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第一話 ヒロインの名前を覚えました

 この世界は単純だ。社会の規則を利用し上手く立ち回れば簡単に欲しいものが手に入る。学歴も金も、名声も集められる。俺にとって周りの人間は、群れたがりの蠅に見えて仕方がない。


「フヘッ..。クラスの雑魚どもが、将来は一生俺にひれ伏せ..。(小声)」


 人気のない夜の公園で、誰にも気付かれないように小声で囁いたはずだった。それなのにー


「ん? 君、同じクラスの皆川みなかわじゃん」


 今思い返せばあれが、傲慢で思い上がりで、ダサい自分を変えるきっかけとなった出来事だった。



「き、聞いてた..?」


「うん。再現してあげようか?『フヘッ..。雑魚どーー


「うわああ! やめてくれよ!!」


 よりによってこんな奴..。集団の中でちょっと秀でてるからって、ボス猿気取りの典型的一軍女子だ。入学して1ヶ月経ったけど、名前はまだ覚えていない。


「....そう? なら仕方ない。特別に、やめてあげるよ」


 高一なのに、既に大学生並みに垢抜けている。髪も金髪だし、スカートの丈も短いし。というか何で、こんな夜中に制服着てるんだよ? 不良に絡まれると碌な事がない..。


「じ、じゃあもう帰るわ..。お休み」


 踵を返して遠ざかろうとした。そんな僕の手をゴリラ並みの握力で掴み、不良は表情を固くした。


「え? まさかだけど、何も言わないでしれっと帰るつもり? ”私達”がなんで貴方にひれ伏さなきゃいけないのかさっぱり分からない。謝ってよ」


「....ご、ごめ」


「何? なんて言ってるか全然聞こえないんだけど」


「ご....ごめんなさ、い....」


 あまりの剣幕に、不意に涙が漏れた。中学受験対策の猛勉強を強いてきた母の怒声、塾講師の罵声。それらが積もり重なって、自分は威圧的な人に拒絶反応を示してしまう。


「は..、ダッサ。結局さ、あんたが一番雑魚なんじゃん。えっと..、ごめん。いつもクラスの隅の方にいるし私達とも絡みないから名前は分からないや。じゃあね。根暗くん」


「あ....」


 捨て台詞と共に僕の横を通っていくそいつを目で追いながら、段々と殺意が募ってきた。バカで群れるしか脳のない不良の分際で、将来エリートになる自分に楯突いたんだ。


 イキってられるのはせいぜい今のうちだ。若さを消費して、変な男に騙されて、30代くらいにはシワシワの醜いババァにでもなってろ。


「はは....」


 僕は違う。あいつらとは違う。大学受験対策の勉強をやって国立理系大学に入れれば、将来は一生安泰だ。今は苦しくても、きっといつか報われる。


 はずだったーー


「ただいま」


 その日、株式投資に大失敗した父が多額の借金を抱えている事が判明した。


「すまない..。でも俺は、やり直したかったんだ..。毎日毎日、満員電車に揺られてやりたくもない仕事やらされて、バカな上司に怒鳴られる日々から逃げ出したかったんだ! 第二の人生を始めたかったんだ!!」


 マトモに会話が出来る状態ではなかったが、事実として分かった事が二つ。母は父の投資失敗を知り、家族を捨て実家に戻っている事。担保にしていた家や車、家具に至るまで全てを失った事だ。


「すまない..。すまない....。せめてお前だけでも何とかしてやりたいと思って、父さん昔の知り合いから片っ端に連絡をかけていったんだ。そしたら、お前の身を引き取ってくれる人が現れたんだ..!」


「え..?」


「父さんはな、これから自己破産申請をして生活保護で細々と暮らしていくつもりだ。お前の事まで育てる余裕はなくなってしまった。身勝手な申し出だが、呑み込んで欲しい...」


「う、嘘だ!! お、俺を引き取ってくれる人ってどんな奴だ?」


「詳しいことは向こうで説明して貰いなさい。ただ、今後お前が生活する上で必要な資金を過不足なく支払う事を約束して貰えた....。とにかく信頼に足る人物だ。そこの所は安心しなさい!」


「......」


「とにかく、住所を記載した紙だけ今ここで手渡す。すぐに行きなさい。今日中にこの家は無くなってしまうから、さぁ早く..。本当に、すまなかった!!」


「..............」


 衝撃的な出来事が重なると、人は何も感じなくなるのだと知った。自分の今後の人生に対する不安とか、今まで過ごしてきた場所を失う事の悲しさとか、全部がごちゃ混ぜになっていた。


 足は自然と早く動いた。もう後戻りが出来ない。一歩一歩踏み出す毎に、現実感が喪失していく。紙に書かれた目的地に到達した時は、ほとんど夢見心地だった。


 大きなビル。下町で一際目立つこの建物は、近所でも有名だ。中階層がやや細く下、高階層が太いため、砂時計を連想させるような見た目をしている。耐震性とか、大丈夫なのだろうか?


 エントランスに入った。一階は高級料理を扱うお店と、書店や洋服屋、フィットネスジム等が完備されているため、住民以外の利用者も多い。こんな場所に、本当にツテはあるというのか?


「あ、あの..」


「はい。いかがなさいましたか?」


「えっと。この部屋番号の方に、僕が来た事を伝えて下さい..」


「かしこまりました。お名前を伺ってもよろしいですか?」


「あ..。み、皆川奏斗(みなかわかなと)です....」


 口調がつっかえつっかえの僕を不審な表情で眺めながらも、ロビーのお姉さんはすぐに電話を繋いでくれた。数回のやり取りが終わった頃合いだろう。


「確認が取れました。東雲(しののめ)さんが、迎えに来てくれるそうです」


「あ、ありがとうございます」


 そんな短いやり取りがなされ、僕は虚空を睨んだ。東雲なんて苗字、親戚に一人もなかった。父さんの昔の知り合いというのは、いつの頃の話だろうか?


 全く知らない人相手だと、ガチガチに緊張してしまう。エレベーターの動きを見つめながら、自己紹介で語る事とか、これからの生活に対する質問事項とかで頭が一杯になった。


 意識が朦朧としてくる。件の人が降りてきたのは、まさにそんな時だった。


「こんばんわ。貴方が皆川奏斗くんで、合っているかしら?」


「はい。み、皆川奏斗です! 父の紹介で来ました。よ、よろしくお願いします!!」


「ふふっ。私は東雲遥香(しののめはるか)っていうの。貴方のお父様とは高校時代に一度だけ同じクラスでね、その時のよしみよ」


「へ、へぇ..。そうなんですか....。えっとーー」


「うーん。ここで話すのもアレだし、近くの喫茶店に入りましょうか?」



 珈琲をちびちび啜りながら、僕は遥香さんと向かい合った状態で話を続けた。遥香さん曰く、父とは同級生であり元交際相手だったそうだ。すぐに別れたらしいが、その理由までは教えてくれなかった。


「全く、急に連絡が来たかと思えば、借金を抱えたから一人息子の面倒を見てやって欲しいですってね。都合の良い時だけ他人を振り回す性格は相変わらず....」


「え。あ..。それは、父が大変なご迷惑をおかけ致しました」


「ふふ、硬いよ。貴方はもう私の家族なんだから、もっと気儘に振る舞えば良いの」


「そうは言っても、お世話になるわけですし..。何か貢献したいなと考えていて....」


「うーん..。じゃあ、貴方と同じ歳の、私の一人娘に勉強を教えてくださらない? あの子部活に熱中しすぎて座学の方はからっきしなのよ」


「へぇ..。娘さんいるんですね。じゃあ僕と同じ明智学園高校の子かな。自分1年A組なんですけど、クラスも一緒だったりしますか....?」


 知り合いの家にお世話になるのは絶対に勘弁だ。碌でもない噂を流されるに決まっている。天にも藁にも縋るような気持ちで尋ねると、遥香さんは唖然としたような表情を作り、言った。


「まぁ! こんな偶然あるのね! 私の娘と全く同じよ!」


 あ、終わった。


「ウチの未来(みらい)、学校ではどんな感じ..? 荒っぽい子だけど、あまり悪さしてない..?」


 恐る恐る質問してくる遥香さんに対し、僕はなんと答えれば良いか分からなかった。姓は東雲で名は未来。東雲未来(しののめみらい)という人間が、自分のクラスに果たしていただろうか?


 今までの話を聞くに、部活ガチ勢だけど勉強は得意ではない。気性は荒い事くらいか..。そんな奴いたら名前くらいは覚えていると思うのだが、僕はあまり周囲の人間に興味がない。


「全然。真面目で、良い子ですよ!」


 適当に返すと、遥香さんは意外そうな顔を作りつつも、ホッと胸を撫で下ろした。


「良かったわぁ..。最近髪も金髪に染めるし、スカートの丈もどんどん短くなっていくから、心配だったのよ」


「へぇ..。そうな......」



 胸騒ぎがした。嫌な予感がした。今までの特徴が全て、ついさっき怒らせてしまったアイツのそれと完全に一致していたからだ。


『フヘッ..。クラスの雑魚どもが、将来は一生俺にひれ伏せ..』


 なんてやばい発言を全て聞かれ、自分を泣かせたあの不良女。東雲未来という人物が、果たしてそうなのであろうか? 遥香さんの後をついて歩き、玄関に近づくにつれて動悸は激しくなっていった。


「さぁ、部屋はここよ。未来に同じ歳の子が来る事は既に伝えたけど、同級生だって知ったらきっと驚くわ! 今日は歓迎パーティーね! 食事の準備は既に済ませてあるから..」


 ガチャリ


 ドアノブが回される。遥香さんが玄関に立ち入ると、部屋の中から騒がしい音がした。


「おかえりママ。これから一緒に暮らす人ってどんなーー」


「....」


「..........」


「................」


 僕が出会った人の名前を必ず覚えるようにしているのは、多分この時の出来事がきっかけだ。なんでこんな気まずい沈黙が続いているかはまぁ、察してくれると助かる。













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