第12話 未来の種芋
屋上のフェンスを、冷たい秋風が吹き抜けていく。
ハルトはコンクリートの床に両足を揃え、垂直に体重を乗せた。数ヶ月前、庇から転落した際に痛めた右足首には、もう痛みはない。地面を踏みしめる確かな感覚が、ブーツの底を通して伝わってくる。
ハルトの前には、外縁部から運び上げた土を詰めた袋が整然と並んでいる。袋の側面には、太く育ったサツマイモの蔓が四方へ伸び、青々とした葉を茂らせていた。
ハルトは小さなスコップを手に取り、袋の縁に刃を差し込んだ。黒く湿った土を慎重に掻き分ける。指先が硬い塊に触れた。
「タツヤ、根元を掴め」
「おう」
隣にしゃがみ込んだタツヤが、蔓の付け根を両手で強く握り込む。二人が息を合わせ、真上へ向かって力任せに引き抜いた。
ブチブチと細い根が千切れる鈍い音と共に、湿った黒土の中から、赤紫色の太い塊が姿を現した。大人の腕ほどもあるサツマイモが、連なって土の中から持ち上がる。
「でけえな」
タツヤが土まみれの芋を持ち上げ、手の甲で額の汗を拭った。
「ああ。ちゃんと育ってくれた」
ハルトは土の塊を払い落とし、ずっしりとした重みを両手で受け止めた。土の冷たい湿り気と、作物が放つ独特の青臭い匂いが鼻腔を突く。周囲の袋からも、生存者たちが次々と芋を掘り出していた。
屋上の最も奥まった一角、冷たい風を遮るようにブルーシートと毛布で囲まれた安全なスペースを見る。
そこには、ユキが座っていた。
彼女の腕の中には、白い布に包まれた赤ん坊がいる。あの日、死に物狂いで手に入れた医療キットによって無事に生まれた命だ。赤ん坊はユキの胸に顔を埋め、力強く乳を吸っている。
生まれたばかりの頃は赤黒く痩せこけていた体は、日ごとに体重を増やし、今では手足に丸みのある白い肉がついていた。吸い終わった赤ん坊が顔を離し、屋上の空へ向かって高く、短く声を上げる。その小さな胸は規則正しく上下し、冷たい外気の中で
強い体温を放っていた。
「ハルト」
背後から声をかけられ、ハルトは振り返った。
コウサクが、手書きのメモ帳を手に立っていた。その隣には、作業着の腕をまくったゲンゾウがいる。
コウサクは眼鏡の縁を指で押し上げ、紙に書かれた数字を指差した。
「収穫の計算が出た。……だが、これが限界だ」
コウサクの声は低く、平坦だった。
「モールの敷地外縁部、駐車場の植え込みから掘り出せる土は、先週の搬入ですべて掘り尽くした。これ以上、あの危険なルートから安全に取れる土はない。そして、今あるこの袋の土も、今回の収穫で栄養を使い果たしている」
ハルトは掘り出したばかりの土に目を落とした。黒々として見えても、閉鎖された袋の中の土は、次の作物を育てるだけの力を失いつつある。
「大人が今の極限配給のまま、じっと座って息を潜めるだけなら、この冬は越せるだろう」
コウサクは赤ん坊へ視線を向けた。
「だが、あの赤ん坊が離乳期を迎え、身体を成長させていくのに必要なカロリーを、この狭い屋上の土だけで供給し続けることは不可能だ。物理的に、絶対に足りなくなる」
冷徹な現実の宣告だった。
しかし、その場にいた生存者の誰一人として、かつてのように絶望して頭を抱える者はいなかった。膝をつく者も、泣き言を漏らす者もいない。
土を掘る手を止め、コウサクの言葉を聞いていた男たちや女たちが、静かに顔を上げた。
彼らの視線は、ユキの胸で微睡む赤ん坊の一点に向けられている。
かつて、このモールの暗闇でただ飢えと寒さに震え、死の順番を待つだけだった大人たちの目が、完全に変わっていた。
死者の徘徊する世界で、生きた人間が未来へ進むための明確な理由を、彼らは全員がその目で見ていた。あの夜、自分たちが命を削って繋ぎ止めた小さな心臓が、今、確かに動いている。
この子に、腹いっぱいの飯を食わせる。
この子が、足を使って自由に走れる場所を作る。
その共通の意志が、言葉を交わさずとも大人たちの背骨を真っ直ぐに伸ばしていた。誰の目にも、恐怖による迷いはなかった。
「……なら、やることは決まってるな」
ゲンゾウが口を開いた。低い、だが芯の通った声だった。
コウサクが短く頷く。
「ああ。今日掘り出した芋は、すべてを食糧には回さない」
コウサクは足元に積まれた芋の中から、傷がなく、皮の張りが最も良い太い芋を次々と手にとって選別し始めた。
「これらは『種芋』にする。来年の春、外の広大な地面に直接植え付けるための種だ」
種芋。
現状維持のための消費ではなく、次の生存を外の大地から奪い取るための、命の核だ。
「よし、運ぶぞ」
アキたち老人たちが歩み出て、用意していた木箱を地面に置いた。箱の底には、乾燥させた清潔な藁が敷き詰められている。
老人たちは皺の刻まれた手で、選別された種芋を傷つけないよう、一本ずつ丁寧に藁で包んで木箱へ並べていった。冬の寒さで腐らせないよう、温度の保たれる屋上の機械室へ保管するためだ。
重い土を運べない者たちも、それぞれの持ち場で、未来を繋ぐための正確な仕事をこなしていく。
その横で、ゲンゾウの鋭い指示が飛んだ。
「道具の手入れを始める! 研ぎ残しを作るな!」
屋上の片隅に、金属音が響き始めた。
男たちがコンクリートの上に砥石を据え、水を垂らしながら、鉄パイプを鋭角に研ぎ澄ましていく。
女たちがスコップの刃先についた泥をワイヤーブラシで落とし、ヤスリをかけて刃を鋭利に整える。
火花が小さく散り、曇っていた鉄の表面が、鈍く光る刃へと変わっていく。
タツヤは、屋上の一角に引き上げていたオフロードバイクの横にしゃがみ込んでいた。
ウエスでプラグの煤を拭き取り、工具を使ってチェーンの張りを調整する。スプロケットに油を差し、タイヤの空気圧を手動ポンプで規定値まで充填していく。
あの日、彼らが命を繋ぐために使った道具のすべてが、今、次の段階へと整備されていた。
身を守るための武器ではない。閉じこもるための盾でもない。
外の世界へ打って出て、子どもたちが生きるための地面を、死者から力尽くで奪い返すための道具だ。
ハルトはスコップを置き、手を叩いて土を落とした。
そして、ゆっくりとした足取りで、ユキのいるスペースへと歩いた。
ユキの膝の上で、赤ん坊は完全に眠りに落ちていた。小さな口をわずかに開き、温かい吐息を漏らしている。
ハルトはユキの隣に静かにしゃがみ込んだ。
「ハルト」
ユキが柔らかく微笑み、赤ん坊の背中をそっと撫でた。
ハルトは泥で汚れた自分の人差し指を、赤ん坊の胸元へ差し出した。
眠っている赤ん坊の小さな手が、無意識にハルトの指を掴んだ。ぎゅっと、驚くほど強い力で握り返してくる。その掌から、ドクドクと脈打つ血液の熱が、ハルトの皮膚へ直接伝わってきた。
自分たちが生きている証拠だ。
この命を、この冷たいコンクリートの箱の中だけで終わらせるわけにはいかない。
ハルトは赤ん坊の小さな手を優しく包み込み、短く息を吸った。
「……行ってくる」
「うん」
ユキは短く答え、頷いた。引き止める言葉はどこにもなかった。彼女の瞳にも、ハルトと同じ決意が宿っていた。
ハルトは背筋を伸ばし、屋上の最前列――鉄格子のフェンス際へと歩みを進めた。
そこには、すでにゲンゾウが立っていた。
手入れを終えたバールを肩に担ぎ、仁王立ちで外を見下ろしている。その隣には、ヘルメットの顎紐を結び終えたタツヤが並んだ。
さらにその後ろには、刃を研ぎ直した鉄パイプやスコップを手にした大人たちが、無言で列を作っていた。誰もが泥と油にまみれ、引き締まった表情で前を見据えている。
ハルトはゲンゾウの隣に並び、冷たい鉄パイプのフェンスに両手をかけた。
視線の先には、モールの外の世界が広がっていた。
敷地を取り囲むアスファルトの駐車場。その先にあるひび割れた幹線道路。破壊された街並み。
遮るもののない薄暗い平野の各所に、無数のロストが影となって徘徊しているのが見える。あの死の群れは、今も生者の肉を求めて彷徨い続けている。
だが、彼らが見つめているのは、死者たちではなかった。
ロストたちの足元にあるもの。
コンクリートの割れ目から力強く草を生やし、モールの壁の向こう側で地平線までどこまでも果てしなく続いている、本物の土。本物の、地面だ。
あそこへ行く。
ロストを掃討し、安全を確保し、あの広大な地面を自分たちの手で耕す。
木箱に詰めた種芋をあの土に埋め、ハルトたちの子、そしてこれから生まれくる子どもたちが腹一杯に食べられるだけの作物を実らせる。
「行くぞ」
ゲンゾウが、低く、重く言った。
「ああ」
ハルトは短く答え、握る手に力を込めた。
風が吹き抜け、男たちの作業着を激しく揺らす。
冷え切った秋の空の下、全員の視線が、奪還すべき広大な大地の一点に固定されていた。
未来を生きる命のために。
生者たちの反撃は、今、ここから始まるのだ。
〜完〜
───────────────────────
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
星評価や感想レビューお待ちしております!
今後の参考のためどうぞよろしくお願いします!
面白いと思って頂けましたら、下の☆マークから評価・リアクションマークをポチッと応援をよろしくお願いします!
また作品に対する感想、助言などお待ちしております。




