第零章 萬緑の葉が舞い散る頃に
添削、感想お待ちしております
ここはどこだ…?視界が定まらない。
頭に鈍痛が走る。触れると真紅の液体が手に付く。
血か…。ツンとした鉄の不快な匂いが鼻に残る。
倒れていた場所を見渡すと培養室だった。
椅子が不自然に倒れ、資料が散乱する。
そして「床 に は 大 量 の 血 痕 が あ っ た 。」
甘井がいない。俺が襲われたのなら、アイツも無事かわかんねぇ、まだガキなんだ…。俺は壁にもたれかかりながら培養室を後にした。外に出るとそこは地獄だった。壁一面に紅い液体がこれでもかと染み込んでおり、沢山の遺骸が隅に積まれていた。まるで賽の河原のようだ。壁についた紅い液体は、いや。この際何も言うまい。その時、T字路の奥で「ガタっ」と物が動く音がした。甘井か、それ以外か。分からない。
進むとそこにいたのは、甘井でも生存者でもなかった
「は?死体だと…」
脳が理解を拒む。なぜならその死体は、
培養槽に浮かんでいた個体だったからだ。
その死体は、こちらを認識すると奇声を上げて襲いかかってきた。武器は…拳だけだ。だが打撃が効くかどうか分からない。もし効かなかったとして、腕がオシャカになるだけだ。辺りを見回すと、捩じ切れた鉄パイプが転がっていた。迷っている暇はない。
死体は、もう目の前まで迫っていた。
俺は咄嗟に鉄パイプを突き出した。
嫌な手応えが腕に伝わる。
怖くなって、俺は何度もそれを突き立てた。
やがて、死体は崩れるように倒れ、動かなくなった。
——終わった。
そう思った瞬間、脚を掴まれる。
見下ろすと、さっき倒したはずのそれが、歪んだ笑みを浮かべていた。全身が凍りつく。
俺は無我夢中で、もう一度、それを振り下ろした。
今度こそ終わった…。安堵感で身体が崩れ落ちる。
その時、研究棟内に無機質なコール音が流れ出した。
「唐沢さん。唐沢俊さん、至急学長室へ来てください。繰り返します……」
まるで戦闘が終わるのを待っていたかのようなタイミングだった。行くか、それとも行くまいか。
己の中での問答は現実世界のほんの数秒程度だった。
気がつけば、足が動き出していた。
頭の痛みなどは、とうに忘れ去っていた。
本棟と研究棟は道中の渡り廊下を挟んで500m程。
学長室は本棟5階だ。恐らく異変はここだけではない。本棟にも及んでいることだろう。なら隠密に徹するべきであろうが、あいにく俺はそんな器用な真似はできない。ならば……
「正面突破。邪魔なものは、全部排除する」
俺は走り出す。数分ほど経って、広い休憩スペースに出ると無造作に蠢く死体の群れ。空気は淀み、不快な臭気が肺に絡みついた。死体…。これからは奴等と呼称する。奴等は歩みを進めるたび、身体の至る所からガスを吹き出していた。恐らく腐臭の原因だろう。
数は、目算56体。知能があるのか分からないが、集団で襲ってきたら厄介だ。ルートを算出し、その軌道線上の奴等だけ殴り飛ばす。ここを越えれば本棟3階だ。物怖じするな、行け。
スタートを切る。突然の来訪者に奴等は理解が追いついてないようだった。まず一体、殴り飛ばす。
手に不快な感覚が張り付く。だがそれを嫌悪している場合ではない。一体が倒れた瞬間、奴等は一斉に動いた。集団行動。やはり、ある程度の判断力はあるらしい。だが、所詮は死体。俺だって理系の端くれだ。そんな奴らに負けるほど、耄碌もしていない。奴等を翻弄し俺は進む。連絡通路はもう目と鼻の先だ。手の感覚は、もう考えないことにする。最後の数メートル、俺はスライディングを決め休憩スペースを後にした。
連絡通路を抜け、本棟に突入した。正面のエレベーターは…やはり動いてないようだ。となると階段だった。階段は東西端の2箇所のみだ。再び無機質なコール音が響いた。時間を食ったのだろう、心なしか不機嫌に聞こえるそれを無視して俺は西を目指す。
今の時間帯日当たりがいいのは西だ。ゾンビなら日光が苦手だろうという憶測だった。だが、不思議なことに本棟に奴等はいない。侵入に至ってないだけかもしれない。だが廊下には血の一滴たりとも落ちておらず、異変前その物だった。それに乗じて俺は階段を駆け上がる。一段、また一段と。カン、カン、カンと古びた鉄製の階段が俺の足音と共に悲鳴を上げる。
五階へ続く出入り口の扉は侵入禁止のテープが幾重にも張り巡らされていた。そこは、外からでもわかるほど異様な禍々しい気配が漂っており、開けるとそこには、壁中大きな萬緑の葉をつけた蔦が生い茂っていた。線香のような匂いの中に腐臭とは別の、どこか甘ったるい臭いが立ち込めていた。時期ハズレだが金木犀だろうか。普段ならいい香りと思うだけだが、今では胸焼けするほどに不快だった。だが目標だった学長室はすぐそこだ。一つ懸念点を挙げるとするならば。研究棟以降、奴等と出会してないことだ。学長室に何かあるのは明白だ。俺はあえて息を潜めて進む。
………部屋の前まで来た。腐臭自体は大学内に立ち込めているが、金木犀の甘ったるい匂いは学長室が発生源だろう。息を整え、俺は部屋を開ける。そこには、
心臓のあたりから金木犀を生やし、顎髭が血で染まった学長が座っていた。金木犀は薄気味悪い錆色をしていて、心臓の鼓動のように脈動する。その傍らには…
「甘井……」
かつての同僚が、笑顔でくるくると注射器を指で踊らせていた。だが、目は笑っていなかった。
「かなり遅かったじゃないか、学長もお怒りだぞ?」
自分で殺した相手を、さも生きているかの様に語る彼は非常に冷酷に見えた。
「それと、ボクはもう甘井じゃない。天谷だ。君とは違う存在になったんだよ。」
顔から笑みが消える。よほど不愉快だったのだろう。
「ここまでかなりの数のゾンビを配置していたはずだけど、よく突破できたね?学生でも囮にしたのかな?」
ケラケラと残酷に天谷は嗤う。俺はじっと奴を睨む。
「チッ、木偶の坊が。
ボクが態々下の存在である君に話しかけてあげているんだ。反応くらいしたらどうだ?」
「あぁ、すまん。やっている事に対して言動があまりに幼稚だったもんでな。声に出すのは失礼だと思ったから心の中で笑ってたんだわ。」
瞬間、天谷が眼前から消える。
「君はいつからそんなに偉くなったんだい?不快だな、そんな奴はゾンビにすらしてあげない。無様に死んだらいい。」
天谷の細い腕が俺の腹部を貫く。
「だが君の行動はいいサンプルになった。痛みくらい消してやるよ。この薬でね」
先程まで手で遊ばせていた注射器を俺の首筋に突き立てる。身体が痙攣する。身体の芯から何かが込み上げてくる。吐き出した物は……
「心………臓……?」
その言葉を最後に俺の意識は深い闇の底へと沈んだ。
「哀れ哀れ。人の死とは儚い物だね。少し君の細胞をもらっていくよ?」
「それと、この異変は大学だけと思わない方がいい。」
「都内、地方、やがては日本を侵略する。君はその生贄第一号だ。誇りに思えよ、愚図。」
その言葉を最後に天谷はフッと姿を消した。
………数刻の時が経った頃だろうか、どこからか夏の風が吹いてきた。匂いと共に錆色の金木犀が儚げに散る。その花弁のうちの一枚が俺の傷跡にふわりと落ちる。脈動した花弁は瞬く間に根を張り、その根を以って俺の傷を塞ぎ、元通りにしてしまった。ハッと、意識が戻る。奇跡としか言いようがないことが起きたのだ。殺されたのに、息を吹き返した。慣れない感覚で窓の近くへと進む。それは、最初に目を覚ました時の感覚に似ていたのだ。窓から見る外の景色は、夏の爽やかな風と共に、誰のものとも言えない血で染まった、萬緑の葉が舞っていたのだ。
どこからだろうか幼い声が響いた気がした。
いや、気のせいだろう。きっと、そうだ。
読んでくれてあざした




