へえ。やっと隊らしくなったじゃない」
黒と深紅の鬼気が、陽炎みたいに揺れる。
その後ろで、翠羅が吐き捨てた。
「形だけでしょ。まとめて斬れば同じ」
その声で、翔一の顔から軽さが消えた。
目の奥だけが、すっと冷える。
烈翔棍を下ろさないまま、翔一はもう一度、その名を口にする。
「とぼけんなよ。南中の女子テニス部。ショートで、日に焼けてて、負けず嫌いで……負けた日ほど、次の日に早く来てた」
翔一が半歩、前へ出る。
「矢地遥。お前だ」
空気が止まった。
風が、途切れる。
誰かの呼吸だけが妙に大きく聞こえた。
翠羅の眉が、わずかに跳ねる。
「は? 誰それ」
翠羅は笑った。
ひび割れたガラスみたいな、乾いた笑いだった。
「だったら?」
その一言で、友紀の胸に冷たいものが落ちた。
夏のコート。
白線際を滑る球。
焼けた地面の匂い。
汗で湿ったラケットグリップ。
ネットの向こうで、悔しさを隠しもせず睨み返してきた、小柄な少女。
南海も思い出したのだろう。
桃麗刀を握る指に、きゅっと力が入る。
「遥ちゃん……」
敵に向けるには、あまりにも昔の呼び方だった。
翠羅の顔が露骨に歪む。
「その名前で呼ばないで」
低い声だった。
怒鳴っているわけじゃない。
押し潰しそこねた痛みが、底に張りついていた。
「何、その顔。かわいそうって言いたいの? 昔の知り合いだから、まだ戻れるって? ……虫唾が走る」
南海は、すぐに返せなかった。
優しいからじゃない。
知ってしまったからだ。
目の前にいるのは、最初からの怪物じゃない。
同じ学校の空気を吸って、同じように怒られて、同じように未来を値踏みされていた、ひとりの少女の成れの果てだ。
友紀の視線が牙蓮へ向く。
「……じゃあ、あんたも」
長身の鬼剣士は、舞台の中央に立つ役者みたいに余裕を崩さない。
だがその輪郭のどこかに、友紀は確かな既視感を見つけていた。
前へ出る脚力。
負けても折れない目。
叩かれても噛みつく意地。
南海が息を呑む。
「……美和さん」
牙蓮の唇が、ゆっくり吊り上がった。
「正解」
たった一言。
それだけで、戦場の意味が変わる。
敵は遠い怪物じゃない。
別の世界から湧いた災厄でもない。
元人間。
それも、自分たちと同じ制度の中で、怒鳴られ、比べられ、こぼれ落ちていった"誰か"だ。
蓮が目を細める。
「……仮説が確定したな」
翼も低く続けた。
「坂口利久殺害。舟津留美殺害。警官殺害。全部つながる。犯人は鬼じゃない。人間のまま壊されて、鬼になった連中だ」
牙蓮が笑う。
「便利ね、その言い方。元人間。元生徒。元被害者。で? 少しは情けをかけるの?」
「かけない」
友紀は即答した。
「でも、見え方は変わる」
「優しいのね」
「違う」
短い声だった。
熱い。
でも、ぶれない。
「あんたたちが最初から怪物だったわけじゃない。そこを見ないまま斬ったら、何も残らない」
牙蓮の目が細くなる。
「知った上で、戦う気?」
「戦う」
友紀は一歩も引かなかった。
「知ったからこそ、見過ごせない」
その言葉を、南海が引き取る。
「あたしたち、覚えてる。試合のあと……先生に怒鳴られてたよね」
牙蓮の笑みが消えた。
南海は迷いながら、それでも目を逸らさない。
「叱るんじゃなかった。傷つけるための言い方だった。あたしたち、見てたのに……何もできなかった」
風が吹いた。
砂埃が足元を撫でる。
牙蓮は少し黙ってから、肩を揺らして笑った。
「……それで?」
軽い声なのに、背筋が冷えた。
「見てたから何。何もできなかったから何。助けてくれた? 止めてくれた? 教師も、母親も、学校も――誰も」
刀の切っ先が、十彩獣団をゆっくりなぞる。
「いなかったよ。誰も」
南海の脳裏を、ひとつの景色がよぎった。
閉まりきらない職員室の扉。
その隙間から漏れる低い声。
――そんな根性だから勝てないのよ。
――みっともない。
――存在が恥ずかしいの。
返事はない。
ただ、歯を食いしばる気配だけがある。
次の瞬間、記憶は消えた。
なのに痛みだけが残った。
歩美が息を呑み、綾実は目を伏せる。
伊織の指が、弦の上で静かに固くなる。
そこへ、翠羅が堰を切ったみたいに叫んだ。
「私は違う!」
黄緑の鬼気が弾ける。
「私は、認められたかっただけ! ちゃんとやってるって、必要だって、誰かに言ってほしかっただけ!」
怒声ではなかった。
悲鳴だった。
「先生は怒鳴るし、高校行っても居場所ないし、どこ行っても"足りない"って言われるし! 頑張っても、頑張っても、まだ足りないって!」
断片が、彼女の叫びと一緒に散る。
冷えた部室。
濡れたラケットケース。
未読のないスマホ。
掲示板に貼られた進路希望。
自分の名前の横にだけ空いている、何もない余白。
そして、耳元に落ちた甘い声。
――お前には役割がある。
――進学でも就職でもない。
――お前を選ばなかった世界を、今度はお前が選べ。
翠羅の目がぎらつく。
「そんな時に、美里様だけが言ったの! お前には意味があるって!」
翼が、冷たく言った。
「救済じゃない。選別だ」
蓮が続ける。
「居場所じゃない。利用価値だ」
「それでも、無いよりマシだった!」
翠羅が噛みつく。
「人間のままの私には、何もなかった!」
「あった」
翔一だった。
全員の視線が集まる。
いつもなら、茶化して空気を逃がす男が、今日は逃げない。
「あった。ゼロじゃなかった」
「知ったようなこと言わないで!」
「知ってる」
笑わないまま、翔一は言った。
「同じ南中だったろ。仲良かったわけじゃねえ。けど見てた。教室で笑ってた時、あったろ。ムキになってた時もあったろ。ダサいことで腹立てて、それでも次の日には学校に来てた。……それ、ゼロじゃねえだろ」
牙蓮の眉が、わずかに動く。
「それが何」
牙蓮の声が沈む。
翔一は、真正面から言い切った。
「辛かったのは分かる。ムカついてたのも分かる。けど、それを理由に今を斬るのは違う」
守られる位置で、陵矢と桜茄が息を止める。
自分たちの未来が、いまこの場の刃先にあると分かったのだ。
牙蓮はしばらく翔一を見つめ、やがて喉の奥で笑った。
「ほんと、嫌な奴」
「褒め言葉?」
「最大級のね」
そのやり取りの裏で、友紀は確信する。
やはりそうだ。
鬼は、最初から鬼だったんじゃない。
元は、自分たちと同じ場所にいた。
「……同じだったんだ」
自分に言い聞かせるように、友紀が呟く。
翠羅が唸る。
「同じにしないで。私はもう、お前たちとは違う」
「違うよ」
友紀は否定しない。
否定しないまま、踏み込む。
「違う。でも、"最初から別の生き物だった"わけじゃない」
赤い霊光が、彼女の周囲で燃え上がる。
「そこから目を逸らしたら、あんたたちが何でこうなったのか、もう誰にも分からなくなる」
南海も、そっと桃麗刀を構え直した。
「理解したいとは思う。でも、許すのとは違う」
その声は優しかった。
けれど逃がさない。
「美和さん。遥ちゃん。つらかったことも、苦しかったことも、本当だったと思う。なかったことにはしない」
牙蓮も翠羅も黙って聞く。
「でも、その痛みで誰かの明日を潰すなら……あたしたちは止める」
牙蓮の鬼気が、ひときわ膨れ上がった。
「そういうの、一番嫌い。踏み越えなかった側の理屈にしか聞こえない」
「じゃあ、あんたたちは何を踏み越えた」
慎悟が、初めて口を開いた。
静かな声だった。
なのに、その一言で戦場の中心が動く。
誰もが無意識に、慎悟を見る。
「痛みか。怒りか。……それとも、自分は人を壊していいっていう線か」
牙蓮の視線が慎悟に止まる。
「偉そうに」
「偉くはない」
慎悟は蒼王を構えた。
切っ先が、ぶれない。
「俺だって、違う一歩を踏んでたら、お前たちを責められなかったかもしれない」
その場の空気が、わずかに変わる。
友紀が息を呑み、南海が目を見開く。
慎悟は続けた。
「分かるよ。消えたくなる気持ちも、全部壊したくなる瞬間も」
それは綺麗な共感じゃなかった。
自分の中にもある暗さを、ちゃんと知っている声だった。
「でも」
慎悟の声が、硬くなる。
「消えたんじゃない。消したんだ」
牙蓮の笑みが、止まる。
「誰かに選ばれなかったからって、そこで終わりじゃない。
鬼になる力も、救われる言葉も、免罪符にはならない」
蒼い霊光が、刃の上を走る。
「俺たちの力は、選ばれた証拠じゃない」
一拍。
「――選ぶ覚悟の置き場所だ」
友紀の瞳が燃える。
南海の呼吸が深くなる。
蓮の視線が鋭く澄み、翼が静かに札を指に挟む。
健太が一歩前へ出て、地面が鳴った。
翠羅が歯を剥く。
「綺麗事……!」
「綺麗じゃないから、止めるんだ」
慎悟は短く言った。
「行くぞ」
その声で、十人が同時に動いた。
最初に放たれたのは、伊織の矢だった。
叫びはない。
白い閃きだけが走る。
一本は牙蓮の視界を裂き、もう一本は翠羅の利き腕の軌道を奪う。
次の瞬間、翼の札が砕けたアスファルトに散った。
交差路の陰がずれ、足場の感覚が狂う。
踏み込んだはずの一歩が、半歩ぶん遅れる。
その遅れを、蓮は見逃さない。
蒼流槍が水のように滑った。
受けない。
押し返さない。
ただ半歩ずらし、角度を殺し、最短で突きを通す。
翠羅が舌打ちし、体勢を崩す。
その崩れを綾実が見ていた。
紫舞盾が、味方の死角にすっと差し込まれる。
牙蓮の返しの刃がそこへ叩きつけられ、鈍い音を立てた。
暴れる力を、綾実は派手に受けない。
崩れる未来だけを先に塞ぐ。
「右、空く」
短い警告と同時に、友紀が飛び込んだ。
朱迅剣は迷わない。
横腹。
死角。
隙間。
燃えるような踏み込みが翠羅の懐を裂き、返す刃が牙蓮の進路を削る。
翔一はその上を行く。
ひび割れた車の屋根を蹴り、上空から烈翔棍を叩き込む。
荒い。
けれど狙いは鋭い。
止まった空気そのものを殴り壊す一撃だった。
「固まってんじゃねえよ!」
軽口の直後、本気の衝撃が落ちる。
翠羅が後ろへ吹き飛ぶ。
そこへ南海が滑り込んだ。
桃麗刀は真正面から潰さない。
受け、流し、包む。
牙蓮の重い一撃をわずかに外へ泳がせ、そのまま肘の角度を断ち切るみたいに刀身を返す。
南海の目が揺れる。
それでも刃は止まらない。
「……苦しかったよね」
かすれた声で言って、
「でも、だからこそ止める」
その一太刀が、牙蓮の鬼気を浅く裂いた。
健太が前に立つ。
玄牙棒が地面に叩きつけられ、交差路が揺れた。
重い。
速くはない。
だが、その一歩で敵の前進が止まる。
牙蓮が力で押し切ろうとした瞬間、健太は膝を沈めたまま踏ん張った。
背後に誰かがいる時の強さを、その背中が語る。
歩美は後方で札を走らせる。
陵矢と桜茄の周囲に光が張る。
同時に、友紀の掠った腕へ札がひとつ飛び、熱を持った傷がすっと鎮まる。
誰よりも先に痛みを見つけ、誰よりも早く立て直す。
歩美の支えは、派手じゃない。
でも戦場の呼吸を止めない。
十人の色が、ばらばらに光っているのに、意志はひとつだった。
慎悟が先頭へ出る。
牙蓮の大刀が振り下ろされる。
真正面。
逃げ場なし。
蒼王が、それを受けた。
轟音。
砕けたアスファルトが跳ねる。
重い。
腕が痺れる。
膝が沈む。
それでも慎悟は退かない。
受け止める。
ここで止める。
そこから全員の流れを作る。
「翔一、上!」
「了解!」
「蓮、左殺せ!」
「もう殺してる」
「友紀、突き抜けろ!」
「言われなくても!」
短い号令に、全員の呼吸が揃う。
赤が裂き、橙が叩き、桃が流し、水色が刺す。
緑が戦場を組み替え、紫が崩れを縫い、黄がつなぎ、白が雑音を消し、黒が止める。
十彩獣団は、初めて"十人で戦っている形"になっていた。
その中心で、慎悟は牙蓮の刃を押し返す。
牙蓮の口元が、ふっと笑った。
不意に。
その笑いだけで、慎悟の背筋を嫌なものが走る。
「……何だ」
「やっと証明してくれた」
牙蓮は、受け止められた刀の向こうで楽しそうに言う。
「でもさ。証明の相手、私たちだけだと思った?」
綾実がはっと顔を上げた。
「待って――」
壊れたビルのガラス面に、黒い紋が浮かぶ。
一瞬だった。
見間違いみたいに薄い。
それなのに、見た全員の体温が落ちた。
まず、追撃の足が止まった。
見えない壁が立ったみたいに、空気が重い。
次に、どこからともなく白い霧がこぼれる。
薄い。
静かだ。
なのに、吸い込めば何かを鈍らせそうな冷たさがある。
最後に。
交差路のいちばん奥、夕暮れの赤が届かない場所で、音が消えた。
風の鳴りも、瓦礫の軋みも、誰かの呼吸すら遠のく。
そこにいる。
まだ姿もはっきりしないのに、そう分かった。
慎悟のこめかみを、冷たい汗が伝う。
十人で立てた。
噛み合った。
ようやく隊になれた。
なのに――
本当の戦いは、まだこちらを見下ろしている。
友紀が息を詰め、南海が刀を握り直す。
翔一の笑いは消え、翼の指先の札がわずかに震えた。
綾実だけが、青ざめたまま前を見ている。
「……来る」
夕暮れの交差路に、満ちかけた勝機はまだ残っていた。
けれど、その上からもっと大きな不安が、ゆっくりと覆いかぶさってくる。
慎悟は蒼王を握り直す。
折れない。
退かない。
それでも、これは始まりだ。
黒い紋が、もう一度だけ脈打った。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、書いていていちばん手が震えた回でした。
敵を「かわいそうな元人間」として描くのは、簡単です。
でも、それだけだと物語が湿る。
逆に「だから何だ、斬る」だけでも、薄っぺらくなる。
その間のどこかに、本当に描きたい一行がありました。
「知ったからこそ、見過ごせない」
友紀のこの台詞と、慎悟の——
「俺たちの力は、選ばれた証拠じゃない。選ぶ覚悟の置き場所だ」
この二つが噛み合った瞬間、ようやく十彩獣団は「集まり」から「隊」になれた気がします。
牙蓮=美和、翠羅=遥。
二人とも、どこにでもいた子です。
頑張っても足りないと言われ続けて、こぼれ落ちた子です。
金津美里の「第三の進路」は、そういう子に手を差し伸べる顔をして、ただ利用する。
救済じゃない。選別だ。
そこに、慎悟たちは抗います。
そして——勝ちかけた、まさにその瞬間。
黒い紋が、もう一度脈打ちました。
本当の戦いは、まだこちらを見下ろしている。
次回、その「奥」にいた者が動き出します。
更新を待っていてくださると、書く手が速くなります。
ブックマーク・評価、感想、本当に励みになっています。
それでは、また次回でお会いしましょう。




