2. 五ヶ月前
時間を五ヶ月ほど巻き戻してみよう。
正確には、あの人当たりの良すぎる片瀬先輩の存在をまだ全く知らなかった頃だ。なにせ彼女がここでアルバイトの面接を受けたのは、俺の数週間後のことなのだから。
その頃の俺は、新しいバイト先を探して頭を悩ませている、ただの平凡な大学二年生だった。
俺の生活はいたって標準的だった。小さな賃貸アパートで一人暮らしをしている。
故郷の両親は俺の学費を稼ぐために必死で働いているから、余計なお小遣いをねだって負担を増やしたくはなかった。
では、妹はどうしているのか? なぜだか知らないが、彼女は交換留学プログラムに見事合格し、今頃はロシアで楽しく学んでいるところだ。
(マジでロシア? そんな寒いとこに……? たまに俺には妹の思考回路が理解できない)
要するに、余裕のない生活を送っている俺としては、ただ平和な大学生生活を謳歌したいだけなのだ。
それに、恋愛経験なんてこれっぽっちもない。アパートで一人きりで過ごすには、自由な時間が余りすぎているくらいだった。
そんなある日、大学の掲示板に貼ってあった一件のアルバイト募集のチラシが目に留まった。
【急募:深夜帯アルバイトスタッフ。時給:1,500円。場所:ネットカフェPORT、横浜】
「ネットカフェのくせに時給一千五百円!? なんだこの好条件……もしかして詐欺か?」
だが、警戒心よりも好奇心が勝ってしまった。おまけに、大学生の間でまことしやかに囁かれている噂を思い出したのだ。
【ネットカフェPORT】
なんでも、若くして大成功を収めた敏腕経営者が切り盛りしている店らしい。店内はとてもお洒落で、オーナーは驚くほど美しいキャリアウーマンなのだとか。
綺麗に記入した履歴書を手に、俺はその日の夜、指定された住所へと面接のために足を踏み入れた。
ドアベルが鳴り響き、足を踏み入れた瞬間、俺が抱いた第一印象は――すげえ、だった。
そこは、駅の近くによくあるタバコ臭くて淀んだ、薄汚いネットカフェなどでは全くなかった。とても洗練された空間だった。
インテリアはダークブラウンの木目を基調とし、控えめでありながらエレガントな温白色の間接照明が灯されている。エリートの図書館のように綺麗に並べられた漫画の棚、そして厳選された豆を挽くコーヒーの芳醇な香りが鼻腔をくすぐった。
いわゆるミニマルデザインというやつだが、上品さを伴うミニマルだ。これっぽっちもいやらしさがない。
「いらっしゃいませ。何かお探しでしょうか?」
冷たく凛とした声がレジカウンターの奥から響いた。
振り返る。そこで俺は初めて彼女を目撃した。青葉凛だ。
肩の高さできれいに切り揃えられたミッドナイトブルーの髪。サファイアブルーの瞳が、俺の細部に至るまで品定めするかのように静かに見据えていた。
彼女はカジュアルでありながらも非常にプロフェッショナルなシャツに身を包んでいた。
「あ、こんばんは。アルバイトの面接に参りました、保土ヶ谷陸と申します」と、俺は軽く頭を下げながら言った。
「そう。それじゃあ奥の事務室へ来てちょうだい、保土ヶ谷さん」
〇
「最初に、私から自己紹介をしておくわね。私はこの『ネットカフェPORT』のオーナー、青葉凛。ま、あなたからは青葉さんって呼んでくれればいいから」
「は、はい……青葉さん」
整然とした小さな事務室の中で、面接が始まった。青葉さんは俺の目の前に座り、俺の履歴書をじっくりと読み込んでいる。
「保土ヶ谷陸。横浜大学の二年生、ね?」と、手元の紙から目を離さずに彼女が尋ねる。
「はい、青葉さん」
「成績は悪くないみたいね。でも、大学の講義との両立に問題はない? ここの深夜シフトは夜の十時から朝の六時までよ。本当に体が持つのかしら?」
「あ、それなら大丈夫です」
「夜更かしには慣れていますから。それに、今期の講義は昼からのクラスがほとんどなので、午前中にいくらでも寝る時間は確保できますから」
青葉さんは履歴書を机に置き、腕を組んだ。
「正直に言うけど、保土ヶ谷さん。私が提示している時給はネットカフェの割にはかなり高い方よ。だけど、深夜帯の仕事は楽じゃないわ。酔っ払い客が来たり、理由も告げずに何日も居座ろうとする奴がいたりもする。うちに応募してきた一番の理由はなに?」
俺は彼女のサファイアブルーの瞳を真っ直ぐに見据えた。かっこよく見せようと嘘をついたところで、目の前の女性には一発で見抜かれるだろう。
「お金」
青葉さんは片方の眉をぐっと上げた。「は? それだけ? ほかに理由は……?」
「はい。両親が俺の学費を工面するために必死で働いていますし、妹はロシアに留学中ですからね。生活費くらいは自分で稼いで自立したいんです。それに――」
「それに?」
「彼女はいませんし、面倒くさい青春の恋愛経験をわざわざ作ろうとも思っていません。だから、夜の時間は完全にフリーなんです。アパートでぼんやり過ごすくらいなら、こんな静かな場所で働いてお金を稼いだ方がマシですから」
あまりにも率直すぎる俺の答えを聞いて、青葉さんはわずかに目を見張った。
モーター音が聞こえそうなほど一瞬動きが止まった後、彼女の肩が小さく震え出す――。
「ぷっ……」
彼女は顔を横に向け、手の甲で口元を覆った。
ストレートの髪が顔の半分を隠しているが、笑いを必死に堪えているのは火を見るより明らかだった。
「へぇ……本当に正直なのね、君は」冷たかったはずのトーンが、少しだけ柔らかくなっていた。「恋人もいなくて、青春の思い出作りに興味もない、と。今の大学生にしては、あまりにも現実的な答えね」
「面倒なことが嫌いなだけですよ、青葉さん」
青葉さんは再び俺の顔に視線を戻した。今度は唇にうっすらと笑みが残っている。威圧的な雰囲気がどこかへ消え去っていた。
「この『ネットカフェPORT』はね、私が居心地の良い逃避場所をコンセプトに作った店なの」
「客に愛想を振りまくような従業員は必要ないわ。空気を読んで、黙るべき時をわきまえ、この店の秘密と快適さを守ってくれる人間がいればそれでいいのよ」
彼女は一度言葉を切ると、テーブルの向こう側へと右手を差し出した。
「採用よ」
「えっ……こんなに早くですか?」
驚きつつも、俺はその手を取って握手を交わした。彼女の手は柔らかかったが、その握り方は非常にしっかりとしていた。
「勘違いしないでよね。私、これでも人の見極めにはちょっと自信があるのよ」
「君は、状況を悪用したりしない、真面目に働くタイプの人間のように見えるから。来週からさっそく入ってもらうわ。よろしくね、陸くん」
待てよ。
俺はまばたきをした。
「陸……くん?」と、聞き間違いではないかと確認のために繰り返す。
青葉さんは手を引っ込めると、何食わぬ顔で机の上の書類の山を整え始めた。
「そう、陸くん。どうかしたの? 何か問題でも?」
流し目でこちらを見つめてくる。再びいつもの厳しい店長の表情に戻っているが、なぜか頬にほんのりと赤いものが差していた。
「い、いえ。ただ、初対面で下の名前呼びって……社会人としてちょっと展開が早くないですか、青葉さん?」
「ここは私の店なんだから、私のルールに従ってもらうわ」と彼女はすかさず言い放ち、どこかツンとした口調になった。「それに、苗字で呼ぶのは堅苦しすぎるもの。それに……なぜだかあなたのその無愛想な顔には、下の名前の方がしっくりくる気がするし」
「はぁ……そういうものですか」
俺はそう答えるしかなかった。初日に雇ってくれたボスと口論するのはどう考えても得策ではない。
「わかりました、青葉さん。来週からよろしくお願いします」
〇
というわけだった。
バイトの面接は驚くほど順調に進んだ――いや、順調すぎたと言ってもいい。
あの時の俺には知る由もなかったが、その日は、俺の『白紙のような人生』に、予想もしなかった鮮やかな色が塗り重ねられていくすべての始まりだったのだ。
あんなにも強くて自立した若きオーナーだった彼女が、五ヶ月後には事務室のドアの裏で悲しげな顔をしている姿を何度も目撃するようになろうとは、誰が予想できただろうか。
まあ、それはまた別の話だ。とりあえず今は、ネットカフェPORTでの俺の初めての深夜シフトが、まさに始まろうとしているところだった。




