第三話 雑魚雑魚、ざーこざこ
僕は勉強しか取り柄がない。学校が始まる一時間前から図書室に篭り、教科書の内容を理解する為に時間を費やす。朝食なんて10秒でチャージ出来るゼリーとカロリーメイトしか食っていない。
夜更かしする事も多いから、飲み物としてのエナドリは必需品だった。ずっとそのような認識下でいたから、東雲家の朝食には驚かされる。パンと目玉焼きとコーンスープとコーヒー。
こんなものを呑気に食べていたら時間を失う。飯なんて片手でサクッとつまめるようなもので充分だ。しかし、ここで文句を言ったり可笑しな食べ方をしたら嫌われる可能性が高い。本音をグッと堪え、パンを口に入れた。
味は普通だった。格別に美味しくもなく、不味くもない。東雲未来もそう思っているのか、眉ひとつ動かさなかった。遥香さんも昨日の件を反省してか、安易に口を開く事もなく淡々と箸を進めている。
「ご馳走様でした..」
沈黙に耐えかね、一番早く食べ終えたのは僕だった。自分の食器を洗い終え、洗面所に向かう。歯ブラシは昨日遥香さんに教えて貰った通りの場所にある。
身支度を手早く済ませ、制服に身を包む。高校のバッグはあるが、肝心の参考書は....。
「そういえば、皆川くん。昨日仕事帰りに、マンションの受付の人から私宛のでかい紙袋を受け取ったんだけど、中に数学の参考書とか沢山入っててね。唯一心当たりがあるとすればなんだけど....」
「あ..。多分、僕に直接会うのが気まずい父が寄越したんだと思います。中に青チャとか入ってたら自分のです..」
「うーん。青チャって言われても私分からないから、確認してくれる?」
嘘だろ。この世に青チャート知らない人間なんて存在するのか? 理系から脱落した人間も数llBCまでは学習するはずだ。遥香さん、まともな人だと思ってたのに..。
♢
紙袋の中身は僕の参考書で相違なかった。父からの手紙とかは特にない。達者でなくらいの一言はあっても良いと思うのだが、あれはそんな気が利く人間でない事を僕はよく知っている。
それよりも、今日は物理の気分だ。物理のエッセンスと関連する教科書をバッグに詰め込み、シャーペンと消しゴムを筆記用具にぶち込んで登校しようとした、その時だった。
「ねぇ待ってよ。私まだ食べ終わってないんだけど」
東雲未来が、僕の行動を邪魔してきた。
「なんで君の完食を待たなきゃいけないの?」
「そんなの決まっているじゃない。一緒に登校しようよ」
「あらあら! いつの間にそんな仲良くなったの!?」
これには遥香さんも大喜びだったが、僕の脳内は疑問符で埋め尽くされた。昨日まであんな自分を嫌い、雑魚呼ばわりしてきたあいつがしてくる提案とは考えにくかった。きっと何か裏があるに違いない。
そう考え始めた結果、筋書きはおおよそ理解できた。彼女の提案に乗ったが最後、『そんなに私と登校したかったの? ただの冗談を間に受けちゃって。本当に、雑魚なんだから』って煽られてお終いだ。故にここでの選択は、彼女を無視し高校に行くが正解、そう、正解ーー
♢
「自分さ、結構準備に時間かかる方なんだけどぉ..。いじらしく待って。そんなに私と登校したかったの? ただの冗談を間に受けちゃって。本当に、雑魚なんだから」
「うぇっへへ..」
「何よ変な笑い方して。気持ち悪いわね」
頭では間違いだと分かっていたが、僕と東雲未来が仲良くなる事を期待している遥香さんを裏切るわけにはいかなかった。こういうのは初めが肝心だ。
異性相手だからと過度に動揺したり、恥ずかしがっていても仕方がない。僕とて腹は括った。今、東雲未来は僕を煽る事しか頭に無いだろうから、この機会を最大限利用してやる。
「東雲さんってさ、僕の事よく雑魚呼ばわりするけど。え、えと....。ざ、雑魚の定義って何..?」
「私から見て、弱いか、弱くないか」
「え....、じ、じゃあ、僕は、弱い......」
「うん。本当に、今まで見てきた人間の中で君は一番雑魚だよ」
「....」
やはり、こういう日常的に考える事をしない頭の腐った人間は、自分中心でしか物事を判断できない。彼女の主観で一方的に殴られ続けるのも不愉快だし、そろそろ反論しようか。
「え、えと....」
言うんだ。自分が雑魚でない事を示す客観的なデータ。全国模試で数学と物理の偏差値が70を超えた事とか、国立理系単科大学を志望している事とかーー
「うん。僕は、やっぱり雑魚じゃない。だって....」
その次の瞬間だった。マンションのエレベーターホールで、僕よりも少し身長の高い東雲未来は、自分の肩を鷲掴みにして動きを封じた。突然の出来事に動転し、どんどん迫ってくる彼女の顔から目線が反らせなくなる。
甘い匂いがした。体温を感じる距離感で、彼女の吐息が僕の耳をくすぐる。そのせいで更に調子が狂い、全身から冷や汗が溢れ、心拍数が急激に上昇した負荷で意識が軽く遠のいた。
そんな僕の脳の縁を撫で回すように、東雲未来は耳元でひっそりと囁いた。
「否定しても無駄だよ。こんな事で動揺してる。だから君は、”雑魚”なんだよ」
「うぅ....」
「もう一度言ってあげようか。”雑魚”。”雑魚”。ざーこざこ..」
「あっ....。や、やめろよ..! いくらなんでも揶揄いすぎだ!!」
かろうじて動くようになった腕で東雲未来の肩を突き飛ばし、距離を置いて冷静さを取り戻すために深呼吸した。なのに、耳元にまだ彼女の台詞がこびりついて離れない。頭を揺さぶっても徒労に終わった。
「....やめてよ」
まただ。二度も東雲未来の前で泣くのは嫌で、涙が溢れないよう必死で堪えた。そんな僕の様子を彼女は面白がっている。そう考えると今度は虚しくなり、気持ちも萎えていった。
冷静に考えて、東雲未来にここまで嘲笑されるほど、僕は雑魚なのかもしれない。なら強くなんなきゃダメだ。そんな漠然とした思いが芽生えるのは久しぶりだった。自分らしくもない。
筋肉を肥大化させて見せびらかしたり、どうせプロにはなれないくせに部活動に打ち込んだり、そんなものを青春と呼ぶ社会構造は合理的じゃない。頭は悪い癖に声だけでかい体育会系の脳筋が作り出した幻想だ。
僕はたまたま、彼女の主観による弱さに当てはまっているだけ。何も変わらなくて良い。
僕はーー
「あれれ..? もしかして、また泣いてるのかなぁ。雑魚って言われたのが悔しくて、自分変えたいとか思っちゃった? ふふ、弱いくせに頑張っちゃって、本当にいじらしいね。雑魚くん」
まだ、変わらなくて良いか..。




