第25話 並んで歩く二人
鍵をもらってから、しばらくして。
バッグの内ポケットに忍ばせたシルバーの鍵を、通勤電車の中で何度もそっと指先で確かめる癖がついてしまった。今日は合宿最終日。長かった缶詰め生活を終えて、蒼真くんが帰ってくる日だ。
先に部屋で待っていて、驚かせてみようか。そんな悪戯心が湧いて、私は仕事を早めに切り上げていた。合宿明けで疲れて帰ってきた蒼真くんが、部屋に誰かがいる温もりに驚いて、それから安心して笑ってくれたら――そんな場面を、寝る前に何度も思い描いていた。
甘いものが好きな彼のために、少し良いお店の焼き菓子にしようか。悩んでいる時間さえ楽しくて、社会人になってから久しく感じていなかった、誰かのために時間を使う幸福感に包まれていた。
◇
その日の夕方、鍵をもらって初めて、彼のマンションへと向かっていた。
合宿最終日の今日なら、夕方には帰ってくるはずだと聞いていた。彼より先に部屋に入って、静かに帰りを待つ。そんな時間を想像するだけで、頬が緩んでしまう。
マンションまであと少し、という交差点に差し掛かった時だった。
――え。
視界の先、横断歩道の向こう側。見慣れた長身のシルエットが、誰かと並んで歩いていた。
(……蒼真、くん?)
合宿から一人で帰ってくるはずなのに、なぜ。目を凝らすと、隣にいるのはツインテールの毛先をピンクに染めた小柄な女性――姫川ミアだった。
二人は肩を並べ、楽しそうに笑い合っている。ミアが蒼真くんの腕にポンと軽く触れ、それに対して彼が小さく苦笑いを返す、気安い距離感。
(幼馴染だから、当然だよね……たまたま帰り道で会っただけ、とか)
頭では分かっているのに、心臓の奥がすっと冷たくなっていく感覚があった。楽しみにしていたサプライズの気分が、音もなく萎んでいく。
信号が変わり、二人がこちらへ歩いてくる。声をかけるべきか、一瞬迷った。けれど、鍵をもらったことも、今この場所にいることも、なぜか上手く説明できる気がしなくて。私は咄嗟に近くの建物の陰へと身を隠した。
◇
すぐ側のベンチに腰掛けた二人の声が、断片的に聞こえてくる。予想外に、二人はそこにしばらく留まるつもりらしい。
「――だから、その件はまた今度ゆっくり話そうよ」
「……ミア、あんまり時間ないんだけど」
「いいじゃん、少しくらい。ソウマくんとこうやって話すの、久しぶりなんだから」
楽しげなミアの声と、いつも通り塩対応気味に返す蒼真くんの声。会話の内容までは聞き取れないけれど、二人にしか分からない古いエピソードで盛り上がっているらしく、ミアが時折声を上げて笑っている。
「昔から変わんないよね、ソウマくんって」
「……何が」
「困ってる私、放っておけないところ」
その一言に、指先が冷たくなった。
(放っておけない、って……)
積み重ねてきた時間の長さそのものが、そこに当たり前みたいに横たわっている。私の知らない蒼真くんの歴史が、ミアの言葉には当然のように詰まっていた。
十分近く、二人はそこで話し続けていた。私は建物の陰で、身動きが取れずにいた。
(……合宿、今日までのはずなのに)
ふと過った違和感を、私はすぐに頭の中で打ち消した。偶然に決まっている。解散後、たまたま駅で会っただけ。
けれど一度浮かんだ疑念は、簡単には消えてくれなかった。
◇
やがて二人が反対方向へと歩き出したのを確認してから、私はようやく詰めていた息を吐き出した。
マンションへ向かう足は、もう動かなかった。
とぼとぼと駅への道を引き返しながら、あの日大学のキャンパスで浴びた「親戚? 取材の人?」という視線と、今日見た光景が、勝手に重なり合っていく。
(私、また同じことしてる)
条件も、積み重ねた時間も、何一つ持っていない自分。会社では完璧に見えるくせに、プライベートではこんなにも脆くて、簡単に不安に呑まれてしまう。
スマホを取り出し、レイナとのトーク画面を開きかける。けれど、指が止まった。
(……ただの、幼馴染同士の立ち話だったかもしれないのに)
騒ぎ立てて、蒼真くんに心配をかけたくない。大会直前の彼に、こんな小さな不安をぶつけるのは違う気がする。だからといって、一人で抱え込んで爆発させてしまった、あの日の二の舞にもなりたくない。
バッグの中の鍵が、行き場をなくしたまま、ことりと小さな音を立てた。




