後編
更に一ヶ月がたった。
アリシアのことが心配で、ライオは少し休暇をもらって屋敷へと戻ってきていた。厩舎に馬を預けてすぐに向かったアリシアの部屋で、彼はすぐに彼女の異変に気付いた。
「お早い帰還ですね」
先んじてドアを開けたのは、ヒューゴだ。いつものように長い鳶色の髪をきっちりまとめた彼は、恭しく礼をする。その奥にいるアリシアは、ライオの姿を見て「おかえりなさい、お兄様」と口元をゆるませた。
けれどその表情を見て、ライオは同じように微笑むことはできなかった。
「……アリシア?」
その名前を呼ぶ声が、弱々しくかすれる。
アリシアのもつ、陶器のような白い肌とサファイヤのような青い瞳。そして艶めく金糸のような巻き毛。彼女を形作るものは何一つ変わっていないというのに、そこに何の表情も浮かんでいない。口角を上げたからといって、微笑むことにはならないのだと、ライオはその時初めて気付いた。
アリシアの瞳はただまっすぐ、ライオを通り抜けた先の、どこかを彼方を見つめていた。ぼんやりしているというよりももっと、圧倒的なまでの静謐さがそこにあった。
「お勤めご苦労様でございました」
彼女は優雅に礼をして、ライオを迎えた。
それはいつもと同じ所作。だというのに彼女に何の表情も浮かんでいないせいで、色がなくなっている。
「……一体どうしたんだ?」
その質問は、アリシア本人ではなくヒューゴへのものだった。ライオは鋭く視線を向けた。ヒューゴはその気迫には気付いているはずなのに、曖昧に微笑むだけだ。
「何のことかしら?」
アリシアは首をかしげた。その可憐な仕草にも、表情は伴わない。加えて言うなら、声も平坦で、到底心が通っているように見えなかった。
「何をした? お前……アリシアに、何を」
ライオは今度こそ怒りを声に乗せて、ヒューゴに詰め寄った。お互い高身長だが、鍛えている分ライオの方がひとまわり体躯は大きい。端正な顔を歪ませれば、そのあたりの使用人ならば震え上がるものだったが、ヒューゴはそれで怯む様子はまるでなかった。
平然とライオの視線を受け止めて、凛とした眼差しを返す。
「『怒り』を消してさしあげました」
アリシアの感情ののらない瞳をもう一度確認して、ライオは吐き捨てるように言った。
「またあのまじないか……!」
「ええ。お嬢様はとても素直でいらっしゃいますので、よく効きました」
悲しみと怒り。
あの時ヒューゴは「その感情を抑えるだけ」と言っていたのに、今は「消した」と断言した。
(感情を消すなんて……そんなことが可能なのか!? いや、しかし……)
信じたくない。けれどヒューゴの確信的な物言いと目の前のアリシアの様子は、憎たらしいほどに符号する。
ライオがわなわなと震え出すのを見て、ヒューゴは「光と影と同じことですよ」と静かに言った。
「光が輝くほどに、影は色濃いというのが道理です。お嬢様は喜怒哀楽の負の感情を消し去った。そのせいで、楽しい、嬉しいという感情を見つけられなくなってしまったのです。お嬢様の中で、全てのものごとは平なものとなっているだけでございます」
「そんな不条理があるか! 今すぐ戻せ!」
「いいのよ、お兄様」
またたくまに激昂して大声を出したライオの腕に、アリシアは細い指先をのせた。その柔らかな力にライオがびくりとかたまる。彼を見上げるアリシアは、底の見えない瞳のまま言った。
「……アリシア?」
「今わたしとっても気が楽よ。毎日が穏やかで……どんな話を聞いても、心が乱されないの」
「それは……でも!」
「ヒューゴのおまじないのおかげね」
ふわりと、アリシアはきっと微笑んだつもりなのだろう。
けれどその青い目は相変わらずに透明度ばかりが高く、まるでガラス玉のよう。到底視線を交わした実感を得られないまま、ライオは呆然と彼女の人形のような顔を見つめることしかできなかった。
◆
それからのアリシアは、以前彼女が望んだ通りに『人形』のようだった。
話しかければ答えるし、彼女に与えられた日課はきちんとこなす。
けれど『感情』が抜け落ちた様子は、兄であるライオにとっては見るにたえないほどつらいものだった。
「──こんな結末は、望んでいない」
与えられた休暇の最終日。
ライオは自室にヒューゴを呼びつけた。彼は部屋に入ってしばらくは普段と同等に柔らかい表情をはりつけたままだった。けれどライオの苛立ちが激しいものであると見た途端に、「これが約定でしたでしょう」と平坦な調子で言った。
「お嬢様の望みは全て叶える。たとえそれが……どんな結果になろうとも。あなたが最初に私とした約定です」
「くっ……」
ヒューゴはベストの内ポケットから、二つの小瓶を取り出して、そばにあるテーブルの上においた。親指ほどの小瓶には、青と赤の液体がそれぞれに入っている。
「ほら、ここにお嬢様の怒りと悲しみの感情があります。──お返ししましょうか?」
「アリシアに戻せ」
「お嬢様はお望みではありません。ですから元の持ち主にお返しするのが筋かと」
ライオは無言でヒューゴを睨みつけた。
その視線を受け止めるヒューゴは、既に『執事』としての仮面を取り去っていた。今ライオの目の前にいる男は、執事をかたってこの屋敷に潜伏している『魔導師』のヒューゴだ。
──全ての始まりは、十年前に抱いたライオの興味と望みだった。
たまたま献上品で紛れていた美しい人形に心を奪われた少年のライオは、それに魂をこめて『人間』にできないかと考えた。当時、彼は弟を病気で喪ったばかりで、心にぽっかりと穴があいていた。それをどうにかして埋めたかったのだ。
「あなたが望むのならば、あなたの魂を半分入れてさしあげましょうか」
そう言ってライオの望みを叶えたのが、王国屈指の魔導師であるヒューゴだ。「天才魔導師がいる」という噂を頼りに、幼いライオは決死の思いで彼の研究室の扉をたたいた。
そうしてヒューゴの恐るべき魔術で、その人形にはライオの魂の半分が入れ込まれた。ライオの偽りの妹『アリシア』の誕生である。まわりの人間の記憶の書きかえも全てヒューゴが完璧に施した。だからこそ、アリシアはずっとライオの妹として、何の障害もなく生きてこられたのだ。
「……人形になりたい、か」
彼女が以前にぽつりともらした望みを思い出して、ライオは苦々しい表情になった。
「皮肉なものだな」
人形になりたいもなにも、彼女は元々『人形』だ。
「自身の起源に戻りたいという本能があるんでしょうかね……」
興味深いと言いたげに、ヒューゴは呟いた。
彼がひとたび『執事』の仮面を剥げば、そこにいるのは自分の好奇心を満たすためなら何でもする求道者だ。清濁併せ吞む──というより、むしろすすんで後ろ暗いものも取り入れようとする危険思想を持っている。
(この男に、人の情を期待する意味などなかったのに、なぜ俺はアリシアのそばを離れたのか……)
騎士として士官する道は、親によって決められていた。ライオにはどうすることもできなかったし、その全てを悔やんでも、もう遅い。
その時、ライオの部屋の扉がノックされた。
「──お兄様。そこにヒューゴはいるかしら?」
アリシアだった。
一瞬だけライオとヒューゴは目と目を交わし、苦々しく思いながらもライオは扉を開けた。
「ああ、少しヒューゴに用があってね」
「そうだったのね。ちょうどいいわ」
相変わらずの無表情のまま、アリシアはライオの部屋に入り、ヒューゴの前に立った。
「お兄様も明日には王宮へと戻ってしまわれるし、ちょうどいいと思うの。……ねえヒューゴ、もしも感情が全部なくなったらどうなるのかしら?」
とんでもない発言にライオは目を剥いた。
一方でヒューゴは驚く様子も見せずに「そうですね……人形のように、なるかと思いますが」と、再び『執事』の顔をして告げる。アリシアはそんなヒューゴを見上げると、うなずいた。
「……そう、それがいいわ」
「アリシア! 待ってくれ!」
今ですら感情などかけらも見えないのに、この上全ての感情を取り払ってしまったら……。
ライオはヒューゴが目の前にいることも忘れて、アリシアの肩をつかんですがった。
「よく考えてくれ、アリシア! 感情がなくなるということが……、何も感じなくなるというのがどういうことかを……!!」
「お兄様。いいの。私、今とっても退屈なんですもの。いっそスッキリしたいわ」
全くアリシアは、ライオの言葉を気にかけなかった。
聞こえてはいる。意味だってわかっている。
だというのに、まるで心には響いていないのだ。
ライオがアリシアを揺さぶれば、彼女はなされるがまま。嫌がるそぶりも、困った様子も見せない。
ただそのガラス玉の目で、ライオを見つめるだけ。
(──もう……ダメだと言うのか……)
心に暗い雲がかかり、ライオの中の希望をかげらせていく。その最中、背後から無情な声がかかった。
「ライオ様、そこまでです」
ヒューゴの芯の通った声がして、ライオの腕は簡単にアリシアから外された。優男のはずのヒューゴなのに、その力はすさまじくライオは簡単にアリシアから離れさせられてしまう。
「約定を、お忘れなきよう」
◆
こうしてアリシアは全ての感情を、その身から追い出した。
それが意味することは、ライオにも痛いほどにわかる。
ライオの目の前に並べられた小瓶は、四つになった。
悲しみの青、怒りの赤。そして、喜びの黄色、楽しみの緑。
そして、かたわらのソファに腰掛けるアリシア。
呼吸はしている。食事もする。
けれど言葉はもう彼女の中から失われつつあった。
「さて……どうしましょうか。茶番はここまでといたしましょうか」
ヒューゴは微笑み、ライオを試すようにその目を光らせた。その鳶色の目を見て、ライオはようやく気付いた。
十年前、なぜヒューゴが子供の自分の願いを聞き入れたのか。
(ずっと──この瞬間を待っていたのか)
兄妹としての仮初めの関係が破綻する日を。彼女が人間を拒否するこの時を。
彼にとってはこれも研究の一種。結果などどうなってもいいのだ。
彼の望みは、ただひとつ。
事の顛末を最後まで見届けること。
(今更気付いても、もう遅い。それにきっと……たとえ過去に戻れたとしても、俺は同じことをするだろう)
ライオはぎりぎりと歯噛みする。あまりの悔しさに加減ができず、彼の唇には真紅の血がにじんだ。
(──決断、しなければ)
気が遠くなるような沈黙のあと、ライオは声を絞り出した。
「魂を……抜いてくれ」
「かしこまりました」
慇懃無礼にヒューゴは礼をして、いとも簡単な術式ひとつでアリシアを人形へと戻した。青い光に包まれたアリシアは、十年前に手に入れた人形のものへと変貌した。あれだけ感じられた体温も、肌の柔らかさも失われた。
そこにあるのは美しいだけの人形だった。
「……アリシア……」
ライオはその人形を胸に抱いた。自然と涙があふれてくる。
「俺はただ……お前とともに生きたかっただけなのに……!」
ライオの悲しみを、ヒューゴも少しは尊重する気があるようだった。数歩後ずさった場所で、黙ってライオの気が済むまで待つつもりのようだ。
同情されるのも悔しくて、ライオはすぐに涙をぬぐってヒューゴを見返した。
「魂の返還はいかがします?」
「──やってくれ」
「御心のままに」
ヒューゴは微笑み、小瓶の蓋を開けた。今度は少し手間がかかるのか、ヒューゴはその薄い唇でなにがしかの言葉を紡いでいく。ライオには意味などまるでわからない。それは異次元の響きを持っていた。
──そうして気付けば、ライオの視界が真っ暗になった。その目は開いているはずなのに、ヒューゴも小瓶も見えはしない。代わりに感情が豊かな頃のアリシアが現れた。
(ああ……あれは初めて目が覚めた時のあどけない表情。「お兄様」と迷うことなく呼んでくれた……)
人形が目を開いたことに感動したライオは、アリシアがおずおずと自分を「お兄様」と呼ぶのを聞いて、思わず涙をこぼしていた。
目の前のアリシアは駆け抜けるように様々な表情をライオに見せていく。性格はとても素直で、喜びも悲しみも何もかも、彼女はライオに見せてくれていた。
「……アリシア……」
かすれる声で名前を呼んでも、目の前の彼女は応えない。その表情の移り変わりを見つめながら、ライオは涙をこぼした。懐かしさに胸が締め付けられる。呼吸が浅くなり、次第に息苦しさを覚え始める。
ここでようやくライオは、自分の体そのものにかかっている負荷に気付いた。
(なんだ……? 息が……吸えない……)
あえぐように短く呼吸を繰り返しても、わずかばかりの空気しか身に入ってこない。次第に胸が痛み出した。それは感覚的なものでもなんでもなく、本物の痛覚だった。
「うっ……」
もはやライオの目の前にアリシアはいない。
どんなに目をこらしても、広がるのは闇ばかり。
何故こんなことになったのか──その答えを知るはずの者の気配すら、もうライオには感じ取ることはできなかった。
◆
くたりと力の抜けて横たわるライオの体が、みるみるうちにアリシアと同じサイズの人形へと変化していく。その様を見下ろすヒューゴの表情は、目の奥に好奇心のきらめきをのせて輝いていた。
「──やはり一度器が変われば、その魂はもう違うものになってしまうようですね」
無造作に人形を拾い上げ、ヒューゴはしばらくそれを観察した。彼が最初に魂を入れた時と同様の、美しい騎士姿の人形だ。
そう、なんてことはない。
ライオは自分を人間だと信じていたが、彼もまた人形だった。元々は男女一対の人形だったのを、ヒューゴが気まぐれで男の方にだけ魂を入れたのが、はじまりの始まり。
「やはり私の魔道の力は素晴らしい。最後まであなたは気づきませんでしたね」
ヒューゴは微笑み、テーブルの上にそっと二人を並べ、手をつながせた。こうやって騎士と姫君の人形は並んで売られていたのだ。
ライオが、自分のかたわれのようにアリシアを想っていたことは、ある意味必然だった。彼自身は『人形に想いをかたむけるなんて』と悩んでいたようだったけれど。
「なかなか面白いものを見せてもらいました」
事の顛末を見届けるのに思った以上に長い時間がかかったものの、ヒューゴにとってはそんなこと気にならないほどに得られるものがあった。彼自身はもはや時の理など及ばない存在であったから。
「これからはずっと一緒ですよ。永久に」
最後に人形たちを一瞥して、ヒューゴはその顔から表情を消した。