016 絶対悪に勝る正義
016
闘技場があった広場から歩くこと30分
クロトたちはケナンの街の南端に位置する安宿にいた。
(いい眺めだなあ……)
クロトはテラスから外の景色を眺めていた。
南側は海に面しており、2階の部屋からは川と海の合流地点がよく観察できた。
港には昔ながらの帆船が停泊しており、その甲板では乗組員らしき人々がせっせと働いていた。
時刻は昼過ぎ。
サンサンと降り注ぐ昼過ぎの太陽光の下での作業はとても辛そうだ。
港の奥には砂浜が広がっており、海の青と波の白と砂の黄のコントラストが非常に綺麗だった。しかし、そこに人の影はなかった。
あれだけ綺麗なら海水浴をする人間がいてもいいものだが……この世界にはそういう習慣はないのかもしれない。
まあ、気温もそこまで高いわけでもないし、人がいないのも当然と言えば当然だ。
1時間近くぼんやりと外の景色を眺めていると、部屋の中からリリサの合図が来た。
「もう入っていいわよ」
(やっとか……)
クロトは回れ右をしてテラスから室内に戻る。
室内にはリリサと……綺麗な服に着替えたヒトガタの少女の姿があった。
「おお……」
クロトは少女の清潔な姿を見て驚く。
風呂にも入れられたのか、浅黒い肌はピカピカに磨かれており、黒い血で汚れていた髪も本来の深い紺色を取り戻し、バラバラに伸びていた部分もショートカットに切り揃えられていた。おかげで顔もよく見ることができた。
眼の色こそ違えど、目や鼻や口の位置は人間と全く同じであり、幼さを残しながらもしっかりとした顔立ちをしていた。
……実はこの1時間、ヒトガタの少女を着替えさせるため、クロトは外に追い出されていたのだ。
クロトは宿に入ってすぐに少女に事情を聞こうとしたのだが、少女の姿があまりにも汚れていたのでリリサに止められてしまったというわけである。
とりあえず体を洗い、新しい服に着替えさせるとリリサから聞いたが……まさかここまで綺麗にしてしまうとは思わなかった。
流石はベテランの狩人だ。
そんなことを思いつつ、クロトは視線を少女の頭から体に向ける。
着ている物もボロ布からシンプルなデザインのワンピースに変わっていた。
ワンピースは肩が露出するタイプのもので、色は純白、濃淡のストライプ模様が首元からスカート裾まで一直線に描かれていた。
浅黒い肌とワンピースの白のコントラストは実にマッチしていた。
まさに大変身である。1時間前までのみすぼらしい面影は全く見受けられなかった。
クロトは日本語で正直な感想を述べる。
「うん、綺麗になったね」
「そ、そうでしょうか……」
クロトに褒められ、ヒトガタの少女はえへへと恥ずかしげに笑い、指を弄っていた。
そんな初々しい少女の反応とは裏腹に、リリサは疲れた表情で溜息を付いていた。
「はぁ……じっくり時間を掛けて選んだ服をディードに着せることになるなんてね……」
リリサは袖捲りしていたシャツを元に戻し、部屋の入口近くに置かれている小さめのベッドに腰掛けた。
「これ、リリサが着るつもりだったのか?」
「戦闘服の下にね。……サイズが合わないせいでワンピースみたいになってるけれど、あれ、本当は普通のシャツだからね?」
確かに、よく見ると服の中央には小さめのボタンがいくつか取り付けられていた。
「後はフードでも被せて角を隠して、尻尾は腰にでも巻かせて隠せば、少なくともヒトガタに思われることはないでしょ」
それだけ言うとリリサは「んん……」と背伸びをし、ブーツを脱いでベッドに仰向けに寝転がった。
何だかんだ言って少女の身なりを整えるのはそれなりの重労働だったようだ。
準備が整った所で、クロトは早速本題に入ることにした。
「僕はクロト・ウィルソン。君の名前は?」
「助けてくださって、本当にありがとうございました。この御恩は絶対に……」
「それはいいから、名前を教えてくれないかい」
「あ、はい。私は……」
少女は名乗ろうとするも、途中で口を開けたまま固まり、数秒後には狼狽えた様子で俯いてしまった。
「……すみません、わかりません……」
「分からないか……」
彼女は仮にもディードだ。個体名なんてものはもともとないのかもしれない。
「それじゃあ質問を変えるけれど、どうして日本語を……?」
「日本語……う……」
少女はめまいを覚えたのか、立ったままふらつく。
クロトは慌てて少女の体を支え、事なきを得た。
少女はまたしても「すみません」と謝り、クロトに体重を預けたまま言葉を再開する。
「自分が日本語を喋っているという自覚はあるんです。ですけど、記憶に霧がかかったような感じで何も思い出せないんです……。クロト様に助けていただいてからははっきりと記憶しているのですが……」
クロト様、という呼ばれ方に若干違和感を覚えたが、クロトは気にすることなく会話を続ける。
「つまり、記憶喪失ってことかい……」
少女はクロトから離れ、こくりと頷く。
「そのようです……が、ヒトを殺せという命令を受けているということだけは覚えています。私は間違いなくあなた達の言うヒトガタ……人類を襲うディードで間違いないのでしょう」
少女は狩人に保護されている状況にあっても、冷静に自分をヒトガタだと分析していた。
また、そう告げる彼女からは知的な印象を受けた。幼い少女として扱うのはやめたほうがいいかもしれない。
クロトは彼女を一人の女性として扱うことを決め、口調を変える。
「君は自分がディードであると認識している。でも、僕達を襲うつもりはない……という認識でいいんだね?」
「とんでもありません。命の恩人を襲うだなんて……むしろお礼がしたいくらいです」
礼儀正しい上に人情味も持ち合わせている。
そこいらの人間よりよっぽど人間らしい。
少女の言葉を聞き、クロトはリリサに意見を求める。
「なあリリサ、僕にはこの子がヒトガタだなんて信じられないよ」
リリサは仰向けのまま応じる。
「角に尻尾、眼球も真黒だし血も黒い。ディードには間違いないと思うんだけれど……ヒトガタに関してはまだ分からないことが多いから、なんとも言えないわね」
リリサは寝返りをうち、顔をこちらに向ける。白い髪で顔の半分以上が隠れており、少し不気味だった。
「広場でも言ったけれど、その娘、教団に持って行ったら凄く喜ばれると思うわよ。研究対象としては凄いレベルだと思うし」
「え、その話って適当な嘘じゃ……」
「確かにあの時は適当に言ったけれど……ディードと意思疎通ができるのよ? しかもこれまでヒトガタの生態については全くの謎だったんだから、彼女をきっかけにヒトガタの弱点がわかるかもしれないわ」
「……」
クロトはリリサの言葉を承服しかねてか、ただ黙ってリリサを見ていた。
リリサは上半身を起こし、白髮を掻き上げ、クロトに告げる。
「何よ、私は間違ったこと言ってないわよ」
狩人として、リリサの対応は至極まっとうなものだ。
だが、クロトにとっては違っていた。
クロトはヒトガタの少女の背中に回り込むと両肩を掴み、リリサに向けて力説する。
「この子は自我がある。形も人とそう変わらない。……これはもう人間だよ。だからリリサ、せめてこの3人でいる時は彼女を人として扱ってくれないか」
「そんなの……無理よ」
「体も洗って着せ替えて、思いっきり人間扱いした後でその言葉を言われても、全く説得力がないよ……」
「変な動きをしたらすぐにでも殺すつもりだったわよ」
リリサはショートパンツのバックポケットに手を突っ込み、何かを取り出す。
手には折りたたみ式のナイフが握られていた。
ナイフを二人に見せつけた後、リリサはナイフを手の中で弄りながら語り出す。
「……記憶喪失のあんたには理解し難いでしょうけれど、ディードはこの世界の人達にとって絶対悪の存在なの。その中でもヒトガタはダントツで恐怖の対象よ。いくら可愛いからって、ヒトガタである以上、敵意を持たれるのは仕方のないことなの」
「可愛いって……そこは認めるんだ」
「む……」
リリサの手の動きが乱れ、ナイフが床に落ちる。
リリサは前屈してナイフを拾い上げるとベッドから離れ、近づいてきた。
「それで?」
「?」
「その子から何か情報は得られたの?」
「あー……」
そうだった。先ほどの会話が全て日本語で行われていたことをすっかり失念していた。
ヒトガタの少女からは何も有益な情報は得られなかった。
そんなことを言うと少女の立場がより悪くなるが、嘘をついてもしかたがないと考え、クロトは正直に告げた。
「実はこの子も記憶喪失らしい」
「はあぁ……」
リリサは怒る気力もないのか、クロトの言葉を聞いた瞬間に肩を落として脱力した。
言葉がわからずともその様子を見て罪悪感を覚えたのか、ヒトガタの少女はクロトに提案する。
「あの、私が狩人に捕獲された場所……南の浜辺まで連れて行ってくれませんか? 何か見つかるかもしれません」
この提案はクロトにとってありがたい提案だった。
「確かに……リリサの話を聞くに、ヒトガタが海から流れ着くなんて滅多にないことみたいだし、何か手がかりがあるかもしれないね」
「それもあるのですが、どうも大切な何かを落としてしまったような気がするんです」
二人で話していると、リリサが割って入ってきた。
「なんて言ってるの?」
クロトは短くまとめてリリサに伝える。
「浜辺に手掛かりがあるかもしれないって……」
言った瞬間、リリサの琥珀の目に力が戻るのがわかった。
「行くわよ」
「行くって……今から!?」
「そうよ。この子も連れて行くわよ」
そう言ってリリサは少女を小脇に抱える。
「きゃあ!?」
少女の短い悲鳴を無視し、リリサは壁に立てかけていた螺旋の長槍を手に取り、部屋の出口に向けて歩き出す。……が、クロトは先回りして出口を押さえた。
「待って……」
「どきなさい」
「夜にしよう。そっちのほうが人目につきにくい」
ヒトガタの少女を連れて行くとなるとどうしても目立ってしまう。かと言って少女抜きでは手掛かりの探しようがない。
「……わかったわ」
リリサはクロトの言葉に従うことにしたのか、ドアの手前で少女を下ろし、室内に戻っていった。
それでもやはり気持ちは収まらないようで、不敵な発言をする。
「夜行くとして、もし何も手掛かりが見つからなかったら……殺すわよ」
「そんな……」
不穏な空気を感じ取ったのか、少女はすぐに玄関から小走りで移動し、クロトの背中にしがみつく。
「こう見えてもこの子はあの狡賢いディードと同類なのよ? 今だって演技している可能性だってある。仮に襲われたらその時は……」
「……僕もそこは反対しないよ」
クロトは腰に下げている刀の柄に手を触れる。
「一応は彼女のことを警戒してるつもりだよ。……でも、それ以上に情報がほしい。今は、浜辺で何か見つかることを祈ろう」
「あればいいわね、手掛かり」
リリサは再びベッドの上に寝転がり、今度は本格的に寝始める。
どうやら夜になるまで寝て過ごすつもりのようだ。
クロトはもう一つのベッドに少女を案内し、寝かせることにした。
「少し疲れただろうし、眠るといいよ」
「……はい」
少女は本当に疲れていたようで、ベッドにゆっくりと入ると、すぐに寝息が聞こえてきた。
それから日が落ちるまで、クロトはベランダで黄昏時を過ごしていた




