暦の戯れ
決勝開始前――。
暦は時間が許す限り、ボールとともに退屈な時間を紛らわせていた。
本当なら折節の横でサッカーの戦術を語り合いたいところだったが、突然一人のマネージャーが姿を消し、総動員で捜索にあたっているので仕方ない。
サッカーを通じて同性とは多少話せるようにはなったが、暦の内気な性格は変わらない。
だから、折節がいなくなると、ボールを持ってすぐにどこかへ行ってしまう。
もっと言えば、暦の友達は折節とサッカーボールだけなので、今はサッカーボールと対話をしているのだ。
校内の部室棟付近に出た暦は、周囲に人がいないことを確認すると、ボールを地面に落としてリフティングを始める。
足の甲以外にも肩や頭、かかとに足の裏と体の様々な部位を使って、華麗にボールを浮かせてみせる。
そして、可変的なリフティングをしながら、部室棟の階段を支える四本の細い柱に向かって、シュートを放った。
見事に一番左の柱に当てると、跳ね返ったボールを胸でトラップして、再びリフティングを始めた。
今度は右隣の柱に狙いを定めて、自分のタイミングに合わせて、再びシュートを放つ。
これもしっかりと柱の中心に当て、跳ね返ったボールをかかとで一度受けて、自分の目の前にボールを戻して見せた。
残りの二本も同じように中心部に当てて、サッカーボールでの的当てチャレンジは成功だ。
同じ景色を見るのも飽きてきたので、暦はリフティングを続けながら前進する。
準決勝は後半からの出場だったが、決勝では試合開始から出場することが決まった暦。
一年生ながら既に主力として見られているわけだが、暦自身にそのプレッシャーはない。
サッカーの技を磨き、試合には自分がゴールに関与して勝利に導く。
勝負に負けたことがない暦にとっては、それが愛するサッカーの在り方なのだ。
準決勝では9ゴール挙げられたわけだが、決勝ではどれくらいゴールを重ねられるだろうか。
暦の頭の中には、そんな期待しかなかった。
「……誰かいませんかー!」
心も体もほぐれていくと、どこからか声と壁を叩く音が聞こえてきた。
「助けてくださーい!」
それが女の人の声だと気づくと、ほぐれていた暦の心と体が一瞬で緊張する。
助けたいのはやまやまだが、女の人だと分かると、足がすくみボールが地面に落ちて小刻みにバウンドした。
ここには、折節もいなければ隠れられそうな場所もない。
それどころか、どこを見ても、女の人の姿は見当たらなかった。
「誰か―!」
すると、声の主は扉を叩き始め、その音を辿ると女子トイレの中にいるのだと分かった。
「うっ、うぅ……誰か……いませんかぁ。追い剥ぎに合って、まともな服がないんです……」
涙声で助けを求める声の主。
どうしてそうなったのかは分からないが、とにかく困っているのはたしかだ。
人として助けなければならないことは重々承知している暦だったが、出そうとした声が上手く出ず、喉をつっかえてしまった。
困っている人とはいえ、相手は暦が苦手とする異性。
どう声をかければいいのか、分からないのだ。
「うえぇーーーん! 死にたくないよぉーーー!」
扉の向こうで、だんだん子どものように泣きじゃくる声の主。
死にはしないだろうが、死ぬほど不安に駆られている。
「誰でも何でもいいから、私に服を貸してくださーい!」
「……っ!!」
魂がこもった全力の喚きに脳を揺さぶられた暦は、一瞬にしてこの状況を乗り切る方法を閃いた。
暦はすぐ実行に移すと、まずは自分のジャージを上下とも脱いで扉の前に置いた。
そして、深呼吸をして集中力を高めたら、すぐに走れるように足のフォームを整え、左手を扉に付けた。
――今だ!
暦は自分のタイミングで扉を強くノックし、それを引き金としてダッシュで女子トイレから離れた。
物陰から様子を見てみると、女子トイレの扉がゆっくりと開き、そこから一本の白くて細い腕が出てきた。
その腕は暦のジャージを手に取ると、すぐに引っ込めて勢いよく扉を閉める。
こうして、女子トイレの周囲に再び安寧が戻ると、暦は一件落着を言わんばかりに一息ついた。
結局、ジャージは上下両方とも相手に渡してしまったが、下はスパッツを履いているので、問題にはならないだろう。
暦は再びサッカーボールを手に取ると、リフティングをしながら、自分のチームの下へと戻っていった。
次はこの大会の決勝戦――。
規模が小さいとはいえ、上葉高校にとっては勝たなくてはならない試合であることは、どんな大会であろうとも変わることはない。
チームに戻った後も、暦は欠かさずストレッチとイメージトレーニングに集中し、準備を整えた。
そして、この試合に先発出場する暦は、上級生に混じって整列をして、審判の合図で行進が始まる。
最後尾から見えた景色は押しなべて大きな背中が立ちはだかっていたが、暦は一切動じることなく、これから始まるサッカーに心を躍らせていた。
ピッチに入ると、観客たちが拍手で両チームの選手たちを迎え入れ、ベンチからはチームメイトやマネージャーたちが、それぞれ出場選手の名前を呼んで声援を送る。
――いよいよ、試合開始だ。




