#4
ユーリの目的地はそう遠くない。
後宮の庭の最端付近だ。
元々ユーリに割り当てられた部屋が中心から外れているのもあって、子供の足でもすぐに到着できるほどの距離だった。
今日は、レティシアナに捕まってしまったせいで遅くなったけれど。
ユーリは頭の中で予定を立て直しつつ、最後の茂みをくぐり抜けた。
「よいしょ」
幼児に似合わぬ掛け声をかけて立ち上がる。
途端、さああ、と涼しげな水音が耳をくすぐった。
白亜の噴水だ。
といっても、それは長いあいだ放置されていたのか、蔦が絡み付いて瑞々しく大きな葉を茂らせていた。
噴水から少し離れた場所には東屋が建てられている。きれいに均された大理石を床に敷き、屋根は美しい稜線を描く。
その、風除けにつくられた壁には、ひとりの少女が長い亜麻色の髪に小さな白い花をいくつもくっつけて満足げな表情で立っていた。
ユーリが片手に握りこんだオレンジを放り上げれば、少女も同じように動く。
鏡。
東屋の壁には、一面に巨大な鏡がはめ込まれていた。
誰がどんな意図でつくったのかは知らないが、いまのところ製作者の恩恵に預かっているのはユーリだけだろう。
オレンジを噴水の中にひたし、ユーリは鏡の前まで足を進める。
「さて」
ユーリは床にぺったりと腰を降ろした。
ぐいーっと思い切り前に倒れる。
「いち、に、さん、し」
ゆっくりと数をかぞえて、次は足を大きく開く。ほぼ百八十度になるように爪先までぴんと伸ばし、右の足へ体を倒して再び数をかぞえる。
(子供の体ってすごい)
ユーリは深く息を吐きながら、つらつらと感心した。
最初は多少の抵抗があった体でも、やはり子供は柔らかいのだろう、ストレッチを始めればあっという間に思いのままに動くようになる。
生前の悠里は体が固くて苦労したものだったけれど。
「よし」
一通りストレッチをこなすと、ユーリは立ち上がった。
鏡の前で、背筋を伸ばす。
(――一番ポジション)
踵をそろえ、両手を前へ。
ふわり、空気を抱くように開き、腰を落とす。
プリエ。
短い手足が優雅に動こうと頑張る様子は我ながら背伸びしていて、少しだけ気恥ずかしかった。
この東屋を見つけたのは偶然だが、以来、ユーリは運動不足解消も兼ねて数日に一度はこうして体を動かすことにしていた。鏡を見て、どうせなら好きだったバレエでと思ったのだ。
――悠里がバレエを習いはじめたのは、実は大学に入ってからだった。
友人に誘われてついていった劇場で、ダンサーたちの優美さ、エネルギッシュさに一目で惹かれた。
悠里は思い切り文化系なうえ、リズム感もさほど良くなかったので、教室でも落ちこぼれで覚えられた演目も振りつけも少ない。
(でも、せっかく生まれ変わったんだから)
一から始めるには都合が良いに違いない。
少なくとも、バレエの体をつくるという点においては、幼少期からの方がいいはずだ。
(誰に見せるわけでもないんだけど)
そもそもこの世界に、バレエはないだろう。
ユーリの教育のためにダンスの授業は組まれているが、それだってどちらかといえば社交ダンスの類だ。
似たものならあるかもしれないが、ユーリはまだ見たことはない。
「……はふ」
すとん、と踵を下ろして再び姿勢を整える。
わずかに切れた息を治めようと、深呼吸をする。
――そろそろだ。
耳を澄ませる。
「……あ」
きた。
鍵盤の、軽やかな音色。
誰がどこで奏でているのかは分からない。
けれど、
(好きだなぁ)
ぽーん、と楽しげに跳ねた高音に合わせて、ユーリは稚い足で床を蹴った。
振りなんてめちゃくちゃだ。
トゥで回って、シャンジュマン・ド・ピエをきめてみる。
そのたびによろけるけれど、ユーリは構わなかった。
だって、ここでは誰が見ているわけでもない。
――それに、ただ楽しかった。
ゆったりと変化した音色に乗るように、人魚の尾をイメージして手を泳がせてみる。
最後は、アティチュード。
このポーズがユーリは一番きれいに思えて好きだった。
……ぽろん、と図ったように音楽が途切れる。
(おわり)
弾む息を堪えて、ユーリは膝を折ってお辞儀をした。
レヴェランス。
――静寂がおちる。
噴水の水が流れる音と、どこかから鳥の囀り、あとは風で木の葉がこすれる音だけ。
十分な余韻に満足して、ユーリは顔をあげた。
そのとき、
パチパチパチパチパチ、と。
出し抜けに響いた拍手にユーリは飛び上がった。