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第十六話第五章

――――――翌朝――――――

 初出勤の緊張はまだ胸に残っていたが、通久は昨日の出来事を反芻しながら会社のビルに足を踏み入れた。受付カウンターに目を向けると、そこに座っているのは――斧江さん。制服姿の彼女は、何事もなかったかのように業務用の端末に視線を落としていた。あの恐ろしい口裂け女の姿とは打って変わり、柔らかく落ち着いた雰囲気をまとっている。


 「おはようございます、斧江さん」通久が控えめに声をかけると、彼女は顔を上げてぱっと笑みを浮かべた。

 

 「……あ、浜西くん。おはよう」その声は少し照れたようで、昨日泣いていたときの面影を思わせた。


 エレベーターへ向かおうとしたが、何となく通り過ぎられず、通久は足を止めて言葉を続けた。

 「昨日は、その……助かってよかったです。今日もよろしくお願いします。」


 すると斧江さんは、不意に立ち上がり、小走りで近づいてきた。

 「ねえ、ちゃんと話しかけてくれるんだ……。私のこと、忘れてないんだね」潤んだ瞳が間近に迫る。次の瞬間、彼女はそっと通久の腕に自分の腕を絡め、ぎゅっと抱きしめた。


 「ちょ、斧江さん……」通久は周囲を気にして小声になるが、彼女は小さく笑った。

 

 「いいでしょ、ちょっとくらい。だって、あなたしか私を見てくれないんだもの。」


 その声は甘えるようで、同時に切実さも含んでいた。通久は振りほどくこともできず、ただその温もりに戸惑う。

 「……分かりました。でも、人前では少し控えめに、お願いします」


 「ふふっ……浜西くん、優しいんだね。」斧江さんは頬を赤らめ、ようやく腕を放した。ほんの短い時間だったが、その仕草は確かに乙女のようで、通久の胸に妙な熱を残した。 


 その日の夕暮れ、通久が帰宅すると、玄関で待っていた玉藻がぷいと頬をふくらませていた。

 

 「……お帰りなさいませ、通久様」言葉は丁寧なのに、その声色は拗ねている。


 靴を脱いでいると、不意に玉藻が近づき、じっと顔を覗き込んできた。

 「会社で女の人と仲良くしていたでしょう?」

 

 「え……あ、見てたの?」

 

 「見てはいません。でも匂いで分かります。……女の人の香りが、通久様に」狐らしい勘の鋭さに、通久は思わず苦笑する。

 

 「いや、別に仲良くしたわけじゃないよ。ただ、同じ職場だから話しかけただけで。」それでも玉藻は小さな声で呟いた。

 

 「……私だけの通久様なのに」その一言に、通久の胸はくすぐったいような温かさに包まれる。


 「玉藻だって、私の大事な存在だよ」そう告げると、彼女は一瞬驚いたように目を丸くし、それから恥ずかしそうに視線を逸らした。


 その後、二人で夕飯を囲んだ。玉藻が腕を振るった料理は、色とりどりで味も抜群だ。

 「これ、本当に美味しい。玉藻は料理の才能あるんじゃないかな」

 

 「……通久様に喜んでいただけるなら、それが一番の幸せです。」頬を赤らめながら箸を進める玉藻は、嫉妬心をまだ隠しきれないが、その表情には微笑ましい照れが混じっていた。


 夕食後は二人でリビングに移り、テレビで映画を観た。画面の中で恋人たちが寄り添う場面になると、玉藻はそっと通久の肩に頭を預ける。

 「こういうの……羨ましいです」

 

 「え? 私たちだって、十分に似たようなことしてるんじゃない?」冗談めかして返すと、玉藻はさらに頬を赤らめ、彼の腕にぎゅっと抱きついた。

 

 「……やっぱり、私だけの通久様です」映画の音声は次第に耳に入らなくなり、二人の世界だけが部屋に広がっていった。玉藻の笑みと拗ね顔を交互に見ているうちに、通久は自然とその柔らかな髪を撫でていた。


 映画の音が静かに流れる中、玉藻は通久の肩に頭を預けたまま、小さく息を吸い込んだ。

 「……通久様」呼ばれて顔を向けると、その瞬間、玉藻の唇がそっと触れてきた。柔らかく、温かく、あまりに唐突で。


 「……っ!」通久は目を見開いたが、玉藻もすぐに顔を離し、真っ赤になって視線を逸らす。


 「い、今のは……! わ、忘れてください……!」声は震え、耳まで赤く染まっていた。


 「玉藻……」通久もまた、どう言葉を返せばいいか分からず、胸が早鐘を打つばかりだった。二人の間に気まずい沈黙が落ちる。テレビの音だけが取り残されたように響く。


 やがて、玉藻は居たたまれないように立ち上がり、寝室へと歩いていった。

 「……もう、寝ます。」小さな声でそう告げて布団に潜り込む。その後ろ姿に通久は追いかけることもできず、結局、自分も灯りを落として横になった。


 夜の間中、互いに何度も寝返りを打ち、相手の気配を意識してしまう。けれど結局、言葉にはできないまま、二人は眠りに落ちた。


――――――翌朝――――――

 玉藻が目を覚ましたのは少し遅めの時間だった。居間に出ると、通久が食卓にパンとコーヒーを並べていた。


 「おはよう、玉藻」努めていつも通りに声をかける通久。しかし視線がわずかに逸れる。

 

 「……おはようございます、通久様」玉藻もまた、いつものように微笑もうとして、どこかぎこちない。


 昨夜のキスが頭から離れない。互いに触れず、言葉にせず、けれど確かに残っている。

 「パンでよかった?」

 

 「はい……通久様の淹れてくださったコーヒー、香りがとても落ち着きます」会話は続くが、どこかぎこちなく、互いに目が合えばすぐに逸らしてしまう。


 食後、二人はしばらく無言で過ごした。窓の外からは休日のにぎやかな気配が漂ってくる。街を歩く声や遠くの子どもの笑い声が、部屋の静けさを逆に際立たせていた。


 「……今日は土曜日だな」通久がぽつりと呟くと、玉藻がこくりと頷いた。

 

 「はい。……通久様、お仕事はお休みですよね」

 

 「うん。だから……どこか行こうか。家に籠もってるのも勿体ないし」思い切って提案すると、玉藻の狐耳――いや、人の姿なので耳は見えないが、ぴくりと動いた気がした。


 「どこかに……通久様と?」

 

 「もちろん。せっかくの休日だから、一緒に出かけよう」玉藻は目を丸くし、それから頬を染めて小さく笑った。

 

 「……はい。通久様となら、どこへでも」


 返事を聞いた瞬間、部屋の空気が少し和らいだように感じた。昨夜のぎこちなさは消えないが、それでも前に進もうとする気配が二人の間に生まれていた。


 「じゃあ、着替えて準備しようか。街にでも出て、のんびり歩こう」

 

 「はい……楽しみです」


 玉藻の瞳は期待で輝いている。その笑顔を見て、通久は心の奥の緊張をわずかに解いた。休日の始まりは、少し不器用な一歩からだった。

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